第66話 投薬実験とジャスパーの帰還
グリニッジ疱瘡の予防薬を作るための素材がすべて集まった。
多少てこずりもしたが、素材を材料へ加工する作業も終わった。
あとは聖人ユウタ・ヒラガの残した
「順調すぎて怖いです」
「しかし、聖人ユウタ・ヒラガの研究資料に書かれていた通りに作ったのですよね?」
「それは間違いありません。何度も読み込みましたし、作業ごとに確認もしていましたから」
最終的には人へと使われるものであるし、少し工程を誤るだけでも毒物に変わるといわれている聖人ユウタ・ヒラガの秘術だ。
日本語が読めるのは私だけだとしても、読みあげれば薬師としての知識があるバルバラたちが知恵を貸してくれる。
薬師たちに伝わり難い日本語があったとしても、そのたびに意味と情報のすり合わせをしてきた。
そのおかげで聖人ユウタ・ヒラガの研究資料の内容はそのまま伝えられているはずなのだが、順調に進み過ぎて怖い。
どこかで何か思いもかけない失敗をしているのではないか、という不安がどうしても拭い去れなかった。
「この予防薬はムスタイン薬と比べて、実験が難しいですよね……?」
どうしたものか、とバルバラたちとでは結論が出なかったので、結論を離宮へと持ち帰ってアルフレッドへと報告書をしたためる。
ひとまずグリニッジ疱瘡の予防薬が完成したのだが、実験を行う目途が立たない、と。
ムスタイン薬は患者が国内にいたし、寄生虫を運ぶ動物もやはり国内にいた。
動物実験をするにしても、そのあとで人へと投薬する時でも、すべて国内でなんとかなっていたのだ。
ところが、グリニッジ疱瘡の予防薬を試すためには、グリニッジ疱瘡にかかっている患者とその世話をする者が必要になる。
グリニッジ疱瘡とは聖人ユウタ・ヒラガの時代の呼ばれ方で、私に馴染みのある言い方に直せばワーズ病だ。
ワーズ病はこの国ではすでに終息していて、効果を試すための感染者を見つけることは不可能に近い。
……他所の国では、まだ終息していないんでしたっけ?
連日の会議の結果、セドヴァラ教会が今回復活させる秘術として選んだ物がこの予防薬だった。
クリストフたちは国内で使うムスタイン薬を選んだが、セドヴァラ教会は大陸内において早急に必要な薬である、とグリニッジ疱瘡の予防薬を選択している。
私の周囲からは話題にも上らなくなってきていたが、外国ではそうでもないのだろう。
……まさか感染者を国内に連れて来て投薬実験をする、なんてできないしね。
そんなことをすれば、一つの手違いでまたワーズ病が国内へと広がってしまう可能性がある。
それどころか、患者を連れて来る道中だけでも感染が広がるだろう。
薬術の神セドヴァラの信徒に国境などない、と言う国内のセドヴァラ教会としても、そんな危険は冒せないだろう。
「せめて、人に使っても大丈夫かどうかだけでも、確かめたいのですが」
なんとかならないだろうか、とソラナの運んだ報告書を見たアルフレッドへと聞いてみる。
ほとんど毎日のように足を運ばせるのが申し訳なくて報告書を纏めたのだが、報告書を読むとすぐにアルフレッドが飛んできたので、あまり意味はなかったようだ。
……そういえば、レオナルドさんがいる間はあんまり離宮に来なかったね。
やはりアルフレッドが離宮へと頻繁に足を運ぶのは、兄不在の代わりにと気を遣ってくれているのだろう。
王子として行動するアルフレッドは、とても頼りになる。
……まあ、アルフさんを追いかけてる姿は尊敬できないんだけど。
アルフレッドが帰ったあと、疲れた顔をしていたアルフを覚えているので、私人としてのアルフレッドは応援しかねる。
誰が誰を好きでも構わないが、相手の迷惑は考えるべきだろう。
「投薬実験か。一応心当たりはあるが……」
「え? あるのですか?」
ワーズ病ですよ、と言ったら唇を指で摘ままれた。
物理的に口を閉ざさせるぐらいには、口に出してはまずい単語だったらしい。
投薬実験については当てがある、と言うアルフレッドが翌日にはジークヴァルトの館へとやって来て、グリニッジ疱瘡の予防薬と薬師を一人連れてどこかへと出かけて行った。
しばらくは王都を離れることになるので、あまり外出はしないように、と釘を刺される。
あまりに暇だったらエセルバートの離宮へ遊びに行くのもいいかもしれない、とお勧めされたので、あの離宮にはやはりお化けが滞在しているのだろう。
エセルバートはまだ領地のグーモンスに滞在中だ。
今年も王都に出てくるとしたら、神王祭や闘技大会の季節だろうと聞いている。
……それにしても、変な気分だね。
大勢の命を奪ったワーズ病。
投薬実験は終わっていないため、まだ完成したとは言い切れないのだが、その予防薬が目の前にある。
この薬でワーズ病が治るわけではないが、予防薬として効果が認められれば他国で猛威を振るっているワーズ病の終息も可能だろう。
聖人ユウタ・ヒラガの研究資料を読むことができただけで、こんなにも簡単に対抗できる病だったのだ。
……考えないよ。
ぐらりと思考が暗い方向へと向き始め、慌ててそれを切り替える。
私にもっと勇気があれば、私がもう少し無謀な子どもだったなら、助かった命があったはずだと考えるのはやめた。
これについての懺悔はすでに
クリストフが折角受け止めてくれたのだから、過ぎたことで後悔するのはやめなければならない。
あの時の選択は、あの時の私に選べる最良の物だった。
少なくとも、クリストフはそう認めてくれているのだ。
……しばらくはできることが無くなっちゃったね。
パント薬の材料は揃っていないし、ムスタイン薬が必要になるのは雪解けの季節だ。
グリニッジ疱瘡の予防薬についてはアルフレッドがどこかで投薬実験をしてきてくれるらしいので、完成かどうかの判断はアルフレッドが戻ってくるまで保留である。
本当に、できることがない。
とりあえず報告書でも書きましょうか、と完成しているムスタイン薬についてを纏める。
ムスタイン薬については効果も確認されたので、そろそろ外へと広げてもいいはずだ。
外へ広げるかどうかの判断はセドヴァラ教会とクリストフがすることだったが、報告書と一緒に処方箋を提出すればいいだろう。
実際に作業をした薬師たちの視点での報告書も欲しい、と薬師たちにも書類を作ってもらっていると、ジャスパー帰還の報せが届いた。
「おかえりなさい、ジャスパー」
「ああ」
薬のための素材だったので、ジークヴァルトの館へと届けてくれてもよかったのだが、ジャスパーは雪苺を離宮へと持ち帰る。
ひょっとしたら、私へと素材を渡したあとはすぐにでも写本作業に戻るつもりなのかもしれない。
ヘルミーネによる再特訓中の淑女の礼もスルーされてしまった。
「これが雪の上で乾燥させた未成熟の『雪帽子』だ」
風通しのよさそうな箱がテーブルの上へと置かれ、蓋がずらされる。
中には水分が抜けたせいで赤い色の濃くなった雪苺がゴロゴロと入っていた。
「……おいしそうですね」
「食べるなよ」
これはパント薬の材料になるものだろう、とジャスパーに釘を刺されてしまう。
ただの感想として口から出てきた言葉なのだが、ジャスパーが釘を刺さずにはいられない程に私は雪苺を食べたそうな顔をしていたのだろうか。
「解っていますよ。……一つだけでも、ダメですか?」
「解ってないじゃないか」
そんなに美味しい物でもないだろう、と言いながらジャスパーは雪苺の詰まった箱の蓋を閉める。
どうやら私の視界から隠すことにしたようだ。
私としても、この行動は正解だと思う。
メイユ村で食べていたという思い出があるため、どうしても食欲が刺激されてくるのだ。
「グルノールや王都で砂糖を使った菓子とか食べ慣れているだろう。今のおまえが食べても、物足りない味になってると思うぞ」
「そう……かなぁ?」
そうかもしれない、と思いつつも、諦めきれずにソラナの手によって運ばれて行く箱を見送る。
諦めの悪い私に、ジャスパーの護衛として付けられていた黒騎士が微かに笑った。
「……クリスティーナ様。この薬師めは、ちゃんとクリスティーナ様への土産を作っておりましたので、ご安心ください」
「お土産を、作って、ですか?」
こそっと悪戯っぽく片目を閉じて教えてくれる黒騎士に、ジャスパーの唇がへの字に歪む。
どうやら黒騎士からの情報は、ジャスパー的には洩らされたくはない物だったようだ。
「ジャスパー、お土産ってなんですか?」
「……雪を掘り返すのが遅れて、熟してしまった雪苺は使えないからな」
ジャムにして持ち帰った、と透明感のある黄色のジャムが詰まった瓶が三つ、テーブルへと並べられる。
あくまで採取に失敗したのだ、という言い訳を再三繰り返し、ジャスパーはジャムを三つとも私にくれた。
それではジャスパーの分がなくなると指摘したところ、自分の分は別に避けてあると言っていたので、私へのお土産用ではあるが、自分用のジャムでもあったのだろう。
なぜか背後に控える黒騎士も、自分の分もあると自慢してくれた。
……来年はジャスパーの分も春華祭の刺繍をするよ!
どうせ他の薬師たちのように刺繍をくれる相手もいないのだろう、とあたりをつけて、ふと思う。
ジャスパーは私の父より少し年上といったところだろう。
バルバラはお断りだ、と言った失礼な薬師たちほど見込みがない男だとは思わないのだが、妻や恋人はいないのだろうか。
……そういえば、ジャスパーのことってほとんど知らないね?
知っていることといえば、メイユ村出身で、今は薬師をしている、ということぐらいだろうか。
実は少しだけ日本語を聞き取れていて、私が日本人の転生者だと早いうちに気がつきながらも黙っていてくれた人だ。
ダルトワ夫妻とも仲がよかったと聞いている。
……今度ゆっくり、話を聞いてみようかな。
話してくれるかは判らないが、聞くだけ聞いてみるのもいいかもしれない。
ウラリーおばさんが作ってくれたのと同じ甘い卵焼きでも持って、写本中のジャスパーを訪ねよう。
そんなことを思った。
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