閑話:ミルシェ視点 お金持ちのお嬢様 2

 ティナおねえちゃんの隣の席に座ると、テオがわたしに近づいて来られないということは、すぐに解った。

 というよりも、ティナおねえちゃんのためだと判るのだが、テオは明らかに遠ざけられている。

 それに、一番後ろの席はうちのような貧しい生まれの大人たちで、大人になってようやく読み書きを学ぶ余裕ができてきた人たちだ。

 テオのような授業中に騒ぐ子どもに対して、容赦をするような人たちではなかった。

 少しでも騒ごうものなら両隣からこぶしで押さえつけられる環境に、さすがのテオもおとなしい。


 ……これに懲りて、ちゃんとお勉強すればいいのにね。


 暴れて授業を妨害することは出来なくなったが、かといってテオが勉強をするわけもない。

 家に帰って母に今日覚えたことを報告するのだが、もう一年もメンヒシュミ教会へと通っているはずのテオは基本文字を六文字と数字を半分ぐらい覚えただけだ。


 ……わたしなんて、基本文字はもう覚えちゃったし、数字も覚えたし、計算はティナおねえちゃんが教えてくれるし、で結構優秀だって教師せんせいも言ってくれるんだから。


 家では兄ばかりが構われて、わたしがどれだけ物を覚えて帰っても褒められないが、教室内では違う。

 最初こそ悪童テオの妹という目で見られ、教師からティナおねえちゃんの隣へは座らないようにと言われもしたが、ティナおねえちゃんが庇ってくれたし、授業は真面目に受けているしで、ちゃんとわたしを見てくれるようになった。

 悪童の妹だから、と他の子と席を替わってテオの横へ並べだなんて、もう言われない。


 ……ティナおねえちゃん大好きっ!


 計算の授業で数がわからなくなると、ティナおねえちゃんは自分の指を貸してくれた。

 指を使って計算していたわたしに、十以上の数がわからなくなると、私の指も使っていいよ、と。


 ティナおねえちゃんに新しくつけられたお付の少年とニルスが教師に呼ばれたり、ティナおねえちゃんから目を離したりした一瞬の隙を狙ってテオが意地悪をしに来るのだが、お付がいなくてもティナおねえちゃんはテオをきっちりやり返して泣かせる。

 一度腰に手を当てて「つま先で蹴られないだけありがたく思いなよ」と言っていた。


 ……ティナおねえちゃん、かっこよかったなぁ。


 可愛いだけではなく、テオにやり返して泣かせるぐらいには強くてカッコいいのがティナおねえちゃんだ。

 導師アンナはお転婆がすぎる、と困った顔をしていたが、テオ相手には丁度いいと思う。


 こんな感じに、平和な授業が続いていたと思うのだが、ある日を境にティナおねえちゃんがメンヒシュミ教会へと来なくなってしまった。


 ……あれ? ご病気にでもなったのかな?


 ティナおねえちゃんが教室に来ないとなると、ニルスとルシオの姿も教室から消える。

 二人はもともとティナおねえちゃんのお付だったので、おねえちゃんが教室に来ないのなら二人が教室に来るはずもなかった。


 三人の消えた教室では、テオの授業妨害が再び始まる。

 ティナおねえちゃんから遠くの席へ、と一番後ろの席にされていたのが、ティナおねえちゃんがいなくなったのだから、と前の席へと移動してきたのだ。

 それまでそこの席を使っていた子を叩いて退かし、真面目に書き取りをしている子の塗板こくばんを奪って上から白墨でらくがきをする。

 声を潜めて話しかけるなんて最低限の周囲への気遣いもせず、大声で周囲の子に話しかけて授業をしばしば中断させた。


 これではまともに勉強ができない、と思ったのは、教室みんなの一致した意見だ。


「ルシオ、ルシオ!」


「うん? ミルシェじゃないか。久しぶりだな」


 休憩時間にメンヒシュミ教会の敷地内を探し回り、やっと見つけたルシオはティナおねえちゃんがいないせいか、少しくだけた話し方をしていた。

 小脇に本を何冊か抱えていたので、どこかの研究室へのお使いの途中かもしれない。


「ティナおねえちゃん、どうしたの? 最近教室に来ないけど……」


「お嬢さんなら、自分がいるとテオが煩くて他の生徒が集中できないだろうってんで、少し前から教会へは来ずに、教師を御邸おやしきに呼んで勉強してるぞ」


 まあ、教師といっても教師役のニルスだけどな、と教えてくれるルシオに、目の前が真っ暗になった気がした。

 テオのせいで、ティナおねえちゃんが教室に来るのをやめてしまったのだ。

 その上、テオはおとなしくなるどころか、教室はティナおねえちゃんが通い始める前の状態に戻ってしまっている。

 悪童の妹なのだから、わたしが兄を止めるべきだ、と年長の女の子にも苦情を言われ始めた。


 ティナおねえちゃんがいなくなったことで増長したテオの天下は、しかしすぐに幕を閉じる。


 知を求める者に等しく学を授ける、と広く門戸を開いているメンヒシュミ教会ではあったが、ついにテオの追放を決定したのだ。

 本人に学ぶ気がまったくなく、他の生徒の邪魔までするようでは、知の神メンヒシュミの祝福を受ける資格などない、と。

 そして、学ぶ気のある生徒が、テオのせいで教室に来ることができなくなっていた。

 テオの引き起こす騒動の責任を感じ、ティナおねえちゃんが身を引いたのだ。

 教師を家に招くことができるお嬢様だったので、それでも学び続けることができるが、他の子は違う。

 テオがいる限り、他の子が学ぶ邪魔にしかならないのだ。


「知の神メンヒシュミの祝福を受けたければ、ティナさんと和解なさい。ちゃんと頭を下げて許しを請い、共にメンヒシュミの祝福を受けたいとお誘いするのです」


 そう言って、導師アンナはテオを追放した。

 当然これを不服に思ったテオは導師の指示には従わず、メンヒシュミ教会の敷地へと侵入しては門番に追い出され、教室に乱入してはまた門番に追い出される。

 学ぶ気がないくせにメンヒシュミ教会の敷地内へと侵入を繰り返すテオに、導師アンナはついに黒騎士へとテオを引き渡した。

 そのまま砦の懲罰房へと預けられ、翌朝帰ってきた時にはブルブルと震えておとなしくなっていたのだが、午後にはまた元気に外へと遊びに出かけていったので、全然懲りてはいない。







 メンヒシュミ教会へと行かなくなったテオに、母は激怒した。

 テオが教室で悪戯をしたことに対してではない。

 誰にでも平等に学を授けるメンヒシュミ教会が、テオには学を授けないと追放したことに対してだ。

 読み書きのできない母は、メンヒシュミ教会の導師や教師に対して変な劣等感を持っている。

 そのせいで、導師アンナが教義から外れたことをしている、と騒ぎ立てたくて仕方がないのだと判った。


 ……やめてよ、はずかしい。テオが悪いって、教会の人ならみんな知ってるし、テオと一緒に教室に通うことになった子なら誰でもテオの酷さも知ってるから。


 ここ一年ほどテオを押し付けられていたメンヒシュミ教会は、よく耐えてきた方だと思う。

 実の親ですら、息子テオを溺愛する母親ですら面倒をみきれずにメンヒシュミ教会へとテオを押し付けたのだ。

 他の多くの子の学ぶ機会を潰す以上、テオ一人が追放される方が理にかなっている。


 メンヒシュミ教会に怒鳴り込む母は、右手にテオを、左手にわたしの手を引いて乗り込んだ。

 はっきりいって、わたしは無関係でいたい。

 これ以上テオと、テオばかりを優遇する母と、同じ家族だとは思われたくなかった。


 メンヒシュミ教会へと乗り込んできた母を、導師アンナが門の前で迎える。

 興奮気味に叫ぶ母に、導師アンナはただ静かに訴えを聞いていたが、母が叫び終わっていったんおとなしくなると、導師アンナは落ち着いた声音で口を開いた。


「我がメンヒシュミ教会は知の神メンヒシュミの祝福を、誰にでも、平等に授けることを使命としております」


「だったらなんでうちの子を追い出すのさっ! おかしいだろ!?」


「失礼ながら、メンヒシュミ教会は七歳以下の子どもが通うことを認めておらず、この理由は椅子に静かに座っていられるようになるおおよその年齢、となっております」


 おまえの子どもは静かに椅子に座ってもいられない七歳以下の赤ん坊と同じだ、と上品な笑みを浮かべた導師アンナに告げられ、母の頬に朱が差す。

 何か言い返してやろうと口を開くのだが、言葉は出てこなかった。

 自分だって、赤ん坊のようで手のかかるテオを面倒に思ってメンヒシュミ教会に押し付けていたのだ。

 メンヒシュミ教会の教義に反するだなどと言っているが、ようは体のいい子守が利用できなくなって困っているだけである。


「テオが教室で何をしたかはご存知ですか?」


「子どもが少し騒ぐぐらい、よくあることじゃない。それを静められない教師の方に問題が……」


「……テオが髪を引っ張ったり、頭を叩いたりしている女の子の身元はご存知? 利発なお嬢さんなので今はこらえてくれていますが、その気になればテオが教会から追放されるのではなく、あなた方一家が街から追放されますよ」


「なによ、それ。脅しのつもり? そんなんで誤魔化されないわよ……」


「どう受け取っていただいても結構です」


 母との会話を切り上げて、導師アンナはテオへと視線を落とした。


「テオは、ティナさんがどこのお嬢さんが知っているかしら?」


「……黒騎士の家の子」


 ムッと唇を尖らせながら、テオは素直にそう答えた。

 お嬢様だと思ってはいたが、黒騎士の家の子だとは考えもしなかったので、わたしはびっくりだ。

 どこか羽振りの良い商家の子か何かだろうと思っていた。

 まさか、黒騎士の家の子が誰でも通えるメンヒシュミ教会になど通うはずはないと思っていたのだ。


 ティナおねえちゃんの家の話はわたしにはびっくりの内容だったが、びっくりしたのは母も同じだったようだ。

 近所の女の子に意地悪した程度なら、またわたしを謝らせに行かせればいいとでも思っていたのだろう。

 けれど、これが黒騎士の家の子どもとなれば話は別だ。

 この街は、通称砦の街と呼ばれている。

 騎士の詰める砦に寄り添う形で街が生まれたので、騎士というだけで街の中ではそれなりの信用と発言権があった。

 その騎士の家のお嬢様に、テオが乱暴を働いていたのだ。

 黒騎士の耳に入れば、我が家がどのような扱いを受けるのかはわからない。


「なんてことをしてくれたんだいっ! この馬鹿息子っ!!」


 息子のしでかしたことを理解した母は、バシッと音がする勢いでテオの頬を叩いた。

 知っている限りで、母がテオを叩いたのは初めてだ。

 わたしのことは機嫌が悪いだけで叩くくせに、テオを叩くことはこれまでなかった。

 テオも初めて母に叩かれたのか、ぽかんっとした顔で母を見上げている。


「教室で騒ぐどころか、黒騎士のお嬢様に手をあげるだなんて、なに考えてるんだっ!?」


「あいつが卑怯で悪いんだっ! あいつがとうぎ大会に並ばず入って……っ!!」


「黒騎士のお嬢様なら、闘技大会に並ばずに入れるのは当たり前だろうがっ!! この馬鹿息子っ!!」


 バチンっともう一度大きな音を立てて、母はテオの頬を叩いた。

 今度はすぐに自分が叩かれていると理解したテオは、くしゃりと顔を歪めて泣き声をあげる。


「黒騎士のお嬢さんに手をあげるわ、教会の勉強すらマトモに出来ないわ……ろくな仕事に就けないよっ!?」


「おれは黒騎士になるから、勉強なんてできなくていいんだっ!」


「おまえのような暴れるしか脳のない子が、騎士様になんてなれるわけがないだろうっ!」


「なれるよっ!」


 興奮状態で怒鳴りあう母と息子に、導師アンナは溜息を吐きながら、聞こえるようにこう言った。


「黒騎士はメンヒシュミ教会で習う基礎以上の学力が求められます。基本文字も覚えられないような子が就ける仕事ではありません」


 さすがのテオも、これには息を飲んだ。

 涙も綺麗に引っ込んでいる。

 どうやら、黒騎士になるためには学力も必要だということを、本当に知らなかったらしい。







「ミルシェはもう教会へは行かなくていいから、働きなさい」


「え?」


 メンヒシュミ教会の門番に追い払われるようにして家へ帰ると、母がわたしにこう言った。

 テオがメンヒシュミ教会に行けない以上、わたしをおりに付ける必要はない。

 わたしは読み書きを学ばなくても良いと。


「だいたい、なんでテオが教会を追い出されなきゃなんないの? ちゃんとアンタを見張りに付けたじゃないっ! なんでちゃんと言われたことができないのっ!? アンタのせいでテオが教会から追い出されたのよ! 解ってる? ちゃんと反省しなさいっ!」


 納得のいかない理由で詰られる。

 言葉の終わりには平手が飛んできた。


「謝りなさい! アタシに謝りなさいっ!! ちゃんと謝ってっ!!」


 二度、三度と振り下ろされる平手に、口の中に血の味が広がる。

 母に殴られるのは慣れっこだったが、痛くないわけではない。


「……なんで」


 ふつふつと、お腹の底に熱いものがこみ上げる。

 ずっと押さえつけられて我慢してきたが、テオが暴れて許されるのなら、わたしだって暴れてもいいはずだ。


 ……ティナおねえちゃんだって、テオにやり返してるもんっ!


 ふとテオを蹴り倒して泣かせ、得意げに胸を張るお嬢様の顔を思いだす。

 もう何日も見ていないが、お日様のような笑顔だった。


「テオのお守りなんてもうイヤっ! こんなヤツ、全然おにいちゃんなんかじゃないっ! ただのわがままで暴れん坊な赤ちゃんじゃないっ!!」


「お兄ちゃんにむかって、なんてことを言うのっ!!」


 振り上げられた母の手を掴まえ、ガブリと噛み付く。

 我慢の限界だった。


 メンヒシュミ教会から兄は追い出されたが、わたしは追い出されてはいない。

 テオがメンヒシュミ教会を追放される時に、わたしも追放なのかと教師に聞いた。

 そうしたら教師は、わたしは追放ではない。また来ていいと言ってくれたのだ。

 テオと違って学ぶ気のあるわたしは、メンヒシュミ教会に通う資格があるのだと。


 意識を失うまでいっぱい母に叩かれたが、気分はスッとした。

 これまでずっと我慢させられてきた気持ちを、やっと声に出して言えたのだ。

 途中、隣の家から煩いと怒鳴り声が聞こえた。

 そのせいでまた「アンタのせいでアタシが怒られたじゃないかっ!!」と母に殴られる。

 テオはその場にいるが、見て見ぬふりだ。


 ……あんなヤツ、おにいちゃんなんかじゃない。


 時折ティナおねえちゃんを迎えに来ていた黒髪のお兄さんを思いだす。

 ティナおねえちゃんは兄貴分だと言っていた。

 ティナおねえちゃんのお兄さんは、大切に、大切にティナおねえちゃんを抱っこする。

 優しく笑って「勉強は楽しかったか」とか「友だちはできたか」とかティナおねえちゃんに聞くのだ。

 いつもはお澄ましなティナおねえちゃんも、お兄さんにはべったり甘えてみせる。


 ……あんなお兄さんがほしいな。


 お金持ちでなくていいから、優しい兄がほしい。

 暴れん坊じゃなくて、近所の子に迷惑をかけなくて、メンヒシュミ教会を追放にならないような兄がほしい。


 ……もう、テオのお守りなんてイヤ。







 テオのことなどどうでも良いが、ティナおねえちゃんは呼び戻した方が良い。

 テオのせいで教室の雰囲気が悪くなってしまったが、ティナおねえちゃんがいるとみんな静かになるので、あの教室のためには戻ってきてほしい。

 メンヒシュミ教会に通う子や近所の子に声をかけて探してみたが、ティナおねえちゃんの家はわからなかった。

 黒騎士の家の子となると、街のどこかに家があるはずなのだが、みつからない。


「ティナちゃんの家って、どこにあるんだろうね?」


「もう騎士の住宅区しか探してないとこないよ?」


 こんな言葉が出てくるぐらいには街中を探した。

 ティナおねえちゃんがいるはずのない貧民街から、入りにくい富豪層の住宅街までを。

 あと探していないのは、用のない一般人が立ち入ることを禁じられている騎士の住宅区だけだ。

 騎士の住宅区に住んでいるのは、騎士団の中でも団長だとか隊長といった上位の騎士たちで、住宅区へと続く全ての道には騎士が見張りに立っているぐらいには警備が厳しい。

 一般の騎士は砦に生活のための騎士寮があるらしいし、家族を持った騎士は街の中に部屋や家を借りている。

 さすがに騎士の住宅区にはいないだろうと思うのだが、他にもう探す場所はない。

 どうしたものかと年長の女の子たちと相談していると、騎士の住宅区へと続く道の奥から見覚えのある少年がやってきた。


「ニルス! なんで騎士の住宅区から出てくるの?」


「用のない人は入っちゃダメなんだよ?」


 住宅区から出てきたニルスを、女の子たちで取り囲む。

 ニルスは少し困ったように眉を寄せると、ティナおねえちゃんの家を教えてくれた。


「ティナお嬢さんの御邸がこの先にあって、御邸で授業をしてきたんだよ」


「ティナおねえちゃん、騎の住区に住んでるの!?」


「行けばすぐにわかるよ。一番奥の御邸だから……」


 門まで送ってくれたから、走っていけば会えるんじゃないかな? と続いたニルスの言葉に、思わず駆け出したのだが、そこは警備の厳重な騎士の住宅区だ。

 一歩区画へと足を踏み入れた途端に警備の騎士に捕まってしまった。


「こらこら、ここは子どもが遊び場にしていい場所じゃないぞ」


「離してーっ! ティナおねえちゃんに会いに行くのーっ!」


「ティナおねえちゃん? ニルス、何か知ってるか?」


 がっちりとわたしの肩を捕まえた騎士に呼びかけられ、年長の女の子から開放されたばかりのニルスが引き止められる。

 ニルスがわたしとティナおねえちゃんがメンヒシュミ教会で面識があり、ティナおねえちゃんにわたしが可愛がられていたという話をすると、騎士は特別に騎士の住宅区へと入る許可をくれた。


 ……はいっていいのは私と年長の女の子二人までだけどね。


 ティナおねえちゃんを探すのを手伝ってくれた子どもたち全員は、さすがに通してくれなかった。

 用がないと入ってはいけない区画なので、しかたがない。


「私、騎士の住宅区に入るなんて初めて……」


 恐々と年長の女の子が周囲を見渡す。

 この区画へは出入りする者を見張りの騎士が確認しているので、貧民街はもちろんのこと大通りよりも治安が良い。

 むしろ、街で一番安全な場所だ。

 そういった意味では怖がることなど何もないのだが、一応見張りの騎士に許可を得て入っているとはいえ、他の騎士に見咎められたら怒られる可能性もある。

 あまり長居はしない方が良い。


 一番奥の家と聞いていたので、急ぎ足で道を進む。

 綺麗な御邸が多いので少し見学をしたい気はしたが、好奇心よりも恐怖が勝った。

 早くティナおねえちゃんを見つけて、用を済まさなければならない。


 ニルスに教えられた御邸は、すぐにわかった。

 区画の奥にあったし、なによりも正門前で塗板を持ったティナおねえちゃんが門番の騎士と話しているのが見えたからだ。


 ……ティナおねえちゃんが騎士さまのお仕事の邪魔してるっ!?


 そう思ったら、体が勝手に動いていた。

 少し考えてみれば、黒騎士の家の子だというティナおねえちゃんが騎士と話しをしていても不思議はないと気づけたかもしれないのだが、普通なら自分から近づくことなんてできない騎士を相手にしているティナおねえちゃんに、頭が真っ白になってしまったのだ。


「ひゃあわわわわわわわわわっ!?」


 思わず口から変な声が出た。

 でも、ティナおねえちゃんを騎士さまたちから引き離さなきゃ、と思ったのは年長の女の子たちも同じだったようで、同じように雄叫びをあげながら駆け出していた。


「うぇえ!? 何? なんれすか?」


 久しぶりに聞く少し噛んだ言葉遣いに、少しだけホッとする。

 あと少しでティナおねえちゃんに手が届くと思ったのだが、わたしたちの勢いに驚いたティナおねえちゃんは門の向こうへと逃げてしまった。


 ……ええっ!? なんで逃げるの!?


 そう思った時には、肩を門番の騎士に押さえられていた。

 一緒にいた年長の女の子たちも同じだ。

 門番の騎士は二人いたが、自分たちが見張りの騎士に人数制限を受けた意味がわかった。

 咄嗟の場合に、この人数なら門番だけで押さえられると判断したのだろう。


「放してーっ! ティナおねーちゃんっ!!」


 バタバタと手足を振って抵抗していると、ようやくティナおねえちゃんがわたしに気が付いてくれた。

 おずおずとこちらの様子を覗き込むと、門番の騎士にわたしたちを放すよう言ってくれる。


「ミルシェちゃん、どうしたの?」


「ティナおねえちゃんが、騎士さまのお仕事の邪魔してるんだと思って、怒られる前に一緒に逃げようって……?」


 そこまで言って、ようやく思いだせた。

 ティナおねえちゃんは黒騎士の家の子で、騎士はティナおねえちゃんの言葉に従った、と。

 もしかしたら、ティナおねえちゃんと遊ぶことも、門番の騎士のお仕事なのかもしれなかった。


 ……ってことは、お仕事の邪魔をしたのはわたし!?


 まずいことをしてしまった。

 騎士のお仕事の邪魔をするなどと、この街の住人としてやってよいことではない。

 あわわと内心で焦っていると、ティナおねえちゃんは苦笑いを浮かべた。


「……ここはわたしのおうちだかりゃ、大丈夫れすよ。パールさんから文字を教えてもらっていたところれす」


 ほら、と塗板に書かれた文字を見せてくれる。

 わたしにはまだ読めないが、たぶん『パール』と書いてあるのだろう。

 ティナおねえちゃんは、けっして勉強が嫌でメンヒシュミ教会に来なくなったのではないと、よくわかる。


「ティナおねえちゃん、教会に戻ろう? 一緒におべんきょうしようよ」


 そうお願いすると、ティナおねえちゃんは返答に困ったのか、小さく首を傾げた。

 テオの妹であるわたしには言い難いのかもしれない。

 だから、わたしから今の教室についてを話してみた。


「テオなら、もういないよ」


「え?」


「テオったら、ティナおねえちゃんがいなくなってから、暴れるのがひどくなったの」


 あとは年長の女の子たちが説明してくれた。

 テオの暴れん坊っぷりが悪化し、ついにはメンヒシュミ教会を追放されてしまった、と。

 じっと話を聞いていたティナおねえちゃんは、話の終わりにようやく頷いてくれた。

 テオがいないのなら、行ってもいいかな、と。

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