第7話 花の香りと安静生活

 鼻腔をくすぐる花の香りで目を覚ます。

 ふんわりと天蓋の中に漂っている香りには、覚えがあった。


 ……なんの花だっけ? 絶対嗅いだことがある香りなんだけど……?


 半分寝ぼけながら腕を持ち上げ、ピリッと痛みが走る。

 慌てて腕を下ろすと、今度はベッドに当たった衝撃でまた痛みが走った。


 ……うん? なんだろう?


 腕が落ちた衝撃で、ベッドが少し跳ねる。

 その衝撃に、視界の隅で緑色のものがチラリと動いた。


 何かベッドの上にあるぞ、と今度は慎重に腕を持ち上げる。

 やはり少し痛みがあるのだが、腕についていた葉が数枚減っていることに気がついた。


 ……あれ? なんで葉っぱが増えてるの?


 昨夜あった場所の葉は数枚落ちているのだが、新たに小さな葉が増えている。

 葉で怪我の手当てをする人物など神王しか知らないので、私が寝ている間に手当てのし忘れを思いだしてまたやって来たのだろうか。

 そう考えて、天蓋に満ちた花の香りに思い直す。


 ……なんとなく、だけど? 違う精霊が手当てに来てくれた気がする。


 一度は神王が診察をして、手当ての必要はないと判断した傷だ。

 私が寝ている間にもう一度来てまで手当てをしてくれるような気はしなかった。


 ……紐はどこかな?


 天蓋の外で控えていてくれるだろう誰かへ起床を伝えようとして、ベッドの上を指で撫でる。

 腕を動かすだけでもまだ痛いのだが、昨夜に比べればかなりマシになった。


 ……あ、あった。


 掛け布とは明らかに違う感触のリボンに指が触れ、それを指に絡める。

 これは昨夜カリーサが作った仕掛けだ。

 リボンの先には鈴が付いていて、リボンを引くとサイドテーブルに置かれたリボンが床へと落ちる仕組みになっている。

 声を出すことも、ベッドの中で暴れることもできない今の私が、天蓋の外へと合図を送るために用意してもらった。


 カラン、と鈴が落ちる。

 絨毯があるせいで、思ったよりも音は響かなかった。

 それでも天蓋の外へはしっかり起床が伝わったようで、早足に近づいてくる重い足音と、それに続く小さな足音がして、天蓋の手前で大きな音がした。


 ……懲りないレオナルドさんだね。


 足音から察するに、昨夜と同じことが行われたのだろう。

 寝起きの妹のベッドへと近づいて、カリーサかソラナに阻まれたのだ。

 侍女の二人はいいところのお嬢様なので、レオナルドに対して実力行使はしない。

 いいところのお嬢様という意味では、ソラナも同じ貴族のご令嬢なのだが、彼女はアルフレッドの女中メイドということで感覚が麻痺していた。

 ソラナの『言って駄目なら実力行使』は、先に言葉で止めてくれるだけ優しいとも思う。

 カリーサは無言で実力行使だ。


 ……身内あにとはいえ、寝起きのおんなのこのベッドに近づいたら、それは排除されても仕方がないよ。


 私だって寝起きのボサボサ頭など、レオナルドには見られたくない。


「……はようございます、ティナお嬢様」


 少し天蓋の中で待っていると、顔を見せたのはカリーサだった。

 その奥に、頭を押さえているレオナルドの姿が見える。


「……なんの匂いでしょう?」


 天蓋の中へと入ってきたカリーサも、この花の匂いには気が付いたようだ。

 少し匂いを嗅ぐ仕草をしたかと思うと、首を傾げた。


 カリーサに背中へとクッションを用意してもらって、体を起こす。

 体を起こしたことでベッドの様子がよく見えるようになったのだが、ベッドの上には葉がチラホラと散らばっていた。

 神王の見立てで手当てすらされなかった小さな傷は、すでに瘡蓋かさぶたで細い線になっている。

 昨夜までは葉に隠されていた傷にも、瘡蓋ができていた。

 試しに包帯を外してもらうと、こちらもヒラヒラと落ちる葉がある。

 肌に付いたままの葉は剥がそうとしても剥がれないのだが、葉の下で瘡蓋ができれば自然に剥がれ落ちるようだ。

 これならば、うっかり指が触れて剥がしてしまうこともないだろう。


 まだ葉が多いところへは、念のために包帯を巻き直してもらう。

 髪の毛を綺麗に結ってもらったら、ベッドの上の葉を片付けて天蓋を開いた。


 天蓋の外には、やはりというかレオナルドが待っていた。

 少し疲れたような顔をしているのは、もしかしたら一睡もしていないのかもしれない。

 突然目の前から消えた私が傷だらけで、髪までズタズタに切られて戻ってきたのだ。

 これは確かに、少し目を離すのも怖いかもしれない。

 しばらくはいつも以上に私の側にいてくれることだろう。


「おはよう、ティナ」


 傷の様子はどうだ、と聞かれたので、葉の落ちた腕や面積の減った包帯を見せる。

 顔をしかめながらも腕を持ち上げた私に、レオナルドは少しだけ安堵の溜息をもらした。


 喉に傷があるため、食事は昨夜からドロドロとしたものだ。

 自分の喉がどうなっているのかは判らないのだが、物を飲み込んだ時に痛むことがないのは嬉しい。

 カリーサが気を遣っておかゆを用意してくれているのも助かっているのだが、食事の介助がレオナルドなのはどうなのだろう。

 これは今回の誘拐のせいで、本当にレオナルドの変なスイッチを押してしまった気がする。

 もしくは、トラウマが刻み込まれたのだろうか。

 間違いなく、過保護が悪化していた。


 ……まあ、そのうち落ち着くでしょう。


 今朝は昨夜よりはマシとはいえ、まだ腕を持ち上げるだけでも痛くて億劫でもあったので、ありがたくお世話になっておく。


 カリーサにはせっかく綺麗に髪を結ってもらったのだが、この日は一日中ベッドでジッとして過ごした。

 退屈を紛らわせるためにベッドで腕を振り回したり、退屈だと悲鳴をあげたりすることもできなかったので、今回は本当に退屈だ。

 できることはほぼなかったので、食べて眠るだけで一日が終わった。







 翌朝目が覚めると、腕を持ち上げた時の痛みがさらに減っていた。

 ハラハラと落ちた葉の数も多い。

 喉の葉もようやく数枚落ち始めたようだ。


 さすがに動けるようになってきたので、自分で包帯を外してみる。

 まだ葉の落ちない傷はあるのだが、それでも大分葉の数は減り、瘡蓋が目立つようになってきた。


 時々痛むながらも自分で体を起こして鈴を鳴らすと、天蓋の中へとソラナが入ってくる。

 今朝のレオナルドは、天蓋の外で殴り止められなかったようだ。

 ベッドに散った葉を片付けて、髪を結う。

 もう自分で食事も食べられるのだが、昨日一日私の食事を世話していたレオナルドは少し不満そうだ。

 まだ少し痛むのだろう、と言って食事の介助をしたがった。

 私としては少し餌付けをされている気がするのだが、今更といえば今更かもしれない。


 そろそろお風呂に入りたい、とカリーサに伝えたら、レオナルドが部屋から追い出された。

 寝間着を脱がされて傷の具合を確認されたのだが、カリーサの答えは「もう一日様子を見ましょう」だ。

 大分楽になったと思うのだが、私から見えないところにはまだ葉が多いらしい。


 ……もう二日お風呂入ってないから、お風呂入りたい。


 なにしろ体中に切り傷があるため、絶対に傷口が染みるお風呂へは入れていなかった。

 神王という神秘の存在が行った手当てのため、風呂に入って葉が取れてしまった場合にどうなるのか、という心配もあって誰も試そうとはしなかったのだ。

 濡れタオルで体を拭いてもらうぐらいで我慢していた。


 ……明日はお風呂に入れるかな?


 寝間着を着替えさせられて、部屋から追い出されたレオナルドが迎え入れられる。

 動けない程の痛みは引いてきたので、部屋着で過ごすことも今日はできそうだ。

 手足を動かせるのなら、本も読めるし、盤上遊戯ボードゲームでレオナルドに遊んでもらうこともできる。


 ……でも、たぶん普通より治るのが早いんだろうなぁ?


 飲み込みやすいように、と今日も作られたおかゆを食べながら、なんとなく思う。

 およそ普通ではない手当てがされた傷は、瘡蓋ができているというのに痒くもなんともない。

 ただ毎日、確実に葉の数は減っていた。


 さらに翌日の朝、手足の葉はすべて落ちた。

 お腹や背中の葉も落ちたようで、めでたくカリーサから入浴の許可が出る。

 走ったり、暴れたりしない限りは痛まなくなった体に、ゆっくりとお風呂に浸かった。

 体に張り付いた葉は落ちたのだが、喉の葉はまだ大小さまざまな大きさの物が張り付いている。


 ……しゃべれなくなったら大変だからね。


 念入りに直しているのだろう、となかなか落ちない喉の葉については受け止めることにした。







 喉へと張り付いた最後の葉が落ちたのは、それから一週間もあとのことだった。

 体はもう完全に動かせる。

 ジャンプをしても、黒柴コクまろと庭を駆け回っても、どこも痛くない。

 最初に手当てすらされなかった傷は、もう瘡蓋もすべて取れていた。


「あー、あーあー」


 葉がすべて落ちていることを鏡で確認し、ソラナにも確認をしてもらう。

 完全にすべて剥がれた、ということで試しに声を出してみたのだが、多少引きつる感じがある。

 あるが、それだけだ。

 ようやく普通に声を出すことができるようになった。

 多少の引きつるような感覚も、そのうち治るだろう。


 完全に復調すると、アルフが見舞いにやってきた。

 少し話しをして、本当に回復したようだと確認すると、クリストフの居城への呼び出しをいただく。

 アルフのエスコートで乗り込んだ居城では、クリストフとティモンが待っていた。


「だから言っただろう。クリスティーナに国王わたしを害する意思などなく、あの場へは精霊によって放り込まれたのだと」


「しかし王よ、クリスティーナ嬢に害意がなくとも事情聴取は必要です」


 ティモンは、私が精霊に攫われたということ自体がいまいちピンとこないようだ。

 私だって、実際に自分が攫われたのでなければ疑うだろう。

 クリストフは目の前に突然現れる私を見ているし、レオナルドは私が消えるところを実際に見ている。

 アルフにいたっては、目の前で私に消えられるのは二度目だ。

 目の前で不可思議な現象に遭遇した人間は『精霊に攫われた』という現象をそういうものだと受け止めているが、話に聞くだけのティモンにはそのまま素直に聞き入れることはできないのだろう。

 ティモンは私の馬鹿正直な性格を知っているため、本気で害意があっての侵入だとは思われていないようなのだが、形だけであっても事情聴取は必要だと言って引かない。


 呆れ顔のクリストフを押しのけての事情聴取は、筆談で答えたものとほとんど同じ内容だった。

 あとは、今日までの間に調べて判ったこととの辻褄あわせだった気もする。


「え? 何も残っていないのですか?」


「そうだ。あれだけの巨大な水晶が、跡形も無く消えている」


 ティモンの事情聴取に混ざって、『精霊の座』の現状を聞くことができた。

 いすの形に見えなくもない巨大な水晶、といった様子の『精霊の座』だったのだが、その上に落ちて叩き割ったところまでは覚えているのだが、その後については記憶が曖昧だ。

 中から神王の遺骸が出てきた気はするが、割れた水晶がどうなったのかまでは覚えてない。

 それが、ティモンの話によれば割れた水晶の一欠けらさえも現場には残っていないそうだ。

 私が破壊した『精霊の座』は、役目を終えるとともに消滅してしまったらしい。


 ……それ自体が不思議現象だと思うんだけど?


 それでもティモンには現象として受け入れ難いようだ。

 くっきりとティモンの眉間へ刻まれた皺に、クリストフは話題を変えるためか、侍女に命じて茶を入れ替えた。


「……今回新たにクリスティーナが持ってきた話については、イツラテル教会を通じて神王領へと親書を送ることにした」


 その内容について、もう少し詳しい話を聞きたい、といってクリストフは人払いをする。

 残されたのは私と護衛のレオナルド、アルフとティモンだ。

 この話は、ティモンにも聞かせるつもりらしい。


「親書を送るのに、イツラテル教会を通すのはなぜですか?」


「そなたがイツラテル教会で姿を消したせいだ。あの教会は神王への信仰の塊のようなものだからな。神王と邂逅したと名高い聖女が、また神王と邂逅したのではないか、と探りがうるさい」


 イツラテル教会では、私の存在はいつの間にか聖女になっていたらしい。

 この辺りは精霊に攫われたということよりも、神王領クエビアの仮王であるレミヒオの差し金でもあるようだ。

 私の知らないところで、レミヒオからお達しがあったらしい。

 私がなにか困っているようであれば手を貸してやれ、と。


総本山クエビアへの親書を任せれば、しばらくはおとなしくなるだろう。その後クエビアが情報をどう扱うかは、クエビアの仮王次第だな」


 神王の世代交代にまつわる話など、物がもの過ぎて一国の王でしかない自分が判断することではない、とクリストフは言う。

 一見賢王の英断にも聞こえるが、ようは責任逃れだろう。

 ことが大き過ぎて、自分では手に負えない、と責任と判断をクエビアの仮王へ丸投げしたのだ。


「クエビアにとっては喉から手が出る程の情報だと思うのですが、なにかの取引に使ったりはしないのですね」


「神王領相手に、そのような行動に出るような暗君はおらんよ」


 神王国クエビアは、自らを『国』と名乗っている。

 しかし、クエビアの外にある国はクエビアを『国』とは呼ばず、『領』と呼ぶ。

 国同士の付き合いとしてはお互いに『国』と名乗っているのだが、神王領は神王の直轄地であり、その他の国は古の神王国の一部である、という考え方が未だに残っていた。

 だからクエビア以外の国はクエビアを『神王領』と呼び、自国を『神王国の一部』と考えている。

 互いに『国』と名乗ってはいるが、神王国の一部だ、と。

 国と領で一見一段下げているように見えるのだが、逆だ。

 神王領クエビアは、どの国よりも特別な国である。

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