閑話:ソラナ視点 クリスティーナの離宮
異変といっても、それほど深刻なものではない。
ただ、普段は
「クリスティーナお嬢様、起床のお時間です」
「クリスティーナじゃありませんよ。わたしはティナです」
僅かにくぐもった声音で答え、クリスティーナお嬢様は顔を黒い犬のぬいぐるみへと押し付ける。
スンっと鼻を鳴らす音が聞こえたので、泣いているのだろう。
「レオはいつになったら戻って来ますか?」
「レオ……とおっしゃると、レオナルド様ですね。レオナルド様は、秋の間はルグミラマ砦へ詰めていらっしゃりますので、冬になれば一度王都へお戻りになられるかと思います」
「それはわかってます」
ぷくっと頬を膨らませて、恨みがましい目でクリスティーナお嬢様がこちらを見てくる。
なんだか初めて見るクリスティーナお嬢様の拗ねたご様子に、不謹慎ながら萌え転がりたいと思ったことは秘密です。
……そうです。子どもというものは、こういうものです!
子どもと言えばアルフレッド王子やその妹姫たちばかりを身近く見てきたため、どうしても子どもというものは危険な生物としか思えなかったのだが、冷静に考えれば子どもというのは今のクリスティーナお嬢様のようなものだ。
少し頼りなくて目が離せない、大人の守護が必要な生き物である。
……あ。シーツに潜られちゃった。可愛いからもっと見ていたかったのに……。
内心の欲望など駄々漏れにはしていなかったはずなのだが、クリスティーナお嬢様はシーツを頭からかぶってしまった。
そしてそのまま黒い犬のぬいぐるみのお腹へと力いっぱい抱きついている。
……これは、アレですね。お兄様がいなくて寂しいという……寂しがられているのですね!!
欲望のままにクリスティーナお嬢様を慰めて差し上げたい気はいたしましたが、カリーサを呼びに行くことにした。
クリスティーナお嬢様は人見知りである、とアルフレッド王子からはしっかり釘を刺されている。
多少慣れてくださったとは思っているのだが、まだ寂しい時に側にいてほしい大人になどなれてはいないだろう。
ここはやはり、クリスティーナお嬢様の
カリーサを呼び出して場を交代すると、エルケとペトロナを呼んで来てほしいと頼まれる。
二人はクリスティーナお嬢様のために新しく外から雇った女中だったが、実態はグルノールの街にいるアルフお兄様の配慮だ。
慣れた人間が側にいてくれた方が、クリスティーナお嬢様が安心するだろう、ということで、女中としての仕事よりも、クリスティーナお嬢様の精神安定剤としての役割を期待されている。
二人を連れて部屋に戻ると、クリスティーナお嬢様はカリーサの胸に抱きついていた。
先ほどまでは頭から被っていたシーツが落ちて、クリスティーナお嬢様の黒髪が見える。
「ティナお嬢様、どうしました?」
「お腹でも痛いのですか、ティナお嬢様?」
エルケとペトロナが早足にクリスティーナお嬢様の元へと近づくと、クリスティーナお嬢様はカリーサの胸からは顔をあげずに手だけを持ち上げた。
そのまま何かを探すようにクリスティーナお嬢様の腕が宙を彷徨い、意図することを悟った少女二人がクリスティーナお嬢様の腕の中へと飛び込む。
少し離れた場所から見ている
……これがクリスティーナお嬢様の甘え方っ!
ただハグを求めるだなんて、なんと子どもらしく可愛らしいのだろうか。
アルフレッド王子やその妹君たちにも是非とも見習っていただきたい可愛げである。
……あ、でもアルフレッド王子たちはもう寂しいからって保護者のハグを欲しがるような年齢じゃありませんでしたね。
そもそも、そんな可愛げは持ち合わせていない。
あの兄と妹ときたら、なにかあればすぐに手と足を出して取っ組み合いの喧嘩をしていたし、少し知恵が回るようになってからは表向きはお互い不干渉に、影では姦計を敷いて
それが落ち着いたのは、フェリシア様が王爵を戴いた時だ。
フェリシア様が弟妹に説かれた。
本気でお互いを排除したいのなら、王爵を得てその権限を持てば良いのだ、と。
この言葉を聞いてアルフレッド王子と妹君は発奮なされたのだが、王爵を得たのはアルフレッド王子だけだ。
そして、アルフレッド王子は王爵を得るための教育の過程で、脱落していった妹君たちへの興味を失った。
古い言葉に『争いは同レベル同士の間にしか起こらない』とあるが、まさにその通りだったのだろう。
王爵を得る教育の過程で、アルフレッド王子が頭一つ飛びぬけ、妹君を置き去りにした。
……などと、黄昏ている場合ではありませんでした。クリスティーナお嬢様の異変は、小さなことでも報告するようにと命じられています。
連絡手段としての
クリスティーナお嬢様については王族内で情報を共有することになっているようで、フェリシア様へも報告をすることになった。
「……寂しがりのクリスティーナは少し見に行きたい気がするけれど、
これまでは寂しいと泣き出すことなどなかったのに、とフェリシア様は呟き、すぐに言い直す。
逆に、寂しいと言い出せる心の余裕がでてきたのかもしれない、と。
……そうですよ。クリスティーナお嬢様に余裕が出てこられたのです。アルフお兄様が失敗なんて、なさるはずがございません。
私の知る限り、アルフレッド王子の乳兄弟であるアルフお兄様は気遣いのできる良いお兄様だ。
あのアルフお兄様に限って、気遣いが裏目に出るだなんてことがあるわけがない。
「ベッドから出てこないくらい可愛いものよ。たまには好きに拗ねさせてあげなさい」
ここしばらく働きすぎだったようだから丁度いいでしょう、と仰られてフェリシア様は遣いに出す白銀の騎士を選ぶ。
たしかに、冷静にクリスティーナお嬢様のここしばらくの仕事量を考えれば、たまにはおやすみを勧めるべきだろう。
困ったことに、ご本人には働いているという意識がないため、休憩をと強く言うことができないのだが、大人でも真似できない集中力と速度をもって写本作業を行っていた。
クリスティーナお嬢様は同じ作業をしているセドヴァラ教会から来ている男に「作業が速いのは日本語が読めるからですよ」と言っていたが、クリスティーナお嬢様の仕事が速いのは、写し取る文章を読めているせいばかりではない。
睡眠以外の時間をすべて机に向かって過ごしていたからだ。
フェリシア様やアルフレッド王子がお茶会へと連れ出してくれない限りは、クリスティーナお嬢様はずっと机に向かって写本を作っていた。
ご本人はやれることができて嬉しい、と疲れも見せずに写本を行っていたのだが、やはり根をつめていたのだろう。
ほんの少しのきっかけで、寂しがりの虫を疼かせてしまっていた。
「……静かに」
フェリシア様への報告を終えて戻ると、静かにするようカリーサに合図を出される。
足音にも気をつけてベッドへ近づき天蓋の中を覗くと、目元を赤く腫らしたクリスティーナお嬢様が黒い犬のぬいぐるみの脚へ顎を乗せて眠っていた。
どうやら泣きつかれて眠ってしまったらしい。
ベッドの端ではクリスティーナお嬢様が『コクまろ』と呼んでいる黒柴が、心配げな表情でお嬢様と同じようにベッドへと顎を乗せて見上げている様子が可愛らしかった。
「お目覚めになられたら、庭の散策をお勧めしましょう」
「そのまえに軽食を用意するよう、料理人に伝えておかなければ」
「目覚めて最初に何をお飲みになるかしら? レモン水? それともお茶かしら」
声は潜められているのだが、みんな判断に困って囁きあう。
クリスティーナお嬢様は我儘を仰らない、ある意味ではお仕えしやすいお嬢様なのだが、我が薄く、何を用意しても喜んでくださるので、侍女や女中としては好みの把握しづらい主でもある。
こういうところだけは、本来の主であるアルフレッド王子は仕えやすい方だった。
本当に、こういうところだけ、なのだが。
「たくさん泣いていらっしゃったので、お目覚めにはレモン水をご用意いたしましょう。朝食は、お嬢様のお好きな玉子のサンドイッチを。スープはシンプルな野菜スープに変更しましょう」
平民の女中、とこの中では一番身分が低いのだが、クリスティーナお嬢様の好みは子守女中をしていたカリーサが一番よく知っている。
クリスティーナお嬢様が強くお好みを仰ってくださらないぶんは、どうしてもカリーサの経験に頼ることになっていた。
「……散歩をお勧めするのは難しいかもしれませんが、ここはコクまろに頑張っていただきましょう」
名前を呼ばれ、黒柴が頭をあげる。
カリーサが黒柴に木皿を見せると、クリスティーナお嬢様が目覚めたらいかにも遊んでほしそうにおねだりをするのだ、と演技指導を始めた。
犬にそんなことを言って通じるのだろうか、とは少し疑問だったのだが、黒柴は乗り気なようだ。
普段は尻尾を振らないよう躾けられていたが、今は嬉しそうにパタパタと振られていた。
……これも演技?
かくしてカリーサによる演技指導のたまものか、目覚めたクリスティーナお嬢様は軽食を取ったあと、黒柴のおねだりに応えるべく薄めのコートを着て庭へと出る。
これはクリスティーナお嬢様としては珍しいことだ。
レオナルド様がルグミラマ砦へと向かう前に、たまには外へ出るようにと言付けておられたが、クリスティーナお嬢様はこれをあまり守られてはいない。
いつも写本をしたいだとか、気になる資料を読み込みたいだとか、なにかと理由をつけて外へ出ることを回避していた。
「まろー? とってこーい!」
ていっとクリスティーナお嬢様が木皿を水平に投げる。
黒柴にそれを取ってこさせるという遊びをしているのだが、たまに
「……なんだ、元気そうじゃないか」
「あ、アルフレッド様」
白銀の騎士経由でアルフレッド王子の元まで連絡が届いたのだろう。
二匹の犬と追いかけっこを始めたクリスティーナお嬢様の姿に、アルフレッド王子はどこか安心したような顔をしていた。
「アルフレッド様、なにかご用ですか?」
「おまえがレオナルドを恋しがってミーミー泣いている、って報せがあったから、様子を見に来たのだろうが」
「ミーミーは泣いていませんよ。ちょっとメソメソしてただけです」
心配して来てくれたのですね、ありがとうございます、と頭を下げるクリスティーナお嬢様に、アルフレッド王子は「仕事だからな」と素っ気無い。
私ならば何か気に障ることでもしてしまったのだろうか、とお腹が痛くなりそうなアルフレッド王子の態度なのだが、クリスティーナお嬢様はまるで気にしていないようだ。
朝は本人が言うようにメソメソと泣いていたのだが、今は屈託なく笑っていた。
犬たちと庭を駆け回ることが、いい気分転換になったのだろう。
「半日カレーライスのお腹で寝ていたら、落ち着きました」
「かれーらいす……?」
不思議な響きを持つ単語に、アルフレッド王子が眉を寄せる。
説明を求めるような視線がこちらに来たので、小声でクリスティーナお嬢様の言葉を補足した。
カレーライスとは、昨日完成したばかりの黒い犬のぬいぐるみの名前である、と。
どうやら食べ物の名前らしいのだが、私には聞き覚えがなかった。
エセルバート様について諸領を旅して回っているという叔父ならば聞いたことがあるだろうか。
……今度会った時にでも、叔父様に聞いてみましょう。
大きなぬいぐるみと、ハグによるストレス発散効果についてを、薄い胸を張って語るクリスティーナお嬢様は大変可愛らしい。
大変可愛らしいのだが、可憐な外見と悪戯小僧のような表情がなんともチグハグだった。
この辺りが、アルフレッド王子がクリスティーナお嬢様の
クリスティーナお嬢様の外見に惹かれてくる者など、存外したたかでお転婆な中身を知れば裸足で逃げ出す、と。
「やはりぬいぐるみによるハグと、泣くことによるストレス発散作用は素晴らしいですね。いい気分転換になりました」
「ならば毎日一時間の散歩を日課として義務付けてやろう。聞いているぞ。写本に夢中になりすぎて、外の空気をろくに吸っていないようだな」
「一時間は長すぎます! 十五分にまけてください」
こればかりは「もっと言ってくれ」と侍女と女中の心がひとつになった。
散歩の時間を持つように諭すアルフレッド王子と、その時間を少しでも減らそうとするクリスティーナお嬢様の攻防に、お嬢様の視界に入らない位置に立つ侍女と女中が今にも大きく頷きそうな顔をしていた。
主筋の人間同士の会話なので、同意でも求められない限り使用人としては相槌など打たず、何も聞こえていませんといった風を装うのが正しいのだが、クリスティーナお嬢様の引き籠りについては皆心配しているのだ。
……クリスティーナお嬢様は、クローディーヌ様とは違った意味で離宮に閉じ籠っておいでですからね。たまには外に出た方がいいです。
一時間散歩の時間を作れ、十五分にしてください、午前と午後二回に分けて三十分ずつでもいいぞ、とクリスティーナお嬢様とアルフレッド王子の言葉の応酬が続く。
私ならばアルフレッド王子から命じられれば、嫌でも「はい」と言うしかないのだが、クリスティーナお嬢様はなんとか踏みとどまっている。
……ああ、なんだろう。主張としてはアルフレッド王子の意見に賛成なのだけど、クリスティーナお嬢様には最後まで抗ってほしいっ!
このアルフレッド王子といういじめっ子に対し、逆らえる人間がいるということが、私には不思議でならない。
クリスティーナお嬢様は国にとって大事なお客様で、機嫌を損ねるわけにはいかないという説明は受けているが、それにしたって功爵の娘と王爵を持った王子様だ。
身分的にはアルフレッド王子の方が圧倒的に上である。
「部屋にばかり閉じ籠っているから、寂しくなるのだ」
「う~」
なにか反論は、とクリスティーナお嬢様が言葉を探しているのが判った。
うろうろと視線が彷徨い、最後には諦めたのか項垂れてしまう。
アルフレッド王子は公人として振舞う時には隙を見せない方だ。
そしてクリスティーナお嬢様は、今朝は少し不調だったようだが、基本的には理性的な行動を取る少女である。
理路整然とした説明を受ければ、自分の理性が正しいと判断するものを選択する少女だった。
「……午前と午後の二回、三十分ずつお散歩をすることにします」
クリスティーナお嬢様には教えられないが、視界に入らない位置にいる使用人たちはみんな笑顔だ。
みなクリスティーナお嬢様の引き籠りには、思うことがあったらしい。
「……そんなに寂しいのなら、この離宮にはアレがあっただろう。愚妹が作らせたレオナルドの噴水が」
「それならすでに発見済みですけど……今のレオナルドお兄様より若いし、動きませんし、しゃべりません」
姿だけあっても、寂しいのは変わりませんよ、と肩を落とすクリスティーナお嬢様に、アルフレッド王子が手を差し伸べる。
そうされるのが不思議でもなんでもないことのような顔をして、クリスティーナお嬢様はその手を取った。
……アルフレッド王子が、婚約者以外の女の子をエスコートするなんて、考えたこともなかったな。
その婚約者のエスコートをすることでさえ、公式な場ぐらいしかなかった。
今日のように、公式な場でもなんでもない庭の散歩をするだけのことで、自然な仕草で女の子のエスコートをする姿なんて、初めて見る。
……んん? 違うかな? アルフレッド王子が優しくするのなんて、それが必要かどうかの打算でしかないような?
少女に優しいアルフレッド王子、という目の前の光景がどうしても理解できず、つい自分の納得できる理由を探してしまう。
アルフレッド王子という人物は、
ありとあらゆる意味で。
そんなアルフレッド王子が、打算もなしに少女に優しくするとはどうしても信じられなかった。
……アルフレッド王子がクリスティーナお嬢様に優しいのは、お嬢様が大切なお客様だから?
そう考えれば、アルフレッド王子がエスコートぐらいしても不思議でもなんでもないのかもしれない。
下心なしに他人に親切なアルフレッド王子など、アルフレッド王子ではないと言い切れる自信があった。
それほどまでに、私はアルフレッド王子という人物を間近く見てきた人間である。
……違った。アルフレッド王子は、私にはすごく厳しい人だけど、もとから有益な人には優しい人だった。
クリスティーナお嬢様がお客様だから大切にしているのではない。
クリスティーナお嬢様が有益であり、話を振ればあの可愛らしい顔からアルフお兄様への賛美が出てくるから気に入っているのだろう。
私を女中として召し上げたのと同じ理由だ。
アルフレッド王子は有益な人間の他に、アルフお兄様信者にも優しいところがある。
アルフレッド王子がクリスティーナお嬢様に優しい理由。
それは口からアルフお兄様賛美を垂れ流す人間を側に置いておきたいだけ、という実に馬鹿馬鹿しい理由が一番しっくりとくる気がした。
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