第43話 喧嘩別れ
咄嗟に目をきつく閉じ、鼻と口を手で塞ぐ。
絶対に水を侵入させてなるものか、という思考に占拠され、緊張から力んで体を丸く曲げてしまう。
これでは浮き上がることができないかもしれないと思い、しかし逆に人の体は浮くはずである、という思考も湧き上がってくる。
相反する思考に占拠されて身動きが取れずにいると、犬の鳴き声とすぐ近くへなにかが飛び込んでくる気配を感じた。
水がかき回され、下からの水泡が頬を撫でる。
そのおかげで、上下の感覚が戻ってきた。
……オスカー?
襟首辺りに毛皮の気配がする。
細くて短い何百という毛が首筋をくすぐるが、水の中にいるせいか、笑い出したいほどのむず痒さはない。
ぐいっと服が上へと引っ張られ、真横で激しい水流が生まれる。
目を閉じているのでなにも見えないが、
……これで助かる。
救いの手はもう近くまで来ているのだ。
少しだけ安心したら、体から力が抜けた。
目と鼻と口を塞いだ手は離せないが、縮こまって丸くなっていた体は伸びる。上下がわかるのだから足もつくかもしれない、と水底を探す足に服が絡まった。
……中古服でよかった。いつもの服だったら、溺れてたよ。
今日は動きやすいように、と飾りの少ない中古服を着ていたが、レオナルドの仕立てた布と飾りの多い服を着ていたら、手足に布が絡まって泳ぐことは不可能だ。
下手をしたら、黒犬も布に絡まって溺死する。
……私、グッジョブ。
カリーサの持ってきた服ではなく、動きやすい服をと中古服を選んだ今朝の自分を褒めてやりたい。
おかげで溺れる危険性はグッと低くなった。
……わ、うっ!?
ドプンっとすぐ近くに重いものが沈み込み、体が大きく揺れる。
黒犬の牙が服から離れたことが判ったが、私にはどうしようもない。
おとなしく揺れが収まるのを待とうとしたら、両脇へと腕が差し込まれ、次の瞬間には水上へと抱き上げられていた。
「ぷへっ!」
女児として実に色気のない微妙な声だったが、まず真っ先に口から出たのはそんな音だった。
咳き込みながらも新鮮な空気を取り込み、目は閉じたまま掴まるところを求めて手を伸ばす。
指先に触れた太いものに腕を絡めると、お尻のあたりに腕が差し込まれた。
……あ、レオだ。
腕を絡めた首の太さと、腕に私を座らせる慣れた仕草にそう確信する。
もう溺れる危険は去ったのだ、と。
濡れた前髪が瞼に張り付いて目を開けられずにいると、レオナルドが前髪と顔を伝う水を払ってくれた。
ようやく目が開けられる、と瞼を開くと、予想通りにレオナルドの顔がすごく近くにある。
「大丈夫か、ティナ?」
心配げに覗き込んでくるレオナルドの黒い瞳と目が合い、スコーンと自負が抜けた。
近頃は十歳になったのだから、といろいろ意識して行動を改めていたのだが、それらがすべてどこかへと吹き飛ぶ。
あとには水からすくい上げられたという安堵と、今さらながら意図せず水の中へと引き落とされた恐怖が押し寄せてきた。
「テオのあほぉおおおお! 死んじゃえ、ばかぁあああああぁぁ!」
ぎゃんぎゃんと自分でも信じられないような泣き声をあげて犯人を罵倒する。
手を掴んだ相手を見たわけではないが、水の中にいるのが私とレオナルド、黒犬のほかにテオしかいないのだから、ほかに犯人はいない。
わんわんと泣きながらテオを罵倒し続けていると、レオナルドに鼻を摘まれる。
意表をつかれすぎて、思わず涙も引っ込んだ。
「こら、ティナ。『死んじゃえ』はさすがにダメだ」
ここまでは良い。
確かに冷静になってみれば、少々言いすぎな気もする。
しかし、このあとが悪かった。
「テオに謝るんだ」
まずテオに謝れ、とレオナルドに言われてカチンと来た。
確かに言い過ぎた気はするが、そもそもは私を水の中へと落としたテオが悪いのだ。
私も悪かった気はするが、まず先に謝るべきはテオである。
「レオのアホーっ!」
両手で力いっぱいレオナルドの頬を引っ掻く。
奇襲からの顔面攻撃にも、咄嗟に私を落とさなかったレオナルドは素直にすごいと思う。
だからといって許せる言動ではなかったので、レオナルドの腕の中から足を引き抜いて力いっぱい胸を蹴ってやった。
反動で私も水の中へと落ちたが、気にしない。
腹が立ちすぎて、寄生虫がいる可能性だとか、水辺の事故だとか、そんなことはどうでもよくなった。
すぐに黒犬が泳いできたので、その背に掴まる。
さすがは英雄の飼い犬というのか、オスカーは水難救助の訓練でも受けているのだろうか。
私を一人背中に乗せても難なく川を泳いで川岸へと辿りついた。
「帰る!」
そう私が宣言するのと、カリーサが敷き布などを片付ける手を止めたのは同時だ。
カリーサは弁当などを詰めていた籠をレオナルドに投げると、私について帰路につく。
……うう、濡れた靴が気持ち悪い。
一歩あるくごとに『ぐちゅ』となんとも気持ちの悪い音を立て、靴から少しの水分が押し出されてくる。
濡れた靴と靴下の相性は最悪だ。
水分で柔らかくはあるのだが、地面に足を付けるたびに指の間を水が流れて気持ちが悪い。
「ティナ、待ちなさい!」
足の長さが違うので、レオナルドが私に追いつくのは簡単だった。
視線だけ投げてやると、レオナルドの手にはしっかりとカリーサがぶつけた籠が握られている。
どうやらちゃんと片付けをしたうえで、私を追いかけて来たのだろう。
理性的な行動だとは思うのだが、それがとにかく面白くない。
「……ティナ、頬を膨らませるのは赤ん坊がすることだから、止めるんじゃなかったのか?」
どうやらまた無意識に頬を膨らませていたらしい。
レオナルドに指摘されたのが面白くなくて、つい意地を張ってしまう。
「これはわざとですよ。鈍いレオにも判りやすいように、わざとやってるからいいんです」
感謝してください、と言って今度は故意に頬を膨らませる。
これ以上は膨らまないぞという限界まで頬を膨らませると、レオナルドの指が伸びてきたので噛み付いてやった。
「ティナ、ちゃんとテオと仲直りをしよう」
「レオはいつも私じゃない方の味方ですね」
私の兄だと言うのなら、たとえ私が悪い時でも私の味方をしてほしいものである。
それが現実はどうだろうか。
私は悪くないのに、レオナルドは悪い方の味方をしている。
「今回はさすがにティナが言いすぎだと思う」
「レオが私の味方をしないのは、今回だけじゃないですよ」
前にもこんなことがあった。
私は先に我慢をして、我慢をして、限界がきたから怒っているというのに、私が怒って初めて女の子が怒るような内容だとレオナルドは知るのだ。
そして、それは知るだけであって、本当の意味で理解しているわけではない。
怒り始めた私にまずもう少し我慢をしよう、言いすぎだ、やり過ぎだ、と言い出すのがレオナルドである。
私の我慢が限界に至るまでのテオの行いについてはスルーだ。
そのスルーの理由としては、自分も昔やったのでテオの気持ちが解る、という実に私にはなんの関係もない理由である。
髪を引っ張られたり、水の中に引っ張り込まれたりした私の気持ちは解らないし、考えもしないらしい。
……これがあれですね。熟年離婚を切り出された旦那さんが「妻がいきなり怒りはじめた」って言うやつですね。
実際には妻はいきなり怒りはじめたのではなく、それまでの夫の行いからの積み重ねが我慢の限度に達しただけというやつだ。
なるほど、考えてみれば今の私の状況と実によく似ている。
「とにかく、テオに謝って仲直りしよう」
どうあってもレオナルドはテオと私を仲直りさせたいらしい。
しかも、私の主張には一切耳を傾ける気もないようだ。
ピタリと足を止めて、大きく息をはく。
深呼吸でもしていなければ、怒りでどうなるか判らない。
……レオは全然懲りてない。
今回のことだって、まずテオが悪いのに私に謝らせようとしている。
……っていうか、レオのせいだよね。余計に
私だって、言われれば解る。
言い過ぎたとは思っているし、そこは一応反省もしていた。
だからといって、先に私が謝れ、とレオナルドが言うのはおかしい。
まず先に、私を水へと落としたテオが謝るべきだ。
そこへレオナルドが余計な口を挟んでいるからこそ、順番がおかしなことになって拗れている。
「わかりました。家出します」
「は?」
どうしてそうなった? と驚くレオナルドを無視してクルリと体の向きを変える。
口では家族だ妹だと言いながら、その家族の言葉をまるで聞く気がないのだから、私もこの自称兄に期待するのは止めた。
「だって、レオナルドさんはわたしの話なんて全然聞いていないじゃないですか。テオ、テオ、テオ、テオって、他人の味方ばかりして」
『レオ』と愛称で呼ぶのも馬鹿馬鹿しくて、故意に『レオナルドさん』と一番古い呼び方をする。
おまえなんか兄じゃない、という意思表示なのだが、これだけ鈍い
「あれ、変ですね? 他人の味方なら、わたしの味方でもいいはずなのにね」
どこまで酷く罵ってやれば通じるだろうか。
考えるだけでも気が滅入る。
でも言葉を尽くして伝えても相手が聞いてくれないのだから、聞かざるを得ないような酷い言葉を選ぶしかない。
ちゃんと耳に残ってくれるように、だ。
「ティナ、いい加減にしないと怒るぞ!」
「キレたいのはこっちですっ!」
やっと気分を害することが出来たらしい。
もともと凶悪なレオナルドの顔に凄まれて、少しどころではなく恐ろしかったが一歩も引かずに睨み返してやる。
私にだって意地はあるのだ。
レオナルドが間違っているのだから、今回ばかりは私から折れてやる気はない。
「……一度家に帰って落ち着こう」
ようやく私がこれまでにない程に怒っているのだと理解したらしい。
理解するのが遅すぎる。
私の方はといえば、怒りすぎてエネルギー切れが近い。
いつも以上に言葉遣い等に気を回す余裕がなくなっていた。
「一人で帰れば?」
吐き捨てるように言うと、無言でレオナルドの手が伸びてくる。
さすがに引っ叩かれるかと思ったのだが、脇へと手が差し込まれただけだ。
そのままひょいっと持ち上げられて、いつもは抱き上げられるところを肩へと荷物のように担がれた。
「人攫いーっ! 助けてーっ! 攫われるーっ!!」
「人聞きの悪いことを言うんじゃないっ!」
強硬手段に出たレオナルドに、こちらも力いっぱい抵抗をする。
大声を出して周囲の人間に助けを求め、髪を引っ張ったり、後頭部を叩いたりとしてレオナルドへの攻撃を続けた。
以前この方法で不審者を退けたことがあるが、さすがにレオナルドの顔を知らない街の住民はいない。
攫われる、助けてくれ、と
「カリーサ、この誘拐犯を倒してください!」
館への帰路につくレオナルドが方向を変え、背後に立っていたカリーサとバッチリ目が合う。
丁度良いことに、肩へ荷物担ぎされているせいで目線もあった。
「……お嬢様は、先にお風呂に入って、着替えましょう。風邪、引いちゃいます」
「正論だ! 悔しいけど一番冷静な正論だっ!!」
私の味方は誰もいないのか、と叫びながら運ばれる。
悔しいのでレオナルドの髪を何度も抜いてやった。
泣き疲れ、暴れ疲れ、怒り疲れた。
館につく頃には寝てしまっていて、風呂も知らないうちにカリーサが世話してくれたらしい。
乾いたベッドで目が覚めた頃には日はとっくに沈んで部屋は真っ暗だったし、暴れ疲れた私は体力も気力も底をついていた。
そのせいか、久しぶりに高熱を出して三日ほど寝込む。
外出が許されたのは、熱が下がってから一週間もあとだった。
レオナルドと大喧嘩をした十日後、私は特大の後悔を背負うことになる。
こんな思いをするぐらいなら、順番がおかしくともテオとちゃんと仲直りをしておくべきだった、と。
一生ものの後悔をテオに背負わされた。
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