閑話:レオナルド視点 俺の妹 3
夏からなんとなく考えていたことがある。
ティナの周囲には大人しかおらず、基本的にティナは一人で過ごしていた。
周囲の大人が気にかけて話しかけたりはするが、やはり同年代の友人もほしいだろう。
ティナは『寂しい』と判りやすい主張はしてくれない子なので、こちらが良く観察をする必要があった。
……まあ、焦ってつけた家庭教師が大失敗だったわけだが。
暴れ疲れたティナが眠ってしまったので部屋へ運んだのだが、目を覚ましたあとのティナはこれまでにないほど怒っていた。
起きた気配があったので部屋へ入ろうとしたところ、「寝てましゅっ!」と拒絶された元気な怒鳴り声を今でも思いだせる。
ただ、ティナの怒りはあまり長く持続しないようだ。
夕食時にはもう自分がつけた俺の引っ掻き傷を気にし、心配してくれた。
……ティナは優しい子だな。
すぐに
本当に辛子を塗ろうとしたことはないので、あれはティナなりの冗談なのだろう。
秋になって、ティナはようやくメンヒシュミ教会へ通いはじめた。
メンヒシュミ教会でなら、ティナも年齢のつり合う友だちができるだろう。
そう思っていたら、ティナは初日から早速揉めごとを起こした。
夏に見学にいったメンヒシュミ教会でティナの髪を引っ張り、闘技大会でもティナに悪戯をしてきた男児がいたらしい。
男児と喧嘩になり、ティナがその男児を泣かせた、という報告がメンヒシュミ教会から届けられた。
その罰として初日の授業は半分しか受けられなかったそうなのだが、ティナは少しだけ基本文字を覚えて帰ってきた。
自分の名前を書けるようになったのだ、と
ほほえましい報告を聞いて俺が帰宅すると、ティナはすでに寝ている時間だった。
ティナは俺にも褒めてほしかったらしく、就寝時間のギリギリまで塗板を持って玄関ホールで待っていた、とバルトから報告を受ける。
……綺麗な字だ。ちゃんと書けている。
相変わらず屋根裏部屋を使っているティナは、古ぼけたベッドの上で毛布に
ベッド同様、部屋にもとからあった机の上に、ティナの名前の書かれた塗板が置かれている。
何度も練習した形跡のある塗板の文字を見下ろし、少し考えてからティナの本当の名前を
ティナが『ティナ』と名乗るので俺も『ティナ』と呼んでいるが、サロモンが刻んだと思われる指輪の名前はもう少し長かった。
貴族によくある長い名前の一部をとって、愛称が『ティナ』なのだ。
ティナという名前は、正式なものではない。
……そろそろちゃんと話さないとな。
ティナは貴族の娘である、と。
本人はまさか自分が貴族の娘だなどとは考えもしないようで、読み書きは積極的に学びたがったが、英語には拒否反応を見せる。
実用レベルに達する・達しないはともかくとして、英語は貴族の教養の一つだというのに、だ。
一度オレリアをダシに勧めてみたが、やはり気乗りしないようだった。
まずはこの国の文字を覚えたい、というのがティナなりの理由だったので、あまり無理強いもできない。
翌朝目覚めたティナは、塗板を持って居間へと姿を見せた。
長椅子に座っている俺の横へ腰を下ろすと、塗板に書いた自分の名前を自慢してくれる。
「見てくらさい。わたし、自分の名前が書けるようになったんれすよ」
「昨日のうちに見せてもらったよ。綺麗に書けている」
褒めて褒めてと言わんばかりに満面の笑みを浮かべたティナが可愛くて、つい頭を撫でる。
ひとしきり褒められて満足したのか、ティナは書かれた文字が自分にも見えるよう塗板を持ちかえた。
「こっちの字はなんれすか?」
いつかは話さなければならないことを聞かれ、一瞬だけ言いよどむ。
ティナが気づくよう塗板へ名前を書いたのは俺だが、いざ話すとなると少しばかり勇気が必要だった。
「……下に書いたのはティナの名前だよ」
普段使っている『ティナ』は愛称で、書類などは全部正式な名前で書いてあると説明すると、ティナは「長いれすね」とつぶやいた。
長い名前が主に貴族を示すものだ、という知識がティナにはない。
ただ単純に長い名前だ、と感想をもらすだけで、不思議となんと読むのかまでは聞いてこなかった。
会話の流れを利用して、これまで話せなかったことを告げてみる。
俺と出会った頃のサロモンは貴族であり、サロモンの娘であるティナも本当は貴族である、と。
自分が貴族であると知れば、ティナは貴族になりたい、親戚の元に届けてくれ、と言い出すかと思っていたのだが、ティナは想像とは真逆の反応をした。
まずクッションを俺の顔面に押し付けて口を塞ぎ、最後まで言葉を紡がせないよう行動した。
そんなことをしても何にもならないというのは、すぐに本人も気づいたのだろう。
クッションを俺の顔から退けると、以前親戚が自分を要らないと言った場合も成人まで面倒を見ると言ったのは今も変わらないか、とティナは聞いてきた。
親戚がなんと言おうがすでにティナを手放したくはなかったので、もちろん変わらないと俺は答える。
そうしたらティナは、「貴族になどなりたくない」「俺の妹でいたい」と言ってくれたのだ。
嬉しすぎて、ティナが嫌がるまで抱きしめた。
ティナに親戚の元へ行く意思がないのなら、以前から考えていたプレゼントをしてもいいかもしれない。
メンヒシュミ教会へと通うようになったティナには、ミルシェという可愛い友だちができたらしい。
ティナより二つ年下のミルシェは、ティナを『ティナおねえちゃん』と呼んで慕ってくれるのだとか。
ティナの口から出てくる名前も、タビサやバルトではなくミルシェをはじめとした教室で出会った子どもの名前に変わってくる。
少し寂しい気はするのだが、ティナにとっては良い変化のはずだ。
多少の寂寥感を噛み締めながら、教室での出来事を話して聞かせてくれるティナに相槌を打っていると、おもむろにティナがもじもじと恥ずかしそうにしはじめた。
……ここでトイレか? と言ったら叩かれる。さすがに覚えた。
そろそろティナの行動は理解できるようになってきた、と自負している。
今さらそんな初歩的な失敗はしない。
ティナからの何らかの働きかけがあるまで辛抱強く見守っていると、一度強く拳を握ったあと、ティナが意を決したような顔をして俺を見上げてきた。
「……レ、レオにゃルドお兄ちゃん」
ティナの可愛い声で『兄』と呼ばれ、一瞬思考が停止する。
出会った頃に一度だけ試しに呼ばれて以来、一度も呼ばれたことのない呼び方だった。
真剣な顔をして、でも恥かしそうに頬を染めて俺をじっと見ているティナが可愛い。
「レオ兄ちゃん? レオお兄ちゃん……?」
何度か呼び方を変えて試しているようなのだが、しっくりこないのかティナは小首を傾げている。
恥かしそうに照れつつも『兄』と呼んでくれるティナが、叫びだしたい程に愛らしいし、嬉しい。
俺の妹はとにかく可愛い。
……堪えろ……っ! 堪えるんだ、俺の表情筋っ!!
今すぐ抱き上げて頬にキスをしたいほどティナが愛らしいのだが、ここで喜びすぎてはいけない。
喜びのあまりキスの雨を降らせると、ティナは照れて攻撃をしてくるのだ。
小さな手でぺちんっと鼻の頭を叩かれるのは、地味だが結構痛い。
そして、またしばらく機嫌が直るまでは『兄』と呼んでくれなくなるのだろう。
……大人の余裕だ。大人の余裕をもって、ティナからの歩みよりに冷静な対処を……っ!!
内心に吹き荒れる花吹雪を表情筋の力だけで制し、不自然でない程度に笑みを作る。
照れたティナが拗ねるのは、それこそ何度も学習しているのだ。
「……どうした、ティナ? 『お兄ちゃん』だなんて、今まで呼んでくれなかっただろう?」
「ミルシェちゃんに『ティナおねえちゃん』って呼ばれて嬉しかったから、呼んでみました」
己の気を逸らそうと話を振ったら、突然ティナが『兄』と呼んでくれた理由があっさりと解明された。
ミルシェに触発されての行動だったらしい。
……ティナに良い影響をありがとうっ!
早速メンヒシュミ教会へと通わせた効果が、とにやけそうになる口の端に力を込める。
いや、笑うぐらいは良いのだろうか。
嬉しいことを素直に喜べないのは存外苦痛だ。
そろそろ我慢のしすぎで腕がプルプルと震えている。
「……でも、レオにゃルドさんはあんまり嬉しくないみたいなのれ、もう『お兄ちゃん』って呼びましぇん」
可愛くはにかんだ笑顔を浮かべ、ティナがさっくりと俺の胸を抉った。
喜びすぎは不味いと学習したのだが、今回は喜んでも良かったらしい。
表情筋に全力を込めてにやける顔を抑えていたが、結果は完全に逆にでた。
「う、嬉しいぞ!? すごく嬉しいぞ、ティナ」
「え? 無理に喜ばなくていいれすよ」
気を使わないでください、と言ってティナは会話を終了させる。
あとはもう取り付く島もなかった。
何を言っても『気を使っている』と取られて、本当に二度と『兄』と呼んでくれそうにない。
……今日は喜ばないとダメだったのかっ!?
事前の学習がなんの役にも立たない。
すべてはティナの気分しだいだ。
……俺の妹、扱い難しすぎだろっ!!
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