第63話 グルノールで過ごす二度目の冬
結局、屋根裏部屋で作業ができる気温のうちに刺繍を完成させることはできなかった。
これ以上は風邪を引く、ということで冬の間は自室で作業することにして、刺繍道具一式を自室へと移動する。
今度の隠し場所は、熊のぬいぐるみの影だ。
座った状態でもレオナルドの顎ほどの高さがあるこの巨大なぬいぐるみは、ベッドを占拠して邪魔でもあるのだが、その巨体がたまに役立つ。
もう少し私に冒険心と木工の知識があれば、お腹あたりに隠し金庫を増築していたかもしれない。
……綺麗に縫われたぬいぐるみに、改造のためだからって
馬鹿正直なレオナルドは、誕生日まで見たらダメだと伝えておけば、ぬいぐるみの影から覗いていたとしても視界に入れないよう目を逸らすだろう。
そもそも、ベッドに隠したと伝えれば天蓋の中まで入ってこない可能性もある。
愛すべき正直者だ。
……カリーサの部屋は薪ストーブがあるんだけど。
まだ十歳では、子ども一人で薪ストーブを使わせたくはないらしい。
残念ながら今年の冬も、完全に三階の住民になるしかない。
季節が秋から冬に変わると、私の生活も少し変わった。
メンヒシュミ教会で習える基礎知識の授業が終了し、平民が一般的に修学している知識は身に付けることができた。
このあとは学費を払って習う、より専門的なコースがあるらしいのだが、平民として生きる予定の私はそこまでの知識を必要としていないので、これ以上メンヒシュミ教会へと通う必要はなくなった。
これが貴族の子どもになると、英語が必修科目に加わり、礼儀や社交にまつわるマナーを身につける必要もでてくるのだが、そこは一般に広く門戸を開いたメンヒシュミ教会の役割ではなく、各家庭で雇う家庭教師の領分になる。
我が家の場合は、ヘルミーネが担当していることだ。
……貴族になる予定はないけど、オレリアさんとはお話ししたいからね。
本当はこの世界の言葉も話せるオレリアなのだが、ほかに人がいるところでは英語しか使ってくれない。
二人だけならこの国の言葉を使ってくれるので会話も可能だが、英語しかオレリアが話してくれない場合に、せっかく滞在が許されてもろくに話しもできない可能性がある。
となれば、貴族になる予定はないのだが、オレリアと不自由なく手紙のやりとりをするため、ほかに人がいても会話を成立させるためには、私が英語を覚える必要があった。
……でも、前世といれて二度目だからか、先生がいいのか、少しだけ英語とは仲良くなれた気がするよ。
もしかしたら、子どもの頭が柔らかいということも関係しているかもしれない。
前世よりは理解できはじめている気がする。
本当に、気がするだけかもしれないが。
……ゆっくりでもオレリアさんとお話しできるように、もう少し英語がんばります。
隔日で通っていたメンヒシュミ教会がなくなり、できた時間でヘルミーネに英語の授業を増やしてもらった。
メンヒシュミ教会へ通わなくなればミルシェとの縁も切れるかと思ったが、私が気にしていると周囲の保護者たちが把握してくれているので、週に一度は三羽烏亭へと顔を出せている。
完全に誤解ではないが、三羽烏亭は砦の主の贔屓の店、と近頃は街で噂されていた。
正確には、砦の主の妹が贔屓にしている店、だ。
そのせいか、少しお客が増えたと聞いている。
アルフに仲介を頼んだセドヴァラ教会との交渉が終わり、正式にオレリアの家へ滞在できることが決まった頃、ようやく刺繍で描いたレオナルドが完成した。
間に仕立屋から貰ってきてもらった仕事をしたり、来年の春華祭にむけてレオナルドのシャツの袖へ刺繍を入れたりとしていたので、結構時間がかかっている。
「……なんとも、微妙な気分になる仕上がりですね」
完成した絵画を見て、悩みに悩んで出てきたヘルミーネの感想がこれである。
「微妙……ダメってことですか?」
自分では良い仕上がりだと思うのだが、ヘルミーネから見たらどこか変なのだろうか。
少し不安になり、どこがダメなのかと聞いてみた。
「いえ、素晴らしいと思います。下絵も、刺繍の腕も、全体を見ての仕上がりも、どれも素晴らしいとは思います。ですが……」
構図が素直に誉めることを拒否させるのだ、とヘルミーネは言う。
たしかに文句のつけようのない仕上がりなのだが、モデルとモチーフのせいで素直に誉められないのだ、と。
「……お嬢様、まず布を板に張り付けてみましょう。そうしたらヘルミーネ先生の見え方も変わってくるかもしれません」
今のところ刺繍をした布でしかないので、見栄えが悪いのだろう、とカリーサは言う。
絵の具を使った絵画等と同じように、キャンバスへと張り付ければ刺繍された絵が映えるだろう、と。
「でも、布のままの方がラガレットへ送るのは楽ですよ?」
「輸送は楽かもしれませんが、ジェミヤン氏にお見せするのですから、体裁は整えた方がよいかと思います」
「それだと今度は額縁が必要になってきますね……」
そこまで考えてはいなかった。
ちょっとした悪戯心ではじめた刺繍だったのだが、意外に費用がかかる。
完全に予算オーバーだ。
ここしばらく仕立屋の仕事をしていただいた給金で用意できるだろうか。
一度アルフに相談してみた方がいいかもしれない。
「絵画としての体裁を整えることは重要ですが、本当にこれをラガレットのご領主へお見せするのですか?」
「ジェミヤン様は下絵に協力してくれたので、こういう絵だってご存知ですよ?」
刺繍でレオナルドの絵を描きたいが、絵心がないので下絵を書いてくれる画家を紹介してほしい。
そう相談したら、何度か手紙のやり取りのあとにこの下絵が描かれた布が送られてきた。
ジェミヤンが下絵を見ていないはずがない。
「……ティナさんはこの仕上がりになんの疑問もないのですか?」
「え? えっと……」
考え直せ、と促されていることは解るので、改めて仕上がった刺繍へと視線を向ける。
カリーサが早速キャンバスへと貼り付け始めているため、ピンと布が張られた効果でより絵画として見られるものへと変貌していた。
「我が兄ながら、少し色っぽくなったかな、とは思います」
ピンクの糸を混ぜた効果だろうか。
全体的な仕上がりがピンクで色っぽい。
ピンクで影を塗るという方法はCGでのみできる効果かと思っていたのだが、案外見られるものに仕上がったと思う。
「ちょっと、ではございません。刺激物です」
こんな物は淑女の刺繍として世に出してはいけません、とヘルミーネは言う。
レオナルド本人へ贈るだけならば悪戯や悪趣味で片付けられるかもしれないが、他者へ見せるだなんて、と。
「しかも、絵のモデルになっているご本人へはなにも知らせず、そのご本人にこれを運ばせようだなんて……」
「レオナルドさんが冬に旅行をするのは毎年恒例ですからね。ついでに運んでもらえるんなら、それが一番いいと思うんですけど……?」
ダメですか? と小首を傾げてヘルミーネを見上げる。
これはレオナルドへの悪戯ではないですよ、合理的に考えた結果です、とヘルミーネに教わった淑女の笑みを浮かべたら、作り笑いなど今のこの場では不要である、と減点されてしまった。
「……でしたら、レオナルドさんにはすべてをお話した上で、ついでに運んでもらえるようにお願いをしたらいいですか?」
それなら
騙まし討ちではなく、レオナルドは中身を承知で運ぶのだ、と。
この提案には、ヘルミーネも少し考え込んだようだが納得をした。
承知で運ぶのであれば、問題はないだろう、と。
ただし、ジェミヤンへは念入りに手紙をしたためるように、とも注意された。
絵画好きのジェミヤンに見せれば、画廊へ飾ることも考えるかもしれない、と。
……なにそれ、面白そう。
預けた絵画を引き取りに行くレオナルドが、画廊で自身が描かれた絵と対面するさまを想像してしまい、思わず噴出しそうになった。
仕上がりが思いのほか良かったので、つい忘れがちになるのだが、この絵画を作った大本の原動力は悪戯心だ。
レオナルドが驚いて固まるのなら、作り手としてこれ以上の喜びはない。
レオナルドへ中身については知らせる、という約束をヘルミーネとしたので、冬の移動にあわせて運んでもらえるように頼みながら、中身がレオナルドの絵であることを包み隠さずに伝える。
レオナルドの誕生日プレゼントになる予定で、ジェミヤンには下絵を手伝ってもらった際、お礼として仕上がった絵を見せることになっているのだ、という事情説明も同時に行なった。
とくに『誕生日プレゼントになる予定』だと強調しておいたので、レオナルドが故意に絵を確認することはないだろう。
輸送に際し、梱包はカリーサに任せた。
絵が汚れたり壊れたりしないよう、頑丈な木箱を用意してくれていたので、それこそ故意に見ようとしなければレオナルドの目に触れることもないはずだ。
あとはジェミヤンへ一筆したためる。
「ご協力いただいた下絵で素晴らしい絵が仕上がりました。お約束どおり完成品をお送りいたします。この絵は後日我が兄への贈り物になりますので、春の終わりまでにご返却ください。とても私的な絵ですので、できればご自宅で観賞くださることをお願いいたします」
……こんな感じかな?
ヘルミーネの要求はすべて入れられたと思う。
これを読むことになるジェミヤンがどう判断するかは、それこそジェミヤン次第だ。
自宅での観賞部分を、郊外の本宅と捉えるか、ほぼ自宅として使っている画廊と捉えるかでいろいろ変わってくるが、私の知ったことではない。
軍神ヘルケイレスの
あとはこれを、レオナルドの冬の移動に合わせて運んでもらうだけである。
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