閑話:レオナルド視点 俺の妹 10

 禿げろと呪いの言葉を吐きながら暴れていたティナは、館に帰りつく頃にはおとなしくなっていた。

 ぶちぶちと俺の髪を抜くのにも飽きたのか、単純に暴れ疲れたのか、背後からは寝息が聞こえている。

 疲れたのならこのまま寝かせてやりたい気はしたが、川で濡れたままの体で寝るのは不味いと判っていた。

 バルトとタビサに風呂の用意を命じると、ティナを下ろしながら揺り起こす。


「ティナ、いえについたぞ。まずは風呂に入って温まろう」


「んぁ?」


 絨毯の上へと立たせたティナは、薄く目を開く。

 本格的に眠ろうとしているのがよく判る顔だ。

 先ほどまでの怒りの感情はどこにもなく、眠たそうに目を瞬かせている。


「……オスカー、おいで」


 カリーサに手を引かれながら風呂場へと歩き出したティナは、一度止まって背後を振り返る。

 しっかりと後ろについて歩いてきていた黒犬オスカーは、ティナに呼ばれると尻尾を立てて距離を詰めた。

 黒犬が呼ばれるままにティナの横に立つと、ティナはペタペタと黒犬の頭を撫でる。


 ……珍しいな。ティナがオスカーを自分から呼ぶなんて。


 いつもは黒犬を無視するか、いないように振舞うだけのティナが、今日は自分から名を呼んで頭を撫でている。

 溺れそうなところを助けに飛び込んできた黒犬に、さすがに思うところがあったのだろう。


 ……うん?


 チラッとティナが顔を上げ、青い目で俺の顔を見る。

 なにか言いたいことがあるのだろうか、と少し待ったが、ティナはすぐに顔を伏せてオスカーの首を撫でた。


「オスカーはわたしの味方だから、洗ってあげます」


 助けてくれましたからね、と言ってティナは黒犬を風呂場へと連れて行った。

 なんということはない。

 黒犬へのお礼だとか、感謝だとかいう体裁をとって、おれへのあてつけをしただけだ。


 ……おれは犬以下か!?


 半分寝ているような様子ではあったが、ティナはしっかりと思考できていた。

 寝てしまうまでの喧嘩を根に持っているのは確実だ。







 一階の大きな風呂はティナと黒犬に取られたので、今日は自室の狭い風呂を使う。

 狭いと感じるのは自分の体格のせいだが、ティナは普段同じサイズの自室にある風呂を使っているので、一般的には十分な広さがあるはずだ。


 体を温めて風呂から上がると、髪を乾かしつつ書類に目を通す。

 ティナとの話はまだ終わっていないので、話の続きに行きたいのだが、ティナの風呂が終わるまでは近づかない方がいい。

 それぐらいは弁えている。


「レオナルド、入るぞ」


 少しの時間つぶしに、と読み始めた書類にいつの間にか没頭していた。

 どのぐらいの時間が経ったのか、一瞬感覚がわからなくなる。

 ただ窓からの日差しに、少し日が翳り始める時間であることはわかった。


「珍しいですね、貴方が持ち場を離れるなどと」


「今の私の仕事は城主の館の警備だからな。館に異変があれば、館の主に報告にも来るさ」


 窓から視線を戻すと、ジークヴァルトが執務机の前にいる。

 ジークヴァルトは、足は短いがそのぶん歩くのが早い。


「……なにかありましたか?」


 異変があれば報告に持ち場を離れる、ということは、館に異変があったということだ。

 どんな異変があったのかと姿勢を正して報告を待てば、ジークヴァルトの口から出てきた報告は、白銀の騎士が動くほどの内容ではなかった。


「おまえの妹が犬を三階へ連れて行ったぞ」


 普段は一階から上げることを許さない犬を、ティナが三階へと連れて行ったらしい。

 聞いてみれば、なんということもない報告だ。

 ただ、ティナがそんな行動をとった理由は簡単に推察できた。


「……俺への反抗だろう。注意してくる」


 元上官に対してつい言葉を乱しつつ、席を立つ。

 風呂から出たらティナのところへはもう一度行くつもりだったので、丁度いい。

 報告に礼を言って部屋を出ようとすると、ジークヴァルトに少し待て、と呼び止められた。


「あの子に反抗されるような覚えがあるのか?」


 ジークヴァルトの前では、ティナは聞き分けのいい子だ。

 そのティナが反抗をする、ということがいまいちジークヴァルトの中で繋がらないのかもしれない。

 なにがあったのか話してみろ、とジークヴァルトに首根っこを掴まれては、もう逃げようもなかった。

 ジークヴァルトには少年時代から現在までを知られているため、なんとなく保護者のようで頼もしさと後ろめたさがある。

 一度は自分を養子に、という話も出たことがあるので、その延長で自分を息子のように気にかけてくれているのだろう。

 実の親からはジークヴァルトのように気にかけられた覚えがないので、ジークヴァルトの親心のようなものは少しだけむず痒い。

 が、決して不快なものではなかった。


「……レオ坊の話だけでは、公平さにかけるな」


 川遊びからの一連の流れを話すと、話の最後にジークヴァルトの口から出てきた言葉がこれだった。

 太い腕を組んで首を傾げつつ、俺の話だけでは公平さに欠ける、と。


「ただ、お嬢ちゃんを怒らせたのがテオという子どもではなく、レオ坊だってことだけはよく解ったぞ」


 自分が改めてティナから話を聞いてくるので、それが終わるまでは決して部屋に近づかないように、と釘を刺してジークヴァルトは三階へと上がっていく。

 三階は家族の空間だから、といつもなら踏み込まない三階へ、だ。

 自分の家族と俺の家族は別物だから、と普段は一応の一線を引いてくれているのだが、今回は俺の不甲斐なさに黙っていられなくなったのかもしれない。







 ジークヴァルトが戻ってきたのは、少し遅めの夕食時だった。

 ティナの様子を聞いたところ、話している間に眠ってしまったので起こさずに戻ってきたとのことだった。


 ……オスカーも一緒に、か?


 犬を三階へ連れ込んではいけない、と注意したかったのだが、ジークヴァルトはそのことを失念していたらしい。

 ティナが寝てしまったのは仕方がないにしても、黒犬だけは部屋から連れ出してほしかった。


「オスカーはお嬢ちゃんの子守をしている」


 今日も黒犬を引き取りに来たベルトランへの説明として、ジークヴァルトがこう切り出す。

 ティナが黒犬をベッドの中まで引き入れて一緒に寝ているのではなく、黒犬がティナのお守りをしているのだ、と。


「三階に上げたばかりか、ベッドにまで入れるとは……」


 可愛がっていた仔犬ですらベッドには入れなかったのに、随分な変化だ。

 よほど黒犬が気に入ったのか、俺への反抗心が強いのかと考えるのなら、おそらくは後者だと思う。


「……犬で癒されているのならいいだろう。兄は役に立たんらしいからな」


「なにかあったのか?」


「あの幼さで家出を考えるほどに、兄が兄として機能していないらしい」


 犬に心癒されているようなので、とジークヴァルトがベルトランへとオスカーの貸し出し許可を取り始めた。

 本来であればティナの兄である自分が真っ先に願い出ねばならないことだ、とありがたい助言つきだ。


「オスカーをしばらく貸し出すのは構わんが、役に立つのか? あれには探しものを命じてあるのだが……毎日のようにあのお嬢さんのところへ来ていて、まったく仕事をしておらん」


「少なくとも、兄よりは役に立っているだろう」


 少なくともどころか、黒犬はしっかりと命じられた役目をこなしている。

 ベルトランの探しものである指輪の主には辿りついているのだ。

 正確には、その忘れ形見に。


「……で、オスカーに妹を取られて、おまえはのん気に食事か」


 なにがあったのか、とアルフに聞かれ、夕方ジークヴァルトにしたのと同じ説明を繰り返す。

 ティナを叱ったら拗ねて部屋で寝ている、と。


「報告は己の不利も包み隠さず、すべて正確に行うべきだ、レオナルド」


「なにも隠してはおりませんよ、ジークヴァルト殿」


「少なくとも、私がお嬢さんから聞いた話とは、随分印象の変わる話だな」


 そう断ったあと、ジークヴァルトはティナとカリーサに補足されたティナ視点での話を聞かせてくれた。

 大筋は確かに同じなのだが、こちらの話では俺が一方的な悪役にされている。

 二つの話を聞き終えたアルフは一度目を閉じて考える素振りを見せたあと、はっきりと断言した。


「レオナルドが悪い」


「おまえは俺の話を聞いていたのか?」


「聞いていたぞ。聞いたうえでの判断だ」


 自分の理解が間違っていないことを確認するように、アルフは今聞いたばかりの話を整理して話しはじめる。

 子どもたちと川へ涼みにいったこと。

 そろそろ帰るという雰囲気になった頃に、ティナが飛び込み台へ上って下を眺めていたこと。

 そこへテオがやって来て、ティナの腕を引っ張って川へと飛び込んだこと。

 そこまでの話で、俺とティナの話に差異はない。

 テオはすぐに水面へと顔を出したが、ティナはなかなか顔を出さなかった。

 それで慌てて川へと入ったら、俺より先に黒犬がティナを引っ張り始めたのだ。


「川から抱き上げたティナが、テオに『死んじゃえ』と言ったんだ。あれはティナが悪い。言い過ぎだ」


「言い過ぎだとは私も思うが、ティナは頭のいい子だ。言い過ぎと指摘されて認めてもいる。……ティナは順番を無視したおまえに混乱させられたんだろう」


 言い過ぎであろうとなんだろうと、まず叱るべきはテオだった、とアルフは言う。

 ティナが言い過ぎる原因になったのはテオの行いであり、テオの行いは誰が見ても叱られるべき危険な行為だ。

 不意打ちで飛び込み台から他者を飛び込ませるなど、大人から見れば危険な行為以外のなにものでもない。

 ティナが特に怪我もなく無事であったために見過ごされているが、たとえ自分がティナの保護者でなかったとしても、その場を目撃した大人としてまずテオを叱るべきだった、と。


「ティナの言い過ぎを諌めるのは、テオを叱ったあとにするべきだったんだ」


 元凶であるテオは無罪で自分だけ叱られれば、ティナが面白くないのも当然である。

 それも、叱っているのは自分の兄だ。

 本来なら一番にティナを心配して、テオを叱るべき人物だった。


「……テオもおまえの被害者だ、って理解はしているか?」


「テオ?」


 テオには特になにもしていない。

 テオが自分からいったいどんな被害を受けたというのか。

 さっぱりアルフの言いたいことが判らず先を促すと、アルフはテオに対して同情の溜息を吐いた。


「テオは最初の頃はいろいろあったようだが、近頃はティナと仲良くやっていたはずだろう」


 メンヒシュミ教会でも席が近く、お祭り見学等に遊びに行く時も誘ったり、誘われたりとして仲良く出かけている。

 たまに喧嘩をすることもあったようだが、次の授業の日にはまたケロッと一緒に行動をしていたので、すぐに仲直りをしていたのだろう。

 近頃のテオは、ティナに対して謝るという行動ができていたはずなのだ。


「おまえが間に入ってティナを怒らせたせいで、テオはティナに謝る機会を失ったんじゃないのか?」


「……そういう考え方は浮かばなかった」


「良かったじゃないか。今学べただろ」


 一つ利口になったな、というアルフの声は恐ろしく冷たい。

 順序だてて説明されれば、確かに一番の悪者は自分なので、仕方がないことかもしれなかった。


「ティナが起きたら、誠心誠意謝れよ」


「俺が一番に謝るのか」


「おまえが一番悪いうえに、順番を間違えたんだから、おまえからまず謝るのは当然だろう」


「……そうだな」


 不意に「家出します」と言いだした時のティナの顔が思いだされる。

 いつもは表情豊かな顔から、すっと表情が消えた。

 ティナのあの顔は、以前に二度見たことがある。

 サロモンの遺体を埋葬している時と、慰霊祭でティナが泣き出す直前に見せた顔だ。

 ティナが完全に感情を押し殺した時に、あの顔になる。


 ……ティナはあの時、今度は兄を失ったんだな。


 おれ自身はまだ健在で、殺しても死にそうにないほどに元気だが、ティナの心の中では違うのだろう。

 やっと兄と呼び始めてくれたティナを、兄自身が裏切ったのだ。


 ティナの表情の意味に気づくと、目の前が真っ暗になりそうだった。

 すっと血の気が引く。

 一年かけて築いてきたティナからの信頼を、自分の手で粉々に砕いてしまったのが解る。

 ただいつものように意地を張っているわけでも、天邪鬼になっているわけでもない、とティナはちゃんと訴えていた。


「……ティナに『レオナルドさん』と呼ばれたのは久しぶりだ」


「一年かけて慣れたところでおまえ自身がティナを裏切ったのだから、今度は三年かけて信頼を取り戻すぐらいの覚悟でいけ」


 三年は少し長すぎる、と言うと、それまで黙って話を聞いていたジークヴァルトが『女性の怒りを静めるのに三年は短い』と妙に実感のこもった言葉を発する。

 妻帯者であるジークヴァルトの言によると、女性は執念深い生き物であり、幼いからといって軽んじては痛い目をみることになるだろう。時間が経てば経つほどに怒りが蓄積して膨れ上がっていくため、いつか怒りが収まるだろうと放置をするのは絶対に避けた方がいい。

 早いうちに白旗を上げて降参するのが、結果的に被害を最小限に抑える近道である。

 ただし、その場合でも誠心誠意の謝罪と反省を伝えることができなければ、さらなる怒りを呼び起こす危険が残っている、と。


「注意深く観察しろ。一見、もうその話題はいいです、気にしていません、って顔をして流してくれたように見えても、怒りは継続中だ。待っていて勝手にいつかおさまるってことは絶対にない」


「実感こもっていますね」


「うちの女神様おくさんはすぐに妬くからな」


 まあ、それだけ自分のことを愛していてくれているわけだが、とジークヴァルトは最後に惚気のろける。

 話を聞けば怖い奥方なのだが、嫉妬深いところも満更ではないのだろう。

 夫婦仲は良好で、息子も正しく真っ直ぐに育っている。


「……子どもは難しいですね」


 ティナをこれから成人まで育てて行く予定なのだが、自分の下でティナは健やかに成長することができるのだろうか。

 漠然と妹を成人まで育ててみせる、とだけ考えていたが、子どもを預かって育てるということは、そんなに単純なことでも、簡単なことでもない。

 今日のことだけをあげても、たった一つ順番を間違えただけで、テオとティナは仲違なかたがいをしたままだ。

 自分が間に入らなければ、その場で仲直りをして終わっていたかもしれないのに、だ。


「子育てが難しいのはあたり前だ。子育てには完璧なんてものはない」


 子どもによって正解も違う。

 そしてティナは、子どもだということに加えて女の子でもある。

 難しくて当然だ、と慰めにもならない言葉を呟いて、ジークヴァルトは苦笑した。

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