閑話:ミルシェ視点 お金持ちのお嬢様 1
夏の終わりで七歳になり、わたしも秋からメンヒシュミ教会へと通える年齢になった。
メンヒシュミ教会に通えるとなると、近所の子たちよりも少しだけお姉さんになったようで嬉しい。
メンヒシュミ教会に通えれば、わたしだって文字を読み書きできるようになるのだ。
普通は七歳になったからといって、すぐにメンヒシュミ教会へと通う子は少ない。
そんな子は、お金持ちの子どもぐらいだ。
お金持ちの子どもは小さなうちから働かなくても食べていけるし、普通の家の子は少し大きくなって稼げるようになってからメンヒシュミ教会へと通う。
うちのように貧乏な家は、大人になるまでメンヒシュミ教会に通う余裕なんて持てないのが普通だ。
だけど、わたしは秋からメンヒシュミ教会へと通えることになった。
早いうちから読み書きができるようになれるのは嬉しい。
文字の読み書きができれば、それだけで稼ぎが違ってくるからだ。
わたしがメンヒシュミ教会に通うことになるのは、
単純に、兄のお
同じ歳の子どもよりも体が大きく、暴れん坊の兄は、落ち着きというものがまるでない。
働ければ子どもであっても雇ってくれる場所はいくらでもあるが、落ち着きも自制心もない暴れん坊の子どもを雇ってくれる場所などない。
せめて読み書きでもできれば仕事が探せるかと、兄が七歳になると同時にメンヒシュミ教会へと通わせていたが、教会でも暴れているらしい兄が読み書きを身に付ける様子はなかった。
それどころか、メンヒシュミ教会へと通う他の子どもの邪魔にしかなっていないようだ。
同じくメンヒシュミ教会に通っているらしい近所のお姉さんから、いつもわたしが兄に対する苦情を聞かされていた。
……テオなんか、いなければいいのに。
『先に生まれたから兄だ』というだけの赤ん坊のようなテオに、物心ついた時から迷惑ばかりをかけられている。
兄らしいことなど、一度もされたことがなかった。
メンヒシュミ教会で他の子よりも早く読み書きを学べるのは嬉しいが、テオのお守りをさせられるかと思うと気が進まない。
実際にメンヒシュミ教会へと通うようになると、周囲の大人の目は冷たかった。
あの
……わたしはテオと違うのに。
教師の目が『悪童の妹』と内心を雄弁に語っていた。
わたしが教室に入ることすら迷惑に思っているのだろう。
居心地が悪くて、すぐにでも逃げ出してしまいたい気分だった。
……うわっ。すごく可愛い子がいる……っ!
気が重いながらも教室の扉を開くと、最前列の席に黒髪の女の子が座っていた。
お行儀良く両手を膝の上にのせて、背筋がすっと伸びている。
着ている服には
成長を見越して少し大きな服を着せられて袖や裾を折った子や、逆に袖や裾が足りていない子ばかりを見てきたので、自分のために作られた服を着ている子どもがお金持ちの子であることはすぐに判る。
……少しだけわたしより大きいから、おねえさんかな?
もしくは、体の大きな同じ歳の子どもだ。
ひと目で気に入ってお友だちになりたいと思ったのだが、女の子の隣には少し歳の大きな少年が座っていた。
こちらもある程度の躾をされた少年だと判る。
少なくとも、少し稼げるようになってきたので暮らしが楽になり、メンヒシュミ教会に通えるようになった、という雰囲気ではない。
……あ、かばんから出した
女の子と少年は二、三度言葉を交わし、また前を向く。
鐘がなるまで授業は始まらないが、他の子どもと雑談をする様子もない。
……あの一角だけ、雰囲気違うしね。
お行儀の良いお嬢様と、躾けの行き届いたお付の少年は、教室内で浮いている。
お嬢様は可愛いし服が綺麗だ、と年長の女の子たちは話しかけたそうにしているのだが、住む世界が違いすぎると自覚していた。
結果としてお嬢様の近くに行くことは
……と、となりに座るぐらいなら……っ!
メンヒシュミ教会は、知を求める者には平等に学ぶ機会が与えられる。
住む世界の違うお嬢様といえど、同じ教室にいる限りは平等な存在だ。
隣へ座っても、あまり大っぴらに「あっちへ行け」などとは言われないはずである。
……でも、テオの妹って知られたら、嫌な顔されるかな?
勇気を出してお嬢様の隣に座ってみたのだが、怖くて話しかけることができなかった。
テオの妹だと、知られたくない。
口にしないだけで、貧乏人が近づくな、と思われていないだろうか。
服は汚れてないかな、変な臭いとかしてないかな、と気になることが多すぎた。
緊張のしすぎで、初めての授業だという浮かれた気分はどこかへ消えている。
読み書きの授業の間、お嬢様の口から「汚い、どこかへ行って」という言葉が出てくることはなかった。
何も言われないことに安心し、でも少しだけ残念な気もする。
どんな言葉であれ、この可愛らしい女の子から自分に対して発せられる言葉を聞いてみたかった。
……近くで見てもかわいい。
壁に設置された塗板と自分の塗板とを見比べる真剣な横顔を盗み見る。
真面目に書き取りの練習をする姿は、本心から読み書きを学びに来ているのだとわかった。
計算の授業が終わると、少しだけ長い休憩時間になる。
お嬢様も息抜きをしたいのか、お付の少年を連れて教室から出て行った。
その行動に追従するように、年長の女の子たちが動く。
なんとかお嬢様に話しかけられないかと狙っているのは、彼女たちも同じだ。
彼女たちに先を越されてしまったら、きっと近づくこともできなくなる、とわたしも慌ててあとを追う。
教室の外に出ると、年長の女の子たちはやはり遠巻きにお嬢様を見つめていた。
話しかけたいが、話しかけられない。
その気持ちはよく解る。
よく解るが、ここで引いていては一生話しかけることはできない。
こんな機会、平等に扱われるメンヒシュミ教会に通っている間だけだ、と勇気を出してお嬢様に声をかけてみた。
「あの、わたし、ミルシェ! おねえちゃんのお名前おしえてください!」
勢いに任せて言ってしまってから、気が付く。
見るからにお嬢様とわかる相手に、少し図々しすぎた気がする。
周囲の女の子たちの視線も痛い。
……おねえちゃんとか言っちゃったっ!? おじょうさまって呼ぶべきだった? そうだよね? まちがっちゃったよね!?
お嬢様は青い目を丸くして驚いたあと、自分に話しかけているのかと確認してきた。
やはり、お嬢様相手には考えられないほど無作法な方法で話しかけてしまったのだろうか。
内心でダラダラと冷や汗を流していると、しばし瞬いていたお嬢様は別段気分を害した様子もなく、ほんのりと頬を赤くして笑みを浮かべた。
……あ、やっぱり可愛い。
一瞬だけお嬢様の笑みに見とれると、お嬢様は小さな口を開く。
「わたしはティ――」
……声まで可愛い。
小さな口が開かれて、可愛らしい声でお嬢様が名前を教えてくれようとしたのだが、そこにいつものお
テオは止める間もなくお嬢様の背後へと回り込むと、綺麗に結われた黒髪を無造作に引っ張る。
俺の妹を虐めるな、と意味の解らない言葉を吐く
いつもどおりだ。
わたしが誰かと友だちになれそうな雰囲気になると、いつもテオがどこかから出てきて邪魔をする。
意地悪や暴力はしょっちゅうだ。
これのせいでわたしには友だちらしい友だちが出来たことはない。
……可愛いおねえちゃんとお友だちになれるかもって、思ったのにっ! テオのばかっ!!
これで終わりだ。
出会ったばかりのこの可愛いお嬢様にも、
そう思ったのだが、少し結果は違った。
乱暴者のテオにお嬢様が泣かされるかと思ったのだが、なんとお嬢様はやり返し、見事テオを泣かせてみせたのだ。
……すごい! 年長の男の子以外で、テオを泣かせる子なんて初めて見た!
テオを泣かせたお嬢様は、導師アンナによって喧嘩両成敗で罰を受ける。
お嬢様は少しも悪くないと思うのだが、お嬢様は導師の指示に静かに従った。
文句を言いながら暴れだしたテオとは大違いだ。
暴れるテオは、最終的にはメンヒシュミ教会の門に立つ門番が引きずっていった。
授業再開の鐘が鳴ったため、それ以上お嬢様とお話しすることは出来なかったが、お付の少年ニルスとの会話でお家の人が迎えに来るまでは教会内にいることになると知る。
授業が終わってすぐに探せば、テオの所業を謝るぐらいはできるかもしれない。
授業が終わると、すぐに教室を飛び出してお嬢様の姿を探した。
お嬢様なのだから、特別扱いで教師たちの部屋で休憩でもしているのだろう、と覗いてみるのだが、姿は見えない。
ぐるぐると敷地内を歩き回ってお嬢様の姿を探すと、これもお付の人と判る大人と一緒に正門から出て行く後姿をようやく見つけた。
「あの、ティナおねえちゃん、今日はテオがごめんなさい」
まずはテオの非礼を謝ろう。
そう思って頭を下げたあと、またも自分の失敗に気が付く。
……おねえちゃんじゃないよ! おじょう様って呼ばなきゃっ!?
どうしよう、怒っているだろうか。少しどころじゃなく図々しすぎた。
早く言い直して謝らなきゃ、と内心で焦っていると、『ティナおねえちゃん』と呼ばれたお嬢様は特に怒り出す素振りもみせず、可愛らしく笑う。
「えっと……ミルシェ、ちゃんだっけ? ミルシェちゃんが謝ることないよ。テオにはちゃんとやり返しておいたし」
わたしの方こそお兄さんを泣かせてごめんね? と少し申し訳なさそうに謝られてしまった。
テオについて他人から文句を言われることは沢山あったが、謝られたのは初めてだった。
それから、わたしが謝る必要はないよ、と言ってくれた人も初めてだ。
母は兄のしでかした騒動であってもテオを叱らず、わたしを謝らせに行かせる。
兄に殴られた子たちは直接テオや母には何も言わず、わたしにばかり文句を言う。
時にはわたしが叩かれることだってある。
何故なにも悪くないわたしが謝らなければならないのか。
そんな数々のやるせない思いが、目の前のお嬢様のおかげで吹き飛んだ気がする。
テオと自分を分けて見てくれる人なんて、初めてだった。
テオのせいで頭を下げるのは嫌だったが、お嬢様との話題のひとつだと思えばなんということもない。
テオについてをもう一度ちゃんと詫び、図々しくも『ティナおねえちゃん』と呼んでしまったことをなんとか謝ったら、お嬢様ははにかみながら「おねえちゃんって呼んでくれて嬉しい」と言ってくれた。
これからもそう呼んでいい、と。
……ティナおねえちゃん、いいこっ!!
お金持ちの子なんて嫌な子ばかりと思っていたが、ティナおねえちゃんはそんなことは全然なかった。
ほんわかと可愛く笑って、わたしが『ティナおねえちゃん』と呼ぶと少しだけ恥ずかしそうに、でもすごく嬉しそうに笑ってくれるのだ。
またね、と言って別れたあと、これは夢じゃないかと少し疑った。
本当は少しどころではなく、翌々日教室で挨拶をされるまで疑っていた自分が少し恥ずかしい。
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