第57話 盗み聞き

 少しずつ絵ができてくる刺繍が嬉しくて、腕を伸ばして全体を眺める。

 故意にピンク色の糸を混ぜた刺繍の仕上がりは、少し離れて見ないと判らないのだ。

 しかも、まだ顔と背景の一部しかできていないため、離れて見直すのもただの自己満足でしかない。


 ……これなら、今年の神王祭までには余裕で完成しそうだね。


 ラガレットの画廊で刺繍の絵画を見た時は、いったいどれほどの手間と時間がかかっているのだろうかと戦慄したものだったが、いざ自分でやってみればなんということはない。

 刺繍で描く絵画といえども、毎日の積み重ねの結果でしかなかった。


 ……神王祭前にできたら、ルグミラマ砦かマンデーズの街へ行くついでにレオナルドさんにラガレットへ届けてもらおうかな?


 もちろん、絵の内容には一切触れずに、だ。

 誕生日に贈るからと言っておけば、律儀に中身の確認などしない気がするのだ、あのレオナルドならば。

 仕事大事で妹を放置することもある融通の聞かない兄ではあったが、こういう時はその馬鹿正直さがありがたくもある。


 屋根裏部屋に籠って刺繍ができるのは、秋も中頃までだろう。

 それも、昼の間だけだ。

 夕方からは気温が下がってくるので、風邪を引いたら昨年のように強制退去させられる可能性もあると考え、今年は早めに切り上げる予定である。

 カリーサが相手ならいいが、レオナルドによる強制退去になった場合に刺繍が見つかってしまう危険性があった。


 ……完成させるまでは、レオナルドさんに見られるわけには行かないのです。


 完成品を突然見せてぎゃふんと言わせたい。

 喜んだ顔が見たい、ではなく、ぎゃふんと驚いた顔が見たい、というところが我ながら天邪鬼だな、とは思う。

 どうせ悪戯をするのなら、全力で、だ。







 ……あれ?


 そろそろ日が陰ってきた、と屋根裏部屋での作業を切り上げ、三階の自室へと向う。

 レオナルドが屋根裏部屋へ近づいて来た時のために、と警戒して黒犬オスカーには階段で待機してもらっていたのだが、その黒犬の姿がない。


 ……ベルトラン様でも来たのかな?


 近頃では黒犬が私の言いつけを破ることはなかった。

 階段で待機を命じたら、私が「よし」と言うまで待機してくれていたのだが、今日はいない。

 ということは、黒犬の中で最上位にいる飼い主のベルトランが館に来たと考えられる。


 なんとなく気になって、自室へ戻るのはやめることにした。

 そのまま足音を忍ばせて二階へと下りると、レオナルドの部屋の前に黒犬の姿がある。

 足音を忍ばせはしたが、犬の耳には十分聞こえる音がしていたのだろう。

 黒犬はすでに私の存在に気づき、こちらへと顔をむけていた。


「オスカー、ベルトラン様でも来ているんですか?」


 声を潜めて聞いてみるのだが、黒犬が人間の言葉を話すわけがない。

 無言で私の顔を見つめてくるだけの黒犬に、ひとしきり頭を撫でたあと、扉に耳を付けて中の様子を探ってみることにした。


「オスカー、しぃー」


 私が盗み聞きをしようとしている、と黒犬にも解るのだろう。

 強く止めることはできないようだったが、それでも非難するように「クゥ」と少し情けない声を出す。

 騒がれては部屋の中のレオナルドに気づかれてしまうので、なだめようと両手を伸ばして黒犬の顔に触れる。

 両頬を包むようにして顔をムニムニと揉みしだくと、黒犬は嫌がるように後ろへ下がって私から距離を取った。

 扉に耳を付けたままでは手が届かない距離まで逃げてしまったので、黒犬を撫でることは諦める。


 ……まあ、いいや。中でなんのお話してるのかな?


 手の届かない黒犬より、今日は扉の中が気になった。

 普段であればレオナルドの仕事になど顔は突っ込まないし、ましてや盗み聞きをしようだなんてことも思わないのだが、今日は本当になんとなく悪戯心が湧いたのだ。


 ぴとっと耳を扉にはり付けると、中からはやはりベルトランの声が聞こえた。

 くぐもっていてはっきりとは聞き取れないのだが、ベルトランの声には少し険がある気がする。


 ……ジャン=ジャックの話?


 なんとなく、会話の中にジャン=ジャックの名前が混ざっていることはわかった。

 もっとよく聞き取れないかな、と扉に寄りかかるようにしてくっつくと、さすがに黙っていられなくなったのだろう。

 すぐ真横で黒犬が「ワン!」と中にいる人物へと『盗み聞きをしている人間がいる』と警告を発した。


「ひゃ、わっ!? びっくりした……!」


 至近距離から聞こえた犬の鳴き声に、飛び上がって驚く。

 そのままバランスを崩して扉にぶつかってしまったため、大きな音が廊下に響いた。

 これは確実に部屋の中の人間にもまる聞こえだろう。

 コツコツコツと早足に扉の前まで進んでくる足音が聞こえ、すぐに中から扉が開かれた。

 逃げる時間も、隠れる時間もない。

 扉という支えを失い、私の体が部屋の中へと傾く。

 完全に倒れる前に、ベルトランの太い腕に抱きとめられていた。


「……なんだ、お嬢さんか。盗み聞きとは、感心せんな」


「ごめんなさい」


 見つかってしまったからには、と素直に謝る。

 ちょっとした悪戯心で盗み聞きをしてしまった、と。


 ……そしてオスカーはやっぱりベルトラン様の犬だね。


 ほとんど毎日私の所へと来ていて、私の命令も聞くため忘れかけていたが、やはり黒犬の飼い主はベルトランなのだ。

 ベルトランに命じられて扉を守るのならば、私の盗み聞きすら見逃してはくれない。


 ……裏切りもの。


 完全に八つ当たりではあったが、恨みを込めて黒犬を見つめる。

 私の視線に込められた意思が通じたのかもしれない。

 黒犬はピンと立てていた尻尾を下し、耳を伏せてしまった。


「なんのお話をしていたんですか?」


「聞いておったのだろ?」


 バレてしまったのなら、仕方がない。

 堂々と僅かに聞こえた会話の内容を聞いてみたのだが、逆に聞き返されてしまった。


「……ジャン=ジャックぐらいしか聞き取れませんでした」


 盗み聞きが見つかってしまった気まずさから、つい目を逸らしてしまう。

 ろくに会話を聞けていない、というのも嘘ではない。

 テレビや漫画では扉に耳を付けて盗み聞きをするシーンがあったが、実際にやってみると人の声などそう簡単に聞こえるものではなかった。

 扉に音が遮断されてしまうのもあると思うが、声の低い男性二人の会話ともなれば、さらに聞き取れるはずもない。


「秋になったから、ジャン=ジャックたちがそろそろ街へ帰ってくるはずだろう、とベルトラン殿は聞きに来られたんだ」


 そう言いながら、椅子に座っていたレオナルドまでこちらへと歩いてくる。

 なにか変だな? と覚えた違和感に眉を寄せていると、抱き支えられていた体をベルトランに立たされた。

 礼を言って自分の足で立つ頃には、レオナルドがすぐ目の前まで来ていて、しっかりと両手を握られる。


 ……なにか、変だね?


 なぜ私の手が握られているのだろうか。

 なんだかレオナルドの行動がチグハグな気がして、不穏である。

 今すぐ逃げ出したい気がしたが、両手がしっかりと握られているためにそれもできない。


「ジャン=ジャックは、いつ帰ってくるんですか?」


 不穏な雰囲気から感じる不安を誤魔化すように、話の続きを促してみる。

 聞いてはいけない話だったのなら誤魔化されるかとも思ったのだが、レオナルドもベルトランも別段隠すような話だとは思ってもいないようだ。

 普通に答えてくれた。


「隔離しておきたい期間の一年が過ぎたため、ワーズ病感染者の帰還が始まるが、希望者はそのまま開拓村に残ることになった」


 ジャン=ジャックは黒騎士なためグルノールの街へと戻ってくる予定ではあるが、開拓村へ残ることを選んだ者たちのために冬直前まで冬籠りの手伝いをしたい、とのことだった。

 力仕事であれば自分でも役に立つ、と。


「……ジャン=ジャックにしては、殊勝な心がけですね」


 隔離期間が過ぎたらすぐに街へ戻りたい、と言い出すかと思っていたのだが。

 もうしばらく村へ残ると決めた者のために働きたい、などと言い出すとは思いもしなかった。


 ……奉仕の精神にでも目覚めたのかな?


 とてもそんなタイプには見えなかったのだが、この一年でジャン=ジャックにもいろいろ思うことがあったのだろう。

 グルノールの街へ戻って来る頃には、もう『マルセル二号』だなんて呼べない性格になっているかもしれない。


 ……や、ないな。ジャン=ジャックに限って。


 春に様子を見に行った時も、砦にいた時と変わらないおどけた仕草をしていた。

 人に親切で紳士的なジャン=ジャックなど、私には想像もできない。


「ワーズ病がグルノールの街で広がった責任の一端があるからな。罪滅ぼしのつもりだろう」


「なるほど」


 ……たしかに、ただの親切心というよりは納得の理由だね。


 さて、と言葉を区切り、レオナルドが私を見下ろす。

 私はというと、先ほどから感じている不穏な空気がいよいよ目の前に迫ってきたのだと肌で感じた。

 今すぐにでも逃げ出したい。


「盗み聞きが悪いことだ、という自覚はあるな?」


「はい、ごめんなさい」


 ちょっとした悪戯心だったが、やられる側からしてみれば、やはりいい気分はしないだろう。

 それが特に聞かれて困る内容ではなかったとしても、だ。


「悪いことをしたティナには、俺は兄として罰を与えるべきだと思うんだが……」


 ティナのお父さんはどうしていた? と聞かれて、僅かに頭に引っかかるものを感じる。

 が、まずは聞かれたことに答えようと思って記憶を探った。


「……わかりません。お父さんに、怒られたことないです」


 あれ? そういえば、どうだっけ? と思いだそうとするのだが、今生の父に怒られた記憶がない。

 ならばと父の怒り方を想像してみるのだが、少し困ったように眉を寄せて、なにが悪かったのか、を懇々と説く姿しか想像できなかった。

 ただ、レオナルドが私の両手を握っている理由はわかる。

 悪戯娘の現行犯逮捕からの拘束だ。


「俺も親に怒られた記憶はないんだが……」


 レオナルドと二人揃って困り果て、ちらりとこの場にいるもう一人を見上げる。

 妻子持ちであるベルトランなら、悪いことをした子どもを叱った経験もあるだろう、と。


「うちの息子が悪さをした時には庭の木からつるしたり、朝まで屋敷の周り走りこませたりとしたが……」


「ティナには無理だな」


 私に無理というよりは、女児には無理だと言いたい。

 とくに、朝まで走り続けるだなんて私の体力では無理だ。


 結局、子どもに対する叱り方を知らなかったレオナルドは、ジークヴァルトとヘルミーネに相談をして、オーソドックスな方法を選んだ。

 おしりぺんぺんと言えば聞こえは可愛いが、要は尻叩きだ。

 私が女児である、ということが考慮されて、叩くのはレオナルドの手である。

 女児の尻を成人男性が手で撫でる、といえば如何わしいが、西洋では子どもへのお仕置きはムチで尻を叩くと聞いたことがあるので、これはたぶん女児わたしへの配慮をした結果だと思う。


 スカートの上からではあったが、レオナルドにキッチリ十回お尻を叩かれ、私は悲鳴をあげる。

 確かに盗み聞きは悪いことだと自覚していてやったことなので、このお仕置きはちゃんと受けなければならなかった。

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