第15話 グルノールでのこれからの予定
三羽烏亭でアルフレッドと別れ、歩いて帰ろうとしたらレオナルドに止められた。
三羽烏亭から城主の館までは何度となく歩いたことがあるのだが、私の一人歩きは心配だと言う。
本当の一人歩きはさすがに自重するが、私には
「セドヴァラ教会へ寄り道しようと思っているので、アルフレッド様まで連れ回すことはできません」
「セドヴァラ教会へ? なんの用があるんだ?」
王都でなら秘術の復活についての打ち合わせなどで付き合いがあったので不思議はないかもしれないが、グルノールのセドヴァラ教会とはそれほど接点がない。
レオナルドが不思議に思うのも無理はないのだが、私個人がグルノールのセドヴァラ教会と接点がなくとも、ジャスパーとは接点がある。
グルノールの街へと戻ってきた私が会いに行っても、それほど不思議はないと思う。
「ジャスパーに王都のお土産を渡すのと、三つの秘術が無事に完成したって教えてあげに行こうと思いまして」
「ジャスパーに会いにか……」
ムムムッとレオナルドの眉間に皺がよる。
近頃過保護が悪化しているレオナルドだが、もともとは理性で己を制することのできるレオナルドだ。
理由を話せばちゃんと考慮はされるし、回数を重ねれば私が少し出かけたぐらいでは精霊に攫われないと安心もするだろう。
……まあ、精霊にはもうそうそう攫われないらしいから、警戒する必要はないしね。
本当に、レオナルドにはそろそろ慣れて安心してもらいたい。
心配のしすぎは体によくないと思うし、過剰に束縛されては私も動き難い。
束縛などわざわざしなくとも、私はどこへも行かないのだ。
結局、セドヴァラ教会へはアルフレッドも同行することになった。
ただジャスパーにお土産を渡しに行くだけなのに王子さまの同行なんて、と辞退したのだが、逆にただ
王子さまを馬車に残してお土産を渡されていると知ったら、むしろジャスパーの胃がキリキリと痛みそうだ。
……それはそれで、ちょっと面白そう?
もしくは、アレで意外と図太い神経をしていたので、ジャスパーはなんとも思わないかもしれない。
同行しているジゼルの胃を心配した方がいいかもしれないぐらいだ。
アルフレッドを乗せた馬車でセドヴァラ教会へと向かうと、診察や調薬を受け付けている入り口とは違う、薬師たちが使っている玄関へと馬車を付ける。
開放された正面入り口とは違い、薬師たちが使うだけなので、広めではあるが一般的な広さだ。
ジャスパーへの面会依頼を受付へと提出し、事前に連絡は入れておいたのでジャスパーはすぐに玄関ホールへと姿を見せた。
冬の初めに別れて実に半年以上ぶりになるジャスパーは、とにかく酷い姿だ。
「薬師なのですからお風呂に入って、睡眠もとって、体調管理してください。髪を整えるのは社会人として人前に立つ時の最低限の身だしなみですよ」
「……うちの学者は大体こんな感じだぞ?」
目の下にクマがあり、編まれた髪はあちこちから解れ毛が飛び出し、若干臭う気がする。
これが『医者の不養生』というやつだろうか。
ジャスパーは研究を主にしている学者と呼ばれる薬師だが、治療も調薬も行うので医者と考えても間違いではない。
そのお医者様が、なぜこんな酷い有様に、と嘆くと、その理由は他の学者仲間にあるようだ。
城主の館や離宮にいる間は身だしなみにも気を遣う必要があったが、ここではそうではない。
紳士や淑女の視界に入ってしまう危険を考えて身だしなみを整える暇があれば、自分の抱えている研究を少しでも進めたい、という者ばかりが集まった場所にジャスパーは戻った。
周囲が身だしなみに気を遣わないのなら、自分も気を遣う必要はないとばかりに、ジャスパーは自分の健康管理を後回しにして写本作業をしていたようだ。
「今日はわたくしが訪ねると連絡を入れてあったはずです。せめてお風呂ぐらい入っていてほしかった……」
目の前で鼻をつまむのは失礼かと思い、ほのかな臭いに耐える。
その代わり、顔が真顔になってしまうのはどうしようもないことだと思う。
「……とりあえず、王都から帰ってきましたので、そのお知らせとお土産を持ってきましたよ」
どうぞ、といってミルシェを促す。
三羽烏亭へ連れて行くことが主な目的だったが、ミルシェは仕事で連れ出しているのだ。
荷物持ちも立派なお仕事である。
「土産って……俺も結構長く王都にいたんだが……」
「でも、お土産はお土産です。日持ちする干した果物を選んだのですけど……」
丁度よかった気がします、としみじみとジャスパーの様子を眺めて口に出す。
城主の館や離宮では身奇麗にしていたので、
睡眠や髪を整えることすら後回しにするジャスパーが、食事だけはしっかり摂っているとは考え難くもある。
「非常食に丁度いいと思います。片手で摘めますし、倒れる前に食べてください」
「……グルノールへ帰って来たってことは、秘術は完成したのか?」
これ以上の小言はお断りだ、とでも思ったのかもしれない。
非常食から話題を変えてきたジャスパーに、ちょっと睨んで唇を尖らせる。
いい大人の健康管理など私が口を挟むことではないが、それでも心配しているのだから話をはぐらかされたのは面白くない。
「ちゃんと宣言通り、三つ完成させて帰って来ましたよ」
褒めるが良い、と薄い胸を張る。
ただ日本語を読んだだけなのだが、お手柄はお手柄だ。
少しぐらい褒め言葉を要求してもいいはずだ。
「おー、偉い、偉い。よくやった」
「……褒め方が雑ですよ。あと、棒読みです」
「おまえの方こそ、猫が脱げてるぞ」
私の猫はいいのだ、とそっぽをむく。
淑女対応など、貴族向けに使うものなので、ジャスパーや城主の館の中でまで徹底する必要はたぶんない。
ないったら、ない。
……あ、今頭の中でヘルミーネ先生が「淑女は常に気を抜かないこと」とか言い始めた。
近頃気が抜けすぎている自覚はあるので、少しは意識した方がいいかもしれない。
とはいえ、やはりジャスパー相手には不要だ。
「それで、グルノールの街に戻ってきて、おまえはどうするつもりだ? 薬師を使って調薬するんなら、王都の方があれこれ便利だろ」
「大人になったらまた王都に行くかもしれませんけど、子どもの間はレオナルドお兄様と一緒にいます。グルノールでだって、翻訳作業ぐらいはできますしね」
実際の調薬作業は薬師たちの手を借りなければできないが、聖人ユウタ・ヒラガの研究資料をエラース語に直す作業はどこにいたってできる。
翻訳作業を少しずつ進めながら、子どもとして扱われるうちは兄の傍で過ごす予定だ。
「エラース語に直した
そういう話になっているので、王都では今頃復活させる秘術の順番を決めているのではないだろうか、とも追加する。
間は
七年という時間はさすがに長すぎる気がするが、前回のように最初から後回しにされる薬はなくなる。
「処方箋といえば、お薬以外のレシピもあって、あの研究資料は結構面白いですよ」
「薬以外? 聖人の研究資料にか?」
「体に悪影響のない化粧水の作り方や、人にも使える石鹸の作り方なんかも載っていましたね」
「それは……たぶん作り方が普通に残っているな。人にも使える石鹸ってのは、セドヴァラ教会で作っているし、売っている」
石鹸は薬に比べて作り方が簡単すぎるため、普通に定着することができたのだろう。
メンヒシュミ教会に残された印刷機のように複雑な物は転生者がもたらして以降の進化がないが、工程が単純なものや、悪い意味で必要とされる物はこの世界に根付いていた。
「同じ物があるのなら、エラース語に直したレシピで誰かに作ってもらって、今も残っているレシピと同じ物ができるかを比べてみるのも面白そうですね」
復活させた処方箋を翻訳したものが、他の薬師たちに通じるかと王都でやっていた実験と同じようなものだ。
私のエラース語翻訳が翻訳として正しく、内容を間違いなく処方箋を読んだ誰かへと伝えることができるのか、は重要な問題になる。
「危なくなさそうな物なら、ここで作ってみればいい。ここにいるのはセドヴァラ教会の薬師ばかりだから、作業をさせるのはまた別の誰かを連れてくる必要があるが……」
「薬師じゃない知人ならいるので、大丈夫ですよ」
調薬について素人の知人には困らない。
私は日本語で書かれたレシピを読んでエラース語に直す役なので実作業にはむかないが、ジゼルやミルシェがこの条件に当てはまる。
「でもいいのですか? ジャスパーも忙しいのですよね」
「たまの息抜きは必要だし、なんだかんだと材料を集めるにはセドヴァラ教会は便利だからな」
私のすることは最終的に聖人ユウタ・ヒラガの秘術復活へと繋がるので、セドヴァラ教会内ではかなり融通を利かせてくれるだろう、というのがジャスパーの見解だ。
少々期待されすぎな気がするのだが、有難くもある。
有難く、セドヴァラ教会へは時折寄らせてもらうことにした。
出発間際になってアルフにくっついて離れないアルフレッドという少々の問題はあったが、王都へと戻るアルフレッドを見送ると、私の平穏な生活が戻ってきた。
家庭教師のヘルミーネがいなくなってしまったことは寂しいが、その代わりではないが館にはミルシェが一人増えている。
プラスマイナスで考えればゼロだ。
すぐにこの生活にも慣れるだろう。
「さて、なにから始めましょうか?」
調子は完全に戻っているため、これまで遠ざけられていた仕事と向き合う。
少し考えただけでも思い浮かぶやりたいことや女主人としての仕事に、頭がグルグルと混乱してきたので考えることは放棄した。
……頭でだけ考えるから、いけないんですよ。一つずつ書き出そう。
思考を纏める時にはいつだってお供として
オレリアのために整えた部屋から運ばせた椅子に座って、塗板へと思いつくままに仕事とやりたいことを書き出していった。
「使用人を増やす、部屋の模様替え、家具の新調、翻訳作業とその実験、ボビンレースの指南書の印刷……ちょっとやりたいことが多すぎるね」
一応私のやるべき仕事だとは思うのだが、趣味の範疇にも感じている。
以前のように刺繍の内職でお小遣い程度は稼ぎたい気がしているのだが、これではそんな時間は作れそうになかった。
「とりあえず、優先順位を付けましょう」
使用人の増員についてはカリーサに相談した方がいい、とヘルミーネから助言を貰っている。
有難くヘルミーネの助言に従ってカリーサへと相談をすると、使用人を増やすことについてはミルシェが仕事を覚えてからの方がいいだろう、という返答を貰った。
人手はあった方がいいかと思っていたのだが、ミルシェが仕事を覚える前に次の人間を入れると、ミルシェの教育が不十分になり、新人の教育にタビサとバルトの手が割かれ、結局は仕事が楽になるどころか増えてしまう結果になるそうだ。
「人を増やすのも、難しいですね」
ではミルシェの様子を見てからにしよう、ということで使用人の増員については後回しにする。
次に優先すべきことは、と一覧を覗いて目に付いたのは家具の新調だ。
翻訳作業等の机に向かう仕事は、体格にあった家具でなければ体にかかる負荷が大きい。
「家具については、商人や職人を呼んで打ち合わせをする必要がありますね」
「これまでの物と同じでよろしければ、ティナお嬢様の現在の体格を測って注文するだけでもでき上がりますが……」
「それが簡単そうでいいですね」
同じデザインの家具であれば、壁紙などの大掛かりな模様替えはやめた方がいいかもしれない。
それが楽だし、費用も少なくなると思っていたのだが、職人についてはレオナルドが連絡を入れてくれてしまったようだ。
レオナルドの在宅中に合わせてやって来た商人と職人に、ヘルミーネに教わった淑女の笑みを貼り付けて対応する。
どうも部屋の模様替えについては私以上にレオナルドが張り切っているようなので、思い切って壁紙を替えることにした。
これまではミントグリーンの壁紙にチョコレート色の家具でチョコミントといった雰囲気の部屋だったのだが、今度は落ち着いた若葉色の壁紙にチョコレートよりは明るいこげ茶の家具で、カントリー風になる予定だ。
若い女の子の部屋として地味ではないか、とレオナルドは眉を寄せたが、暖かで素朴な雰囲気にしたいのだと言ったら納得してくれた。
決定打は、『素朴』だと思う。
自室の素朴さに満足して、私が屋根裏部屋を使う回数が減ればいい、とレオナルドの中で計算されたのだ。
……翻訳作業は家具が揃ってから、かな?
気の向くままに翻訳をすれば、作業に没頭してしまってジャスパーのようになってしまう危険性がある。
私の周囲にはお世話をしてくれる人も、働きすぎは止めてくれる人もいるのだが、自分でも自制できる範囲では自制するべきだ。
「あとは、ボビンレースの指南書の印刷についてですね」
これはメンヒシュミ教会の印刷工房の手を借りることになるので、メンヒシュミ教会への相談が必要となる。
誰に相談すべきかと考えて、まずはニルスに相談することにした。
相談があるので会いたい。いつなら都合がいいか、と訪ねていく日を聞いたつもりだったのだが、返事の代わりにニルス自身が館へとやって来る。
「呼びつけるつもりではなかったのですが……」
相談を持ちかける身なので、こちらから出向くつもりでいたのだが、と二年ぶりのニルスに詫びる。
二年ぶりのニルスは、成長期に入って背はぐんと伸びているのだが、体つきや面差しは変わっていない。
そして、声は一段低くなっていた。
明らかにニルスと判る顔なのだが、背が伸びて声も変わっているために、なんだか別人のようにも感じる。
「ティナお嬢さんからの注文には全力で応えるように、と導師から言われましたから」
「あー、そうですか。レオナルドお兄様が毎年多額の寄付をしていますからね……」
それで私からの手紙が優先されたのだろうと思うと、少し申し訳なくなった。
「
知を求めるメンヒシュミ教会では、新しい本が増えることは歓迎しているので、私からの連絡をむしろ待っていたぐらいらしい。
呼びつけて申し訳ないな、と思うのは私だけで、あちらでは連絡があったら即行動に移れるようにと待ち構えていたようだ。
……でも、話が通っているのなら、早くていいかもね。
まずはこれを見てください、と王都で印刷した装丁の豪華な指南書と原稿を見せる。
ニルスは豪華な装丁に驚いていたが、これは貴族向けに装丁で遊んだだけなので、平民でも手が出せる値段にしたい。
一般向けの本でまで、同じ装丁にするつもりはない。
装丁や印刷部数、紙やインクの仕入れについてを聞かせてもらい、落とせるところは値段を抑える。
「やっぱり、じっくり相談できる人がメンヒシュミ教会にいてくれてよかったです」
「僕としては、ティナお嬢さんはできない理由を話せば考慮してくれるので、助かります」
私がメンヒシュミ教会で本を印刷することにしたように、自費で本を印刷する人間は時々いるらしい。
最初から本作りにかかる費用を知っている者なら納得の値段設定なのだが、中にはやはり高いと値切りはじめる者もいるのだとか。
そういった手合いはなにかにつけて工房へとケチをつけてきて、印刷の終わった後でも値切りをしてくるらしい。
印刷工房の苦労話などを交えつつ、ボビンレースの指南書について相談する。
さて、とりあえずの費用を計算するためには何冊印刷するか、という話になって、ニルスと二人で頭を抱えることになった。
「これは導師アンナからの伝言でもあるのですが、メンヒシュミ教会の図書室へも置きたいので、国内のメンヒシュミ教会と最低でも各国の首都にあるメンヒシュミ教会分は購入させてください、ということです」
「それは……いったい何冊ぐらい印刷すればいいのでしょうか?」
本の販売を商売にするつもりはないのだが、少し考えただけでもメンヒシュミ教会分だけで王都で印刷した冊数以上になりそうだ。
どのぐらい刷ればいいのか、とニルスに聞いてみたところ、ニルスにはおおよその数が判るらしい。
「イヴィジア王国には王都と五都市、それからメンヒシュミ教会のある街や町は十二ありますから……十八冊。印刷工房にも見本として三冊置かせていただきたいです。他国のメンヒシュミ教会へは最低一冊でもいいのですが、これは余裕をもってイヴィジア王国分と同じだけ購入したいそうです」
あとは個人的に導師アンナが一冊購入したいらしい。
単純に計算して七十六冊になる。
「……思っていたよりも多いですね」
漠然と『本を作ってボビンレースを広めるのだ』と思っていたのだが、販売方法についてはろくに考えていなかった。
多めに印刷しても五十冊ぐらいかと思っていたのだが、メンヒシュミ教会分だけで五十冊は越えている。
これはもう少し慎重に印刷数を決めた方がよさそうだ。
「エルケちゃんとペトロナちゃんも商品として取り扱いたいようなことを言っていたのですが……」
「あの二人が商品になると踏んだのなら、うちの父も欲しがるのかな……?」
二人がどの程度売れると思っているのかは判らないが、それなりの冊数は必要とするだろう。
先に必要な数を聞いておいた方がいいかもしれない。
「総数はまだ判らないけど、これを一度に印刷しようとしたら紙が足りなくなるかな。でもガリ版印刷をするなら一度に刷ってしまいたいし……」
前世のように工場生産の安価な紙なんてものはないので、一つひとつが手作りで少し高い。
印刷をするから紙を用意しようとして、すぐに必要な枚数が集まるはずもなかった。
「とりあえず、エルケちゃんたちとも相談をして、何冊印刷するのかを先に決めた方がいいですね」
「そうですね。それで秋の間に紙を用意して、印刷は冬にしましょう」
ほかにもまだ気になることはあるか、とニルスが言うので、遠慮なく質問をぶつける。
途中からは思春期に突入しているはずのニルスの
ニルスは体が大きくなっても、やはりニルスだ。
素直で可愛い。
こういうところが精霊に愛されるのだと思う。
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