第55話 レオナルドの帰還

 ジークヴァルトの館へと集められた薬師たちは、ムスタイン薬を作ることを優先し始めた。

 ムスタイン薬が活躍をするのは雪解けの季節で、今から作れば雪道であっても遠くの町や村まで薬を運ぶことができる。

 本来は、作られた薬はすぐに使う方が効果は得られるらしいのだが、人を移動させることは大変であったし、まだ五人しかムスタイン薬を作れる薬師がいないということで、派遣すること自体が難しい。

 すべての町や村を平等に救えるわけではないので、今年は一箇所でムスタイン薬を作り、各町や村へと届けることになっていた。


 ……しばらくは次の薬の材料作りもおやすみなので、私は少し暇になりましたね。


 時間ができたので、と久しぶりに糸巻ボビンを転がす。

 カリーサが来てくれたことだし、と教えてみたらあっさりボビンレースを覚えてしまったレベッカと、ボビンレースに興味のあったペトロナに教えつつ、ボビンレースの指南書を作成する。

 エルケもこの輪に加わりたがったが、今回は遠慮してもらった。

 初心者向けの指南書を作るのだから、その原稿が完成した時に、これは指南書として通じるかどうかを、エルケに読んでもらって試す予定だ。


 ボビンレースの指南書作りが動き始めると、今度は空いた時間に刺繍を始める。

 時間ができるたびに何か別のことを始めているので、働きすぎである、とソラナには怒られてしまった。

 刺繍は来年の春華祭に向けて、今年もレオナルドのシャツへと施す予定だ。

 毎年袖口へと刺繍をあしらうというのも芸がないかと、背中にケルベロスでも刺繍しようかと思ったら、ヘルミーネに止められた。

 背中へびっしりと刺繍をする場合、洗いがえ用に複数枚刺繍ができるのか、と冷静な指摘をされれば、これに従うしかない。

 悪戯をするにも手間と暇はかかるのだ。

 残念ながら、今の私に大柄な男性のシャツの背面へと刺繍をするだけの時間的余裕はない。


 ……お世話になっているので、アルフレッド様へも何か刺繍するべきでしょうか?


 アルフに贈ると言って、なぜか私の目の前で刺繍をしはじめたアルフレッドを見て、ふと気が付いた。

 気が付いたのだが、一瞬だけ思い浮かんだこととして頭の片隅へと片付ける。

 春華祭の刺繍は家族へ贈るもので、異性へ贈る場合は「私はこんな刺繍ができますよ」といった『あなたのお嫁さんになりたい』というアピールだ。

 そのつもりがないのなら、日本人の感覚で『日ごろお世話になっているから』と贈らない方がいいだろう。







 雪がチラチラと降り始め、王都中の地面が完全に白く染まる頃になると、神王祭が近づいてくる。

 そろそろジャスパーは雪苺の採れる地に着いただろうか。

 雪苺は雪に覆われてしまってから熟すので、雪が降り出したからといってすぐに採取できるものではない。

 収穫までにしばらく時間はかかるし、保存するためには雪の上で乾燥させる必要もあるので、当分は帰ってこられないだろう。


 ……そろそろレオナルドさんが帰ってきてもいい頃だと思うんだけど?


 秋の間だけルグミラマ砦に行く、という話だったのだが、もう冬も中頃に近い。

 冬になったからといってすぐに帰ってくるわけではないと聞いてはいるが、それでも少し遅すぎる気がした。


 ……早く帰ってこないと、神王祭の祭祀はティモン様がすることになっちゃいますよ。


 レオナルドが祭司を務めようが、ティモンが祭司を務めようが、軍神ヘルケイレスの祭祀は一般人お断りで、私が見ることはできない。

 それでも少し惜しい気はするので、まだ帰らない、いつ帰るかと、離宮の外を気にするようになった。

 そんなことから、温かさを逃がさない作りをした冬の部屋よりも、離宮へとやってくる馬車があればすぐに気が付く居間で過ごす時間が増える。


「そんなに外ばかり見つめられていても、お兄様はすぐには帰られませんよ」


 こちらにも都合というものがあると解っているはずなので、まず事前に連絡があるはずだ、とウルリーカが教えてくれた。

 こちらの都合とは言っても、レオナルドが使う予定の部屋はすでに整えてあるし、食材の仕入れも増やしたので、突然帰ってこられたからといって困ることはまずありえない。

 私はまだまだ見習いの主だが、この離宮に集められた使用人たちは優秀なのだ。

 未熟な主を補うことぐらい、なんということはない。


「……実は戦になっていて帰ってこれない、ということはありませんか?」


「開戦という話は聞いておりませんので、その辺りはご心配には及びません」


 聞けばアルフレッドもフェリシアも教えてくれるし、ウルリーカの情報網は相変わらず謎なのだが侍女の誰よりも優秀なので、信じてもいいだろう。

 ソラナとカリーサが時々持ってきてくれる話にも、戦が始まったという話はなかった。


 ……こどもには黙っている、って可能性もあるにはあるけど、ね。


 戦が始まっているわけでもないのに、レオナルドが冬になっても帰ってこない。

 四ヶ月も顔を見ないのは初めてのことなので、さすがに寂しさの限界だ。

 暖かいふくろうのコートを室内で着込み、玄関ホールへと炬燵を移動しようとしたら、ヘルミーネに見つかって怒られてしまった。

 玄関ホールで座り込んで待つなど、淑女のすることではない、と。


 しぶしぶながら居間に戻ってレオナルドの帰りを待つ。

 暇に任せた春華祭の刺繍はあっという間に終わってしまったので、今年はシャツを一枚余分に縫うことにした。

 これはシャツ自体を私が縫うということで、刺繍はワンポイントだけだ。


 そうこうしているうちに、神王祭の一週間前になってレオナルドの帰還を伝える手紙がようやく届いた。

 数日中には王都へ到着する予定だ、と。


「帰ってきた!」


 ピッタリと窓に張り付いて、離宮へと続く一本道を進む馬車を見つける。

 レオナルドを待ちわびすぎて、すでに淑女がどうと注意する者も諦めムードだ。

 とにかく一度レオナルドに会わせ、落ち着くまでは小言も無意味である、と。


「おかえりなさーい」


 部屋着のまま玄関から飛び出して、レオナルドを出迎える。

 馬車の扉が開くのを待ちながらハグをしてやろうと構えていたのだが、馬車のステップを降りてきたレオナルドの姿に、そんな気分はしぼんでいった。


「ただいま、ティナ。なんだ? お帰りのハグはなしか?」


 おいで、と広げられた腕に近づき、数歩手前で止まる。

 すぐに抱きつく気にはなれなくて様子を見ていると、待ちきれなくなったのかレオナルドの手が伸びてきたので、それを横にかわした。


「……ティナ? 帰りが遅かったから、拗ねているのか?」


 丁度いいところにレオナルドの腕がきたので、と袖を捕まえて臭いを嗅いでみる。

 服からは長旅の物と思われる埃の臭いがしたのだが、汗の臭いはそれほどしなかった。


 ……でもピンときたよ。臭いがしない、ってのもおかしいって。


 臭いを嗅ぐ素振りを見せた時に、レオナルドの頬が一瞬だけ引きつったのも見逃さない。

 レオナルドはさも今帰ってきたという顔をしているが、離宮へ来る前にどこかで一度汗を流している。

 それが判ったので、淑女の笑みを浮かべた。


「レオナルドお兄様、夕べはどちらへお泊りになったのですか?」


「……そうだ。猫の湯たんぽが欲しいと言っていただろう。ちゃんと買って来たぞ」


 少しの沈黙のあと、レオナルドは一度馬車の荷台へ移動して、一抱えもある荷物を下ろす。

 私の気を引くためか、その場で包みを開いてくれたのだが、中からは少し不細工な顔をした猫の湯たんぽが姿を現した。


「それで、夕べはどちらへお泊りになったのですか?」


「……なんでそんなことを聞くんだ? 馬車で帰ってきたのだから、寝るところは一つだろう」


「馬車での移動なのですから、それはもちろんは馬車の中で眠られたのでしょうけど、夕べはどちらにお泊りになられたのですか?」


 即答しなかった時点で負けである、と指摘し、重ねて夕べの宿を聞く。

 移動中のベッドは馬車である、は答えとして嘘ではないが、昨日のうちに王都に到着していたのなら、それは移動中とは言わないはずだ。


「……国王の居城もある王城へ、旅の汚れた姿で入るわけには行かないからな。風呂屋には行って来た」


「即答できなかった理由とはしては不十分ですね」


 どこで風呂に入る必要が生じるコトをしてきたのか、と問い質すことは横へ置いて、使用人たちが馬車から荷物を下ろすのを見守りながら私の近況を話す。

 離宮へと毒物が持ち込まれ、侍女が二人離宮を辞し、そのうち一人の女中メイドが毒を呷って死んでいる。

 この騒ぎで使用人たちの身辺が再調査され、何人かが解雇された。

 また、ベルトランには王都に滞在していることが知られ、何度か突撃を受けている。

 その際に私が孫だと言いふらしたため、白騎士の中におかしなことを考えた者が出た。

 夜這いの斡旋は黒犬とアーロンが犯人を捕らえ、離宮周囲で黒い頭巾を所持した白騎士が捉えられた。

 ジゼルの話によると、護衛をしている自分の元へも狂言誘拐の誘いが来るとのことだったので、こちらは潜入捜査をさせている。


「――と、お留守番中の出来事はこのぐらいでしょうか?」


 他にも従兄弟と顔を合わせた等、報告する必要があるかもしれない事柄はあるが、とりあえずはこれだけでいい。

 さっきまで私から目を逸らしていたレオナルドが、真顔で固まっているのだ。

 脅すのはこのぐらいでいいだろう。


「で、そろそろ兄が帰ってくるはずだ、と毎日そわそわ帰りと待っていたのですが……」


 昨夜はどちらへお泊りになったのですか? と再度質問を重ねる。

 そうすると、ようやく私の意図が解ったのだろう。

 レオナルドはおとなしく降参した。


「ティナの薄情な兄貴は、昨夜は娼館でひと汗かいていました」


 ごめんなさい、と頭を下げたので、その後ろへと流された髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回してやる。

 最初から下手な誤魔化しなどしなければよかったのだ。


「レオナルドお兄様がどこで誰とナニをしていようが、妹のわたくしがどうこう言うことではないと思っています。けど、長く家を留守にして、家には帰りを待っている家族いもうとがいるのですから、お楽しみはまず家族に無事な顔を見せてからにしてください」


「……そうだな。まずはティナに元気な顔を見せることが優先だった」


 解ればいいのだ、と薄情な兄を許し、いつまでも玄関で立ち話をするものではない、と手を引く。

 そのまま離宮の中へ入ろうとする私に、レオナルドは足を止めて首を傾げた。


「ティナ、洗礼は?」


 特注靴の洗礼はないのか、と首を傾げるレオナルドに、私の方が首を傾げたくなる。

 この人は、まさか特注靴の洗礼が受けたくて娼館に行ったのだろうか、と。


「しない方が痛い時もあるでしょう?」


 何を言っているんですか、と真顔で見つめ返してやる。

 いつもいつも解りやすく怒ってやる私ではないのだ。

 レオナルドが娼婦とよろしくやろうが、私が口を挟むことではない。

 が、後回しにされて面白くないのも確かだった。


 ……いつもより深い怒りを知るがいいよ!


 内心でそんな物騒なことを考えつつ、淑女の笑みを浮かべてレオナルドを促す。

 ようやく兄が帰ってきたのだ。

 今はとにかく不愉快なことには蓋をして、四ヶ月ぶりの兄を満喫したい。







 私はとても単純な人間だと思う。

 もしくは、恐ろしく切り替えが早い人間か。


 湯たんぽを持ったレオナルドの逆の手を引いて回廊を歩いているうちに、妹よりも娼婦を優先されたという事実が頭の隅へと追いやられ、やっと兄が帰ってきたという喜びの方が増してきた。

 にまにまと緩んでいく頬を、『まだ怒っていますよ』という顔を作って抑えるのは、地味に油断ができない。


「まだもう少しゆっくりはできないんだが……」


 いつでも使えるように整えられたレオナルドの部屋へ案内すると、少しだけ申し訳なさそうにレオナルドが口を開く。

 レオナルドがまだゆっくりできないことは、私だって知っていた。


「神王祭に軍神ヘルケイレスの祭祀をするのですよね。今日は荷物を置きに来たぐらいですか? お茶ぐらい飲んでいってください」


 勝手知ったるなんとやら、とレオナルドの部屋なのだが、勝手にお茶の準備を整える。

 離宮にはレオナルドのための侍女も数人いたのだが、毒騒ぎでめでたく全員解雇となった。

 そのため、しばらくは私と侍女を共有してもらうことになっている。


 ……まあ、王都にいる間は私、レオナルドさんにべったりだからね。共有もなにもない、って言った方が正しい気がする。


 ほとんどの時間を一緒に過ごしているため、世話をする人間が一箇所にいるので侍女や女中の数は少なくとも問題がない。


「俺がティナとゆっくりできるのは、神王祭の二日目からだな」


 軍神ヘルケイレスの祭祀は神王祭初日の夜に行なわれる。

 祭祀の片付けもあるだろうが、レオナルドが解放されるのはそのあとだ。


「レオナルドお兄様、それこそお楽しみは後回しにするべきでしたね」


 神王祭のギリギリに帰って来たのだから、真っ直ぐ離宮に帰っていれば私も満足したし、一晩ゆっくり休んだあとで祭祀に臨めたはずだ。

 いくら例年祭司を務めているからといって、打ち合わせもなしに本番に臨むのはどうかとも思う。


「冬の間は王都にいれるのですか?」


「そうだな。冬はまず大丈夫だろう。春は種まきが終わったあたりに、またルグミラマ砦に戻りたい」


「……そうですか」


 帰って来たばかりだというのに、もう次に出かける話をしている。

 放っておけばどんどん沈んでいってしまいそうな気分に、楽しいことを考えて気を紛らわせることにした。


「ヘルケイレスの祭祀が終わったら、昨夜の埋め合わせにいっぱい甘えてやりますから、覚悟しておいてくださいね」


「妹に甘えられるのは兄の特権だろう」


 ドーンと任せておけ、とレオナルドが安請け合いをしてくれたので、ムクムクと悪戯心が湧いてきた。

 久しぶりに兄の少し困った顔が見たい。

 そんな気分だ。


「……それにしても、レオナルドお兄様が湯たんぽをひとつだけ買って来たというのは不思議です」


「猫の湯たんぽが欲しい、と手紙を寄越しただろう?」


「手紙は送りましたが……レオナルドお兄様なら、目に付いた猫型の湯たんぽをとにかく買い集めるかと思いました」


 意外に冷静でしたね、と改めて少し不細工な猫の湯たんぽの礼を言う。

 炬燵の熱源として使う予定だったのだが、ベッドに持ち込んで今夜からお世話になろうか。

 そう思っていたのだが、見上げたレオナルドにそっと目を逸らされて、ピンとくるものがあった。


「レオナルドお兄様、買って来たのは一つですよね?」


「……」


 沈黙を持って答えるレオナルドに、そういえば荷物のほとんどは使用人が下ろしていたということを思いだす。

 レオナルドの着替えと私のリクエストした湯たんぽが載っているだけの馬車だ。

 馬で出かけたレオナルドが、馬車で帰ってくること自体がおかしかった。


「エルケ、ペトロナ」


 女中として控えていた友人二人の名を呼ぶ。

 呼ばれた二人は、命じるまでもなく私の考えを察してくれた。

 馬車から下ろされた荷物が集められた一角へと移動し、明らかにレオナルドの着替えではないと判る包みを開いていく。


「可愛い感じの黒猫湯たんぽです」


「こちらはリアルで怖い湯たんぽです」


「あ、これは可愛いです。母猫と仔猫の湯たんぽがありました」


「これは湯たんぽとは言えないような……? 中から一回り小さい猫が出てきます」


「猫型のクッキーがでてきました」


 次々に発見されていく湯たんぽに、呆れながらレオナルドを振り返る。

 最初のうちはまだリクエストした湯たんぽだったが、途中から猫であればなんでも良くなったようだ。

 肉球柄のお皿が不覚にも可愛くて、なんだか悔しい。


「エルケとペトロナの湯たんぽも買って来たんだ。ティナのお友だちの分だからな。兄として当然だろう」


「二人が王都に来てくれていること、知っていたのですか?」


 二人の分だとしても数が合わないのだが、少し困らせたい気分だったので逃げ道を塞いでみた。

 ジッとレオナルドの顔を見つめていると、しぶしぶといった様子で「とりあえず数を揃えた」と自白する。

 私の好みがわからなかったので、とにかくいろいろ買って来たのだ、と。


 ……本物を買って来なかった、ってところは進歩でしょうか?


 以前はなんの相談もなく子犬コクまろを買って来たので、生き物を買って来なかっただけでも進歩は進歩だろう。

 数は少し多い気がするが、リクエストどおりの猫の湯たんぽである。

 無駄遣いのしすぎである、と苦言は呈したいが、レオナルドなりに私を喜ばせようとしての結果でもあった。

 困ったことに、それが少し嬉しくもあるのだから、始末に悪い。


 この兄にして、この妹ありだ。

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