第24話 黒い犬
……あ、あの犬だ。
路地裏で追いかけられて以来、あの黒い犬が私に近づいて来ることはないのだが。
メンヒシュミ教会の行き帰りや、タビサにくっついて出かける市場の片隅などで姿を見かけるようになった。
気のせいならば良いのだが、じっとこちらを見つめている気がして気味が悪い。
……でも、なんとなく行動パターンがあるよね、あの犬。
レオナルドやバルトといった大人と行動している時は近づいてこない。
子どもだけで行動している時も、人通りの多い大通りや中央通では近づいてこない。
近づいてこないな、あの日はたまたまだったのかな、と油断して路地に入ろうとすると、いつの間にかぴったりと後ろに来ていることがある。
それをそのまま無視して路地へ入ろうとすると、黒い犬はスカートを噛んだり、私の前に回りこんだりして吠え立ててくるのだ。
……あの犬、もしかしてレオナルドさんの手下なんじゃあ?
どうも私が路地などレオナルドに禁止された場所に近づくと、あの犬も近づいてきている気がした。
路地に入るまでは遠くにいるが、路地に入ると追いかけてきて、路地から大通りに戻るとまた離れていく。
訓練された番犬のように思えた。
行く先々で姿を見せる黒犬が気味悪く、メンヒシュミ教会へ行く以外には外へ出ることを避けるようになった。
相変わらずエルケたちが寄り道に誘ってくれるのだが、黒い犬が怖いと答えるとそれほどしつこくは誘われない。
彼女たちも私が犬に吼えられた現場にいたので、黒犬が怖いという気持ちが解るのだろう。
……今日は教会の日じゃないから、あの犬も見かけないはず……。
半分眠いながらも朝の空気を入れようと窓を開けたら、道の向こうに黒い点が見えた。
……え? まさか?
冷水を浴びせられたかのように、一気に目が覚める。
覚醒した頭でじっと黒い点を観察してみると、黒い点は少しずつではあるが動いているのが判った。
……あの犬、ついに館まで来たっ!?
気のせいであってほしいのだが、訓練された犬としか思えない利口なあの犬ならばありえない話ではない気がする。
ぎゅっと胃を掴まれたような気分になって、すぐに窓から離れた。
距離がありすぎて黒い犬から私が見えるとは思えないのだが、今もあの犬に探されていると思えば恐ろしい。
あの犬は、ついに私の住む館まで突き止めようとしているのだ。
「レ、レオにゃルドさーん……っ!」
昨夜は館に帰ってきていたので、自室で寝ているか、すでに目覚めて居間で寛いでいるはずだ。
足音を立てて階段を駆け下り、ノックはするが
ベッドの上には、丸い人型の山があった。
「レオさん、レオさんっ!」
「のわっ!?」
ガバッと毛布を捲って中へと飛び込む。
まだベッドから出たばかりではあったが、少し冷たくなった体でレオナルドにしがみつくと、レオナルドは奇妙な悲鳴をあげた。
ぬくぬくと暖かい寝床に、突然冷たい小さな生き物が飛び込んできたら、それはたしかに悲鳴の一つもあげたくなるかもしれない。
むぎゅーとレオナルドの体に引っ付くと、毛布で薄暗くて暖かい空間に心が安らぐ。
近頃やたらと見かける黒犬に怯えた心が、少しだけ慰められる気がした。
「……どうした、ティナ? 今日は追想祭じゃないぞ?」
まだ眠たそうにゆっくりとレオナルドの腕が持ち上がり、私の頭へと下される。
とりあえずの安堵は得たが、のんびりとぬくぬくしている場合ではなかった。
「そうれした。起きてくらさい、外を見てくらさい」
がばりと体を起こして毛布を捲る。
眠っているところを私に叩き起こされたレオナルドは、特に怒り出す様子もなくされるがままになっていた。
「こっちれす、こっち。窓ぎわに来てくらさい!」
主寝室の大きな窓に引かれたカーテンを開き、朝の光を室内へと取り込む。
さっと明るくなった室内に、レオナルドが眩しそうに目を細めた。
「外にあの黒い犬がいるんれす!」
「どこだ……?」
「あれ?」
カーテンを開いて外を見ているのだが、あの黒い犬は見えない。
というよりも、四階の屋根裏部屋から見える範囲と、二階にあるレオナルドの寝室から見える距離が同じなはずがなかった。
……二階だと低くて、あんまり遠くは見えなかった……よっ!
失敗の原因が解ったのなら、それを改善すればいい。
レオナルドの手を引っ張って屋根裏部屋の窓辺へと連れて行くと、もう一度外を見てもらった。
「あれれす! あの黒いの!」
「どれどれ?」
敷地内へは入ってきていないが、騎士の住宅区であるはずの通りに先ほどとは少し離れて黒い点が見える。
私の目にははっきりとした犬の形に見えず、あれがあの黒い犬だというのはただの勘でしかなかったのだが、レオナルドにははっきりと形が判ったらしい。
確かに黒い犬だな、と目の覚めた顔で言った。
「あの犬、ついに家までつきとめて来ましらよ」
どうしたらあの犬から逃れられるだろうか、とレオナルドを見上げると、いつものように大きな手で頭を撫でられる。
私を安心させようとしてくれているのは判るのだが、黒い犬の執念が恐ろしくて、少しも安心できなかった。
「犬とはいえ、騎士の住宅区への侵入を許すとは……見張りの騎士には注意が必要だな」
「……今日はもう家から出たくないれす」
そう言いながらレオナルドの太い脚に抱きつくと、レオナルドのどこかばつの悪そうな声が聞こえた。
「ティナは……犬が嫌いか?」
「嫌いではないれすよ。れも、あの黒いのはなんか怖いれす」
猫も好きだが、犬も嫌いではない。
でも、あの黒い犬はダメだ。
なんとなくでしかないのだが、明らかな意思をもって私を追いかけてくる気がしてならない。
「意思を持って、は考えすぎだと思うが……そんなに不安なら、しばらくは馬車で教会へ通うか?」
「そこまではしなくていいれす」
貧しい家の子も通うメンヒシュミ教会に、馬車で通うような真似をして目立ちたくはない。
それに、あの黒い犬は大人と一緒にいる時は近づいて来ないのだ。
気味は悪いが、子どもだけで寄り道でもしない限りは、今のところ安全だと思う。
「……今日は教会に行く日じゃないだろ? 不安なら館から出ないで過ごしたらどうだ?」
「そうしましゅ」
レオナルドの脚に抱きついたまま窓の外を睨んでいると、微妙に引っ掛かりを覚える声音で名を呼ばれた。
「……ティナ」
「なんれすか?」
「本当は犬が嫌いだ、なんてことは……?」
「ないれすよ。あの黒いのが怖いらけれす」
なんか変だぞ、なにかあるのか? とレオナルドの顔を注意深く観察する。
まさかとは思うが、レオナルドがとぼけているだけで、あの犬はレオナルドが私につけた護衛だとでも言うのだろうか。
なにか隠していますね? とじっとレオナルドの目を見つめていたら、不意にくしゃみが出た。
そういえば、寝起きにあの犬を見つけて部屋を飛び出したため、お互いにまだ寝間着姿のままだ。
早く着替えた方が良い。
一日を館の中で過ごすのは、それほど苦痛なことではない。
メンヒシュミ教会に通い始めるまでは、ほとんど毎日のことだったのだ。
夕方になって、今夜は帰れないらしいレオナルドの代わりにアルフが館へやって来た。
夕食を一緒に食べながら、黒い犬についての報告を聞かせてくれる。
「騎士の住宅区に犬とはいえ侵入者があった、と言うことで、今日一日レオナルドが例の犬を探させていたが、捕まえることはできなかったよ」
騎士の住宅区と街とを繋ぐ通り全てに見張りの騎士が立っており、二十四時間体勢で見張っているのだが、あの黒い犬はいったいどこから侵入したのだろうか、と砦でも話題になったらしい。
まだ犬だったから良かったものの、これが不審人物だった場合にはことが大きくなる。
騎士が見張っている区画に、誰にも知られることなく侵入を許していることになるのだ。
「住宅区のどこかの家で飼われている犬かとも確認したが、目撃情報と一致する犬はいなかった」
どこから侵入したんだろうな? と腑に落ちない顔をしながらアルフは帰っていった。
翌日は朝方に帰ってきたレオナルドに送られて、メンヒシュミ教会へと行くことになった。
周囲を見ながら歩いたが、あの黒い犬の姿はない。
考えすぎだったか、と安心して騎士の住宅区を出たところで、あの黒い犬を見つけた。
黒い犬は、住宅区を出たすぐの場所で行儀良く座っている。
「レオにゃルドさん……」
あの犬がいる、と指差すと、レオナルドも犬の姿を確認した。
これまでは報告書と屋根裏部屋からみた点のような姿しか見ておらず、実物を間近く見るのは初めてだったそうだ。
レオナルドが犬に近づくので背中へ隠れて引っ付いて歩くと、犬はレオナルドが近づいた距離だけきっちりと距離をとって離れた。
「……確かに利口な犬だな」
まるで間合いを計っているかのように、レオナルドの手が届かないギリギリの距離へと下がる。
「この犬はいつからここにいた?」
「早朝に東から来ました。ずっとそこに座っていましたが……」
「……警備の交代時間が来たら捕まえろ」
「はっ!」
レオナルドと黒騎士の会話から、どうやら帰りには黒犬の姿を見ずに済みそうである。
今の私にとって、なによりの嬉しい情報だった。
授業が終わってバルトの迎えで家路につくと、近頃はずっとチラチラと視界に入った黒い塊の姿がない。
ホッと胸を撫で下ろしながら、騎士の住宅区入り口の見張りに話しかける。
朝とは顔ぶれが違うので、あの黒犬を捕まえろ、と言ったレオナルドの命令は実行されたあとのはずだ。
「黒い犬は捕まりましらか?」
「ああ、団長からそういう命令は出ていたけど……俺たちが見張りの交代に来た時にはもう犬はいなかったよ」
見張りの騎士は、肩を竦めてそう申し訳なさそうに言った。
てっきりもうあの犬は捕まえられたものと思って安心していたのだが、まだ安心はできないらしい。
不安を感じながらも館の正門まで歩くと、ふと視線を感じた。
なんだろう、と振り返り、大体この辺りかと視線を上げる。
街路樹の枝の上に、あの黒い犬の姿があった。
「犬としておかしいれしょっ!?」
黒い犬の姿を見つけたからには、ジッとしてはいられない。
正門はすぐそこにあったので館の敷地内へと飛び込み、門番二人に黒い犬がいたことを伝えた。
「あの犬、絶対に変れすっ!」
夕食前に帰宅したレオナルドを玄関で待ち伏せし、帰りに見たものを見たままに報告する。
猫が木に登るのなら解るが、犬が木に登るのは少々無理があった。
世界は広いのでそういう犬もいるかもしれないが、あの街路樹は犬の骨格で登れるような枝ぶりではない。
それなのに、あの黒犬は枝の上から私の方を見ていた。
「もう、怖くて家から出たくないれす……」
翌日からはレオナルドの見送りを玄関で済ませる。
これまでは正門まで見送っていたので、レオナルドも黒犬については早くなんとかした方が良い、と本気になった。
館の外に出るのが怖くて引き籠っていると、四日目に何故かテオがやって来た。
「え? なんでテオ? よく騎士が通してくれらね」
ニルスなら私の教師として何度も館へ通っていたので見張りや門番の騎士が通すのも解るが、テオの顔を知っていて、館へ通してよい人間だと判断できる騎士などいないはずだ。
「ミルシェの兄ちゃんだ、って言ったら、あっさり通してくれたぞ」
「それはちょっと警備に問題ありれすね」
レオナルドに報告しておこう、と心に決めていると、テオにぐいっと手を引っ張られた。
「……なんれすか?」
「教会に行くぞ!」
「わたしはしばらくお休みしましゅ」
気味の悪い犬がうろついているので休むということは、メンヒシュミ教会には伝えてある。
もとからニルスの授業が少し進んでいたため、数回休んだ程度では授業に遅れる心配がないのだ。
そう説明をするのだが、テオは諦めなかった。
強引に私の手を引っ張って門へと歩こうとする。
「テオ、放してくらしゃい」
「おまえがいないと、おれが授業を受けらんないんだよ」
「そんな理由れすか!?」
テオのメンヒシュミ教会への復帰は、レオナルドが話を通してあるはずだ。
なにも私が同行する必要はない。
そのはずだ。
「……わたしが行かないろ、テオは授業受けられないんれすか?」
「おまえと一緒に来い、って言われたぞ」
変だ、とは思うのだが、テオには先日犬から助けられたという一応の恩がある。
しぶしぶながらバルトに声をかけてメンヒシュミ教会へと向かうことにすると、教会の門の前にはやはりあの黒い犬がいた。
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