閑話:レオナルド視点 俺の妹 12
あれは確か、ティナがはじめてグルノールの街へと来た日のことだ。
アルフがワイヤック谷まで迎えに行ったティナを執務室の椅子に座らせて、俺の仕事が終わるまで待たせたことがある。
ティナは俺の言いつけを守って一言も発しなかったのだが、俺はそれで
そのまま仕事に没頭してしまったのだ。
次に俺がティナの存在を思いだしたのは、尿意に耐えかねたティナが椅子からおりた時だった。
視界の端で動くものの存在に、ようやくティナがいたことを思いだしたのだ。
内心の動揺を押し隠し、どうかしたのかと聞けば、ティナのお腹は情けない悲鳴をあげる。
ティナを膝に座らせ、非常用として引き出しへ入れてあった菓子を食べさせたのだが、少し話してみるとティナはトイレへ行きたくて「おとなしく座っていろ」と言った俺の言いつけを破ったのだ、と教えてくれた。
自分は座っているだけの人形ではない、とも言いながら。
……あの時から、俺はなにも変わっていないんだな。
ティナは俺がなにも言わなくとも可能な限り俺に合わせてくれているが、俺はティナに言われるまでなにも気づけない。
それどころか、ティナがちゃんと言葉で教えてくれていても、それを聞き入れずにティナを傷つけている。
兄どころか、子どもの養育者としてすら失格だ。
……ティナは最初から、俺に子育ては無理だと判っていたよな。
出会ったばかりのティナは、孤児院へ入れるのか、親戚を探すのか、と言っていた。
俺が直接サロモンからティナを預かったというのに、俺の手元で育てられるとは欠片も思っていなかったようだ。
それが最近になって、ようやく兄と頼ってくれるようになったのに。
ポツポツと思いだされる数々の失敗に、我ながら過去の自分の頭をぶん殴りたくなった。
ティナは当てにならない兄ならばそれなりに、と俺に合わせ、いつでも歩み寄ってきてくれていたのだ。
俺はただティナの努力に甘えていただけの、兄気取りの『なにか』だった。
確かに、兄でも他人でもない。
ティナの言った「あなた、だれですか?」は、そういう意味もあったのだろう。
無意識に頭を抱えて項垂れると、頭上からヘルミーネの溜息が聞こえた。
俺に対する溜息だとは解っているので顔をあげると、疑いようもない判りやすい顔で俺を蔑んでいる。
「もともとは辺鄙な村の出身だというティナさんが、街へ出て、砦の主の妹として暮らすというのは、どれほどの努力が必要なことなのでしょうね」
村と街の常識の違いや、ただの村人と砦の主の妹としての周囲から求められる振る舞いの違い。
それらの刷り合わせにティナが苦労をしなかったはずはないのだが、ティナはなにも言わなかった。
文句一つ言わずに、兄を自称する俺に合わせた生活を送ってくれていたのだ。
「一度ぐらい兄を自称する貴方様からティナさんに歩み寄られてはいかがですか?」
ヘルミーネの指摘は正論すぎて、一言も言い返すことができなかった。
せっかく作ったのだから一応、と野菜スープを持って三階へと上がると、ティナの部屋の前にはカリーサが立っていた。
いつもは少し気弱そうな顔をしているのだが、今日は使命に燃えているのか、少しだけ強気そうな顔をしている。
……まあ、この場合の使命は、俺をティナの部屋へ近づけないだとか、入れないことなんだろうが。
とはいえ、せっかくの野菜スープだ。
冷めないうちに、と果敢に扉の番人へと挑んでみることにした。
「ティナに野菜スープを作ったんだが……」
「ワンパターンですよ、ぺっ!」
とのご伝言です、と断って、カリーサは唾を吐き出す真似をした。
真似事のあとは申し訳なさそうな表情に戻ったので、この唾吐きまでがティナからの伝言なのだろう。
「伝言でそれか?」
「……です」
ということは、ティナは俺が野菜スープを作ってくることは予想ができていたということだ。
俺の行動が単純なのか、ティナが俺のことをよく理解しているのか、はおそらく両方だろう。
俺が単純すぎて、ティナは俺とは違って家族とした人間をよく観察していてくれたのだ。
「……レオナルド様は、お嬢様のことを本当になにもおわかりになっておられないのですね」
「言ってくれるな。ティナに怒られてから、実感しまくっているところだ」
ティナに怒られるまでは気づきもしなかった、というところがまた情けない。
がっくりと肩を落とす俺に、カリーサは僅かに首を傾げた。
「では、お嬢様に怒られない範囲でレオナルド様にご助言を……」
ヘルミーネには助言を断られてしまったが、カリーサは俺に助言を与えてくれるらしい。
これはありがたく助言を受けておくべきだろう。
真摯な気持ちで助言を待つ俺に、カリーサは困ったように微笑んだあと、
……あ、さっきのティナの表情だ。
ということは、これは助言でもなんでもなく、ティナからの伝言なのだろう。
助言という名でティナの顔つきや仕草を真似、カリーサはここだけは真似しようのない豊かな胸を反らした。
「高熱で唸ってる時に、人の話も聞けない男に煩わされるとか、最悪です」
ぷすっと鼻息荒く宣言するカリーサは、意外にも演技派かもしれない。
とにかく高熱でゆっくり寝ていたいというのに、何度も俺に押しかけられたくはないというティナの怒りだけは伝わってきた。
これは機嫌を取るよりも、熱が下がるのを待った方がいいだろう。
ティナは一度体調を崩すと、回復までが長い。
虚弱というほどではないが、俺などは熱が出ても食べて一晩寝れば治るので、数日続くティナの熱が不思議だ。
長旅の疲れから来る発熱は一晩寝ればある程度落ち着いたが、今回の熱は怒りからの興奮と気疲れからきている。
熱が下がって部屋の扉の前からカリーサが退くまでに三日かかった。
「ティナ、入るぞ」
一応ノックをして、扉を開く。
ベッドの中のティナは、今日は熊のぬいぐるみを背もたれにして座っていた。
ぬいぐるみの後ろへ隠れるほどは怒ってはいないらしい。
その証拠のように
「ようやく顔を見せてくれたな」
「ここは貴方の家ですからね。わたしに拒否権はありませんよ」
少しは機嫌が直っただろうか、と少しだけ気が緩んでいたかもしれない。
ティナから発せられる相変わらずの冷たい言葉に、冷水を頭からかけられた気がした。
「……それで、貴方は誰ですか?」
なにか自分を納得させられる答えぐらい用意できたのか、とティナが三日前と同じことを聞いてくる。
じっと静かに見つめてくる青い瞳は、一言でも答えを誤れば即時に怒りへと染まるだろう。
いくら鈍いと言われる俺でも、これぐらいは理解できた。
「俺はティナの家族だよ」
「家族なら、わたしの味方だと思うんです。貴方は違いますよ。わたしの味方じゃありません」
味方でないだけならまだしも、明らかに加害者である他所の子の味方をする者を家族だとは認めない、とティナは言う。
怒ってはいても、やはりティナは理性的だ。
家族には味方であってほしいと言いながら、それでも自分が加害者である場合には、家族といえども味方である必要は無い、とも同時に言っていた。
「貴方は誰ですか?」
重ねられた言葉が、今度は「おまえはなんで存在しているの?」という、より冷たい意味に聞こえる。
じっと見つめてくるティナの瞳が、時折悲しげに揺れていることに気がついた。
これは無関心を装った瞳だ。
あくまで装ったものであり、内情は悲しみに揺れている。
三日も時間を与えたというのに、俺がティナの望む答えを導き出せていないせいだろう。
もう
本気で
「……まずは仲直りをしよう」
「貴方はわたしと喧嘩をしてるんですか?」
存在しない人と、どうやって喧嘩するのでしょう、とティナは俺の言葉を切って捨てる。
すでに会話すら拒絶され始めていた。
……カリーサとオスカーの視線が怖い。
ティナの機嫌が急降下すれば、どちらも俺の排除に動くだろう。
そうなれば、次にティナと会えるのはいつになるか判らない。
カリーサならまだ部屋から追い出されるぐらいだろうが、黒犬の方は俺の命を狙ってくる危険性がある。
「じゃあ、はじめましてだ」
最初からやり直そう、と言ってティナのベッドに腰を下した。
こうすると、ティナと目線を合う。
ティナは僅かに身じろいで後ろへと逃げようとしたが、背後の熊が邪魔をして俺から逃げることはできなかった。
「俺はレオナルド。今日から俺がティナの兄で、家族だ。俺と一緒に暮らそう。ティナに部屋を用意したぞ」
気に入ってくれるといいが、と屋根裏部屋の鍵を差し出す。
以前はただの鍵だったが、今はティナが首から下げられるように革紐をつけた。
飾り気がなくて不恰好なのが気になるが、部屋の雰囲気と鍵の古臭さから、良い仕立ての鎖を用意したら逆に違和感があるだろう。
この古ぼけた鍵には、このぐらい素朴なものの方がきっと似合う。
そう思っての選択だったのだが、おそらくは正解だ。
おずおずとティナの手が伸びてきて、この『貢物』は無事受領された。
早速部屋を見に行こう、とティナを抱き上げようとしたら、触るなと拒否された。
貢物を受け取ったからといって、簡単に許してくれるわけではないらしい。
子どもとはいえ、ティナはやはり女の子だった。
男児ほど単純ではない。
やはりついて来る黒犬の先導で、四階にあたる屋根裏へと上がる。
すでにしっかり首から下げた鍵を使い、ティナが秋まで使っていた屋根裏部屋の扉を開いた。
「……段取り悪いよ、レオナルドさん」
少しだけティナの態度が軟化している。
知らないお兄さんから、レオナルドさんに呼び方が戻った。
「部屋を使っていいって鍵を出すぐらいなら、わたしの体調のいい時か、部屋を事前に掃除したあとにするべきです」
「その通りだな」
秋の終わりからほぼ半年のあいだ閉ざされていた部屋は、少し埃っぽい空気だ。
ティナの部屋として鍵を返しはしたが、この状態では今から部屋を移ることはできないだろう。
三階の部屋で休んでいる間に誰かに掃除をさせるか、体調が回復してからティナが自分で掃除をするまでは使えそうになかった。
「……改めて見ると、なにもない殺風景な部屋だな。なにか欲しいものはあるか?」
「いりません」
暖かな色合いの壁紙も、クッションもなにもない部屋だ。
もともとが使用人の部屋であるため、装飾らしい装飾すらない。
女児の部屋としてはあまりにも殺風景で、なにか足した方がいいと思うのだが、ティナに聞けばなにも要らないと言う。
なにもないぞ、と念を押せば、メイユ村にはなにもなかった、と答えられてしまった。
……この一年でティナには結構いろんな物を贈ってきたつもりだが、全部無駄か。
なに一つとしてティナの好みではなかったのだろう。
ぬいぐるみも、髪飾りも、服もすべて。
すべて自分がティナにと思い、勝手に買い与えてきた物だ。
ティナが自分の部屋に移したいと思わなくとも不思議はない。
「ごめんな、ティナ」
次々に思いだされる己の失態に、口から自然に謝罪の言葉が出てきた。
これを聞いたティナは少しだけ考える素振りを見せたあと、なにに対する謝罪か、と言葉を返してきた。
「いろいろ」
「そのいろいろを、思い浮かぶ限りで、全部」
ようやくティナが自分と会話をしてくれる気になってきてくれたのが嬉しくて、要求されるままに答える。
ティナに対する反省など、この三日間で恐ろしい数が浮かんだ。
ティナに俺の生活を押し付けたこと、服装の好み、髪飾りや小物の好み、部屋について、カーヤのこと、黒犬のこと、テオと初めて会った日のこと、テオとメンヒシュミ教会で再会した日のこと、叱る順番を間違えたこと、とにかく思いつく限りを挙げてティナに詫びた。
全部を詫び終えると、ティナの顔にはようやく表情が戻ってきた。
本当にようやく、だ。
ティナは少し拗ねた顔をして横を向くと、「まだ足りないですが、まあいいです」と言って椅子の代わりにベッドへ腰をかけるよう勧めてきた。
「座ってどうぞ。お話ぐらいは聞いてあげます」
ベッドに腰掛けると、ティナが膝の上に座ってくる。
驚いて見下ろすと、顔をあげたティナは少しだけ恥かしそうに顔を逸らして「ほかに座るところがないからだ」と言う。
うちの妹は時々天邪鬼で可愛い。
「ジークヴァルト様とアルフに指摘されて、怒られた」
自分が間に入ったせいで、ティナとテオの仲が拗れてしまった。
叱るにしても、俺が順番を間違えたせいでおかしくなってしまったのだ、と。
思い返してみれば、ティナは叱られて言い訳をしていたわけでも、叱った内容に反論していたわけでもなく、ただ自分の話をよく聞け、と言っていたのだ。
ティナの話を聞かずに、一方的にティナが悪いと責めてしまったのは俺の間違いだった。
「俺も昔、テオと大差ない悪ガキだった、って話はしたよな?」
「好きな子の髪の毛引っ張ったりした、って聞きました」
「初恋の子が可愛くて、可愛くて、構いたくて悪戯ばかりして……ある日とうとうその子を泣かせてしまったんだ」
女の子が泣いて怒り出すまで、自分がしたことが泣かれるほど嫌なことだなんて考えもしなかった。
なんとなく女の子も自分と同じ気持ちである、と思い込んでいた。
悪戯は本当にただの遊びで、女の子も楽しく自分と遊んでいるだけなのだと信じて疑わなかった。
「……いじめっ子はみんなそう言いますよ。苛めてなんていない、遊んでいただけだ、って」
ただし、本当に楽しく遊んでいたのはいじめっ子である当人だけで、友だちではなく玩具にされていた人間からしてみればやはりただの苛めだ、とティナは言う。
これは本当に男の子にはない、悪戯――いじめと言うべきか――の標的にされる女の子の視点から見た真実だ。
「ティナの言うとおりだな。俺は女の子を苛める側で、苛められる女の子の気持ちなんて考えたこともなかった」
結局、初恋の女の子とは泣かせて嫌われたままで終わった。
仲直りすら出来なかったのだ、と話すと、ティナは眉をひそめる。
「謝らなかったんですか?」
「謝る前に、俺は親に売られたからなぁ……」
喧嘩別れをしたすぐあとに、俺は親の呼んだ人買いへと売られた。
そのまま街を離れることになり、女の子には謝ることが出来なかったのだ。
「大人になってから街に戻る機会があって家族やその子を探したけど、結局見つけられなかった」
謝れなくて後悔することがある。
それを知っていたからこそ、ティナにはすぐに謝らせようとした。
「……結局、俺が順番を間違えたせいで、ティナとテオには喧嘩をさせたままになってしまったな」
テオには本当に悪いことをしてしまった。
俺がティナを怒らせてしまったから、結果的にテオがティナに謝るタイミングを奪ってしまっている。
「ティナの熱が下がったら、テオにも謝らないとな」
一緒に来てくれるか、と膝の上のティナを誘う。
あくまで謝るのは自分であり、ティナが謝る必要はない、とも追加した。
「……わたしも少し言い過ぎましたからね」
一緒に行ってあげないこともありません、とまだ少し拗ねた様子が残ってはいたが、ティナはテオに会いに行くことに合意した。
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