第65話 オレリアの近況

 グルノールの街からワイヤック谷へと向かうのは二度目だ。

 谷に向かうこと自体は三度目になる。

 冬の終わりであったり、春であったりと、雪の季節に訪れるのは初めてなのだが、やはり不思議な霧のむこうに広がる谷の底は、季節を問わず変わらぬ様子をしていた。

 谷の外はどこを見ても雪景色だったのだが、霧を抜けた谷底には雪景色どころか、谷の外に比べるとほんのりと暖かい気さえする。

 とはいえ本当に暖かいわけではなく、雪がないだけ寒さがマシに感じるというだけのことだ。


 馬車がオレリアの家の前に止まると、ステップが用意されるのを待って一番に馬車から飛び出した。

 本当なら一番はレオナルドであるべきなのだが、待ちきれなかったのだから仕方がない。

 ここには淑女らしく、と注意をしてくる人間もいないのだ。

 少々はめを外してもいいだろう。


『オレリアさん、来た、ティナれす』


 前回のように怒られないよう、扉をノックして家の中へと声をかける。

 勉強中の英語はまだまだ流暢には使いこなせないので、以前と似た話し方になってしまっていた。

 考えながらしゃべっているので、この世界の言葉が上手くしゃべれなかった頃の片言に近い。


『こんにちは!』


 玄関扉が開かれて、中から顔を出したオレリアは、私と目が合うと少しだけ目を丸くして驚いた。

 拙いながらも私が英語を使っていることに驚いたのだろう。

 私だって、前世では積極的に英語を話そうだなんて思いもしなかった。


『やだよ。誰が来たかと思ったら、黒猫が迷い込んできた』


 そう言って、オレリアは私の頭に付けられた黒猫の耳に触れる。

 冬の間は、特に神王祭の近い今の時期は、また精霊に攫われないように、と獣の仮装をするように言われていた。

 オレリアに街では浸透している風習が通じるかは判らなかったが、特にふざけた格好をして、と怒り出すことはないようだ。


 ……まあ、幼女の猫耳は可愛いしね?


 オレリアが可愛いは正義という独特の正義を持っているかどうかは知らないが、可愛いもの好きであることは確かだと思う。

 せっかくなのでその場でくるりと回り、腰から付けられた黒猫のしっぽも見せてみた。


『……舌っ足らずは相変わらずだが、英語が話せるようになってるじゃないか』


 仕立てが気になるのか、尻尾を弄りながらではあったが、オレリアがそう誉めてくれる。

 嬉しくなったので、薄い胸を張って誇ってみた。


『がんばった。オレリアさん、話す。勉強中』


 もう少し流暢に話せたらよかったのだが、私にしては大進歩である。

 三歩進んで二歩下がった感じではあったが、これで少しは他人の目がある場所でもオレリアと話しができるはずだ。


『カリーサ、来た。一緒、いい?』


 馬車から私の着替えの詰まった鞄を下しているカリーサのところへとオレリアを引っ張り、カリーサを紹介する。

 普段は人見知りのカリーサだったが、初対面であるはずのオレリアにむかって堂々とした子守女中ナースメイドっぷりを発揮してみせた。

 声が小さくなることもなく、きちんとオレリアに挨拶をする。


『はじめまして、賢女オレリア様。私はティナお嬢様の子守女中のカリーサと申します。この度のワイヤック谷へのお嬢様の滞在にあわせ、お嬢様のお世話係として私の滞在も認めていただきたく、よろしいでしょうか?』


『手紙で話は聞いている。料理ができるそうだね。役に立つのなら、いてくれてもかまわないよ』


 セドヴァラ教会の許可は取れているのだろう? と確認をされたので、大きく頷く。

 ワイヤック谷へ行くことについて、私の滞在も、カリーサの滞在も事前にセドヴァラ教会から許可は取っていた。

 本来は部外者の立ち入りは認めていないのだ、と何度も聞かされたが、その『本来は』という部分を覆させたアルフの交渉術はいつか教わりたいものである。

 許可をもぎ取ってきてくれたアルフを凄いと褒めちぎり、感動のままにコツを聞いたところ、絶対に真似をするなとレオナルドには嫌な顔をされた。

 もしかしたら、あまり誉められた方法ではないのかもしれない。


『谷の魔女が、随分と丸くなったな。ティナの影響か?』


 こちらも馬車に積んだ荷物を下しつつ、挨拶の遅れていたレオナルドが近づいてくる。

 近づいてきて、余計な一言が癇に障ったのだろう。

 レオナルドの肩へとオレリアの杖が振り下ろされた。


 ……これって、ある意味で照れ隠し?


 オレリアが杖で黒騎士を叩きまわす、とは聞いていたので、別段驚きはない光景だった。

 オレリアの気が済むまでレオナルドは追いかけ回されることになるので、その間に私はヘルミーネに貰った裁縫箱を馬車から下ろす。

 この中に、オレリアから教わったレース編みに必要な道具が詰められていた。







『脇屋は……今はあの子たちが使ってるからね。おまえは小さいから、一緒に寝ればいいか』


 荷物を運び込んだあと、早々にメール城砦へと向うレオナルドを見送った。

 一泊ぐらいしてもよかった気がするのだが、オレリアの家のベッド事情を考えたのかもしれない。


 谷に滞在している間、私とレオナルドはオレリアの家の脇屋を使っていた。

 もともと弟子の生活スペースとして用意されていた脇屋は、ベッドが一つしかない。

 私が子どもなのでなんとかレオナルドと一緒に寝ることができていたのだが、今はオレリアに弟子が二人いる。

 弟子の数にあわせてベッドの数は増やしたらしいのだが、今回の私とカリーサの滞在は本来ならありえないことなので、客用のベッドなどオレリアの家にはない。

 となれば、今回も私は誰かと同じベッドで眠ることになる。

 そう思っていたのだが、まさかオレリアから同じベッドの使用許可が出るとは思わなかった。


『一緒、ベッド? やっほー!』


 これで寝る時間になれば英語以外で話しができる、と内心で喜ぶ。

 今の私が使える範囲の英語では、どうしても伝えられることに限界があるのだ。

 オレリアがこの世界の言葉を話せると知っている以上、使いこなせない英語よりはそちらの方がいい。


『では、私は馬車で寝ます』


 馬車がない方が身軽だ、とレオナルドはここまで乗ってきた馬車を谷へと置いていった。

 もしかしなくとも、初めからベッド数が足りないと判っていたのだろう。

 オレリアの家の間取りは、レオナルドも把握している。


『脇屋の屋根裏は空いていたはずだ。ベッドはないが、古い長椅子がある』


 長椅子の上で、馬車から毛布を持ち込んで寝ればいい、とオレリアは言う。

 オレリアの家の屋根裏は調薬の道具や材料で埋まっているらしいのだが、まだまだ修行中の弟子が住む脇屋の屋根裏は空いているようだ。

 これでカリーサの寝床の確保もできた。


『食事、カリーサと私、作る。許可?』


『好きになさい。どうせあの子たちもろくに料理ができないのだから』


 むしろ女中メイドが作る料理というものに期待したい、と素直にオレリアが本音を漏らした辺り、弟子二人は本当に料理が不得意なのだろう。

 師と仰ぎ、教えを乞う側が師の世話をするのは当然のことだ。

 そのオレリアの世話をするはずの弟子が料理下手では、オレリアの無味の料理に調味料で味をつけるだけといった偏った食事が改善されるはずもない。







「汚いね!」


 まずは台所の確認を、とカリーサに続いて脇屋に入って驚愕する。

 以前は様々な調味料や香辛料が綺麗に整頓された台所だったのだが、今は見る影もない。

 使ったままの鍋や皿がシンクへと詰まれ、異臭を放っている。

 とてもではないが、この台所で作られた食事を食べたいとは思えなかった。


「なんでこんなことになってるんですか?」


 オレリアの弟子であるパウラを捕まえて、問い質す。

 パウラは調子のいい物言いをする女性だったと記憶していたのだが、へらりと誤魔化すように微笑んだあと、歯切れの悪い言い訳をしはじめた。


「いやぁ……私たちみんなお料理が苦手で……」


「その話は聞きました! でも、料理が苦手ってだけでこんなことにはなりません」


 新しい弟子二人は、二人とも薬術には熱心に取り込んでいるが、料理に関しては『腹に入れば同じ』派で『食器など、なくなったら洗えばいい』派でもあった。

 性格は真逆な二人なのだが、変なところで気が合ってしまっている。

 そしてオレリアも、長く調味料を食べるような生活を続けていたため、弟子の作る料理に関してはなにも言わないようだ。


 ……そこもしっかり躾けようよ! オレリアさんっ!!


 料理も調薬も似たようなものだと思うのだが、こんなずぼらな弟子で本当に大丈夫なのだろうか。

 調薬された薬に異物が混入し、薬としての効果を発揮しない、なんてことになったら目も当てられない。

 これは薬術以前に、改める必要があると思う。


 もう一人の弟子であるバルバラを捕まえて、パウラと二人で台所の掃除をさせる。

 掃除など薬師の仕事ではない、と苦い顔をするバルバラには、台所ではなく調薬をする部屋だと考えろ、と叩き込んでみた。

 口から人の腹の中へ入る物だと思えば、薬も料理も大差ない。

 台所は汚れ物を溜めていい場所ではないのだ。


 台所の掃除を二人に任せ、カリーサを連れて家の外を案内する。

 井戸と畑は外せない。

 岩壁に作られた食料貯蔵庫と家畜小屋も教えておく。

 以前は鶏が六羽いたのだが、今は人が増えたからか十羽になっていた。

 まともに料理を作れる気がしない弟子二人を思うに、折角の新鮮卵も無駄にされていそうな気がする。


 食材を運ぶだけの時間で汚れきった台所の掃除が終わるはずもなく、結局私とカリーサが参戦して掃除を終わらせた。

 カリーサはお嬢様である私が掃除をすることに難色を示したが、私がしたいのだから、と言って押切る。

 人数的にはカリーサ一人でも十分料理できる数だったが、私だってたまには働きたい。


「……久しぶりですね」


 小麦粉に卵を入れて、パスタ生地を捏ねる。

 ワイヤック谷で暮らしていた頃は、ほとんど毎日自分で食事を作っていた。

 あの頃は普通に包丁を使っていたのだが、さすがに今は包丁を使う作業はさせてもらえなかった。

 お嬢様に料理をさせるなんて、というよりは、単純に子どもに刃物を持たせるのは危ないと考えているのだろう。


 私の捏ねたパスタ生地を、カリーサが綺麗に麺状へと切りそろえる。

 いつか私が勘で作った微妙な味のシチューパスタは、カリーサが作ると見事なスープパスタになった。

 材料はほとんど変わらないというのに、この仕上がりの差は謎だ。

 経験の差というものだろうか。


「……やっぱり、お料理もできるようになりたいですね」


「次は、サリーサが来るので、サリーサに教わったらいいと思います」


 マンデーズの館に勤める三姉妹のうち、料理上手なのはサリーサだ。

 そのサリーサがカリーサと入れ替わりでグルノールの館へ来てくれることになっているので、サリーサから料理を教わればいい、とカリーサは言う。

 いつかは平民の旦那様を捕まえる予定の私としては、料理は必須で覚えておきたいものだ。


「……レオナルドさんが、包丁を握らせてくれない気がします」


 危険だ、といってレオナルドに刃物を取り上げられる未来しか想像できない。

 これはきっと、私がもう少し大きくなっても変わらない気がする。

 目標は成人しても平民として生きることなのだが、レオナルドはこのまま私にお嬢様生活をさせたいのだろう。

 家事の苦労などさせず、何不自由なく過ごさせたいのだと。


 ……本当になんにもできない子になっちゃったら、それはそれで困りますよ。


 前世の記憶と、今生でわずかでも家の手伝いをした経験があるからこそ、本当に最低限のことはできるつもりだが。

 オレリアの家では、シチューを作るのにも頭を悩ませて何度も失敗している。

 家事の知識や経験は、将来のためには絶対に必要なものだ。


「……子ども用の、安全な調理器具をおねだりしたら、どうでしょうか?」


「それは前に少し考えましたけど、どうでしょうかね?」


 ねだれば簡単に用意してくれる気はするのだが、いざ使おうとしたらレオナルドには止められる気しかしない。

 いっそ、最近は刺繍の仕事で少しずつ手に入るようになってきた給金を使い、自分で買い揃えた方がよさそうだ。







 夕食の片づけが終わると、カリーサの監督の下、ヘルミーネからの宿題をやる時間だ。

 英語で日記を書けという宿題は、塗板こくばん白墨チョークを使ったカリーサの授業を受けつつ、紙へと清書をして行われる。


 ……女中メイドまで英語を知ってるとか、黒騎士に仕える女中が凄いのか、イリダルの教育が凄いのか、どっちだろう?


 貴族に必須の教養だとは聞いているが、それは読み書きまでの話だ。

 黒騎士のように、オレリアと流暢に話せるレベルには身につけていない。

 しかしカリーサは、レオナルドと同レベルには不自由なくオレリアと会話ができている。

 ただの女中と考えるには、有能すぎる女中だ。


 宿題が終わると、脇屋の屋根裏へと去っていくカリーサを見送る。

 カリーサは今夜からの寝床を確保するため、今から屋根裏の掃除が待っていた。

 手伝うとは言ってみたが、丁寧に辞退されている。

 となれば、オレリアと内緒話をしたいのだが、オレリアは弟子二人に薬術の手ほどきをしているため、それがひと段落するまで寝室へはこない。


 やっとオレリアが寝室に顔を出したのは、睡魔に負けて私が半分寝かかっている時間だった。

 これでゆっくり話ができる、と眠い頭でふらふらとオレリアに近づくと、寝る時は素直に寝るものだ、と怒られてしまった。


「でも、せっかく内緒話ができるチャンスなのに……」


 ほかに人はいないから、とのびのびとこの世界の言葉を使う。

 周囲に人がいない以上、オレリアに対して無理に英語を使う必要はない。


「冬の間は滞在する予定だろ? なにも今夜焦って話しなんてしなくても、話せる時間なんてたっぷりあるサ」


 肩を押されてベッドへと誘導される。

 たしかに冬の間滞在する予定ではあるので、焦ってあれもこれもと話す必要はないのかもしれない。

 もしかしなくとも、私をオレリアのベッドに泊めてくれるのは、ゆっくり話す時間を確保しようと考えてくれてのことだろう。

 そう思えば、眠いのを無理して内緒話をする必要はなかった。


「……わかりました。でも、一つだけ」


 これだけは早く伝えたい、とグルノールの街で行なわれている聖人ユウタ・ヒラガの研究資料の写本についてオレリアに伝える。

 館で研究資料を読む機会があった。

 ワーズ病の薬の作り方がわかった、と。


「それを伝えようとして、近頃は変な手紙を寄越すようになったのか」


「前回来た時も、これを伝えたかったんだけど……」


 英語が書けなくてダメでした、と言い終わるより早く、オレリアの両手が私の頬をつかまえる。

 勢いよくつかまれたので、頬から気持ちのいい音がして、私の目も一気にめた。


 ……あれ?


 眠気の飛んだ頭で見ると、オレリアの目が少し据わっている。

 これはなんだかおかしな雰囲気だ、とすぐにわかった。

 なんだか凄くオレリアを怒らせてしまったようだ。


「おまえの子守女中を呼んできな。今すぐに」

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