第19話 愛称と本当の名前

 今日の成果を報告しようとレオナルドの帰りを待っていたのだが、夕食の時間になってもレオナルドは帰宅しない。

 では、今日は帰りが遅い日なのだろうか、と眠くなるまで待っていたのだが、結局レオナルドは帰宅しなかった。


 ……せっかく自分の名前ぐらい書けるようになったのにね。


 養育されている者の義務として、勉学の進度を報告しようと思っていたのだが、帰ってこないのならば仕方がない。

 自分の名前を書いた塗板こくばんを机に置いて、しぶしぶながらもベッドに潜り込んだ。


 ……あれ? 何か書いてある。


 翌朝目が覚めると、机の上へと置いた塗板の文字が増えていた。

 『ティナ』と書いた四文字の下に、少し長めの単語が綴られている。


 ……なんだろう? 夜中にレオナルドさんが書いたのかな?


 レオナルドが書いたとすれば、この文字列はレオナルドの名前だろうか。

 そう思ってよくよく観察してみると、文字列の最後の四文字が私の名前と同じだと気が付く。


 ……もしかして、これが私の名前?


 父と一緒に埋葬するものを探している時に、見つけた指輪の一つに私の名前が彫られていたはずだ。

 あの時もじっと観察していたが、正確な形はもう覚えていない。

 当時は今以上に文字を知らなかったので、仕方のないことかもしれなかった。


 ……レオナルドさん帰ってきたのかな? 聞いてみよ。


 身支度を整え、塗板を持って階段を下りる。

 一階の居間を覗くと、長椅子に座ったレオナルドがまったりと珈琲を飲んでいた。


「おはよーございます、レオにゃルドさん」


 それからおかえりなさい、と言いながらレオナルドの隣へと腰を下す。

 レオナルドの隣は、珈琲の良い匂いがした。

 汗の臭いはしなかったので、いつものように朝風呂を済ませたあとなのだろう。


「見てくらさい。わたし、自分の名前が書けるようになったんれすよ」


 言いながら塗板を見せると、大きな手で頭を撫でられた。

 レオナルドに頭を撫でられると勢いがいいので少し目が回るのだが、もうこれに慣れてしまったので、ないと寂しい。


「昨日のうちに見せてもらったよ。綺麗に書けているな」


 やはり夜のうちに部屋へと侵入し、塗板に謎の文字列を書き込んだのはレオナルドだったらしい。

 最初の夜以来、部屋へ入る時は必ずノックがされるようになったので、ノックの音にも気づかずに熟睡していたようだ。


「……こっちの字はなんれすか?」


 寝ているうちに増えていた単語を指差し、早速レオナルドに聞いてみる。

 レオナルドの名前か私の名前だろうと思っていた単語は、やはり私の名前だった。


「下に書いたのはティナの名前だよ。最後の四文字が同じだろう? ティナは愛称で、書類なんかは全部こっちの名前で書いてある」


「わたしはずっと愛称で呼ばれてたんれすね」


 記憶にある限り、ずっと『ティナ』と呼ばれている。

 周囲の人間からはともかくとして、両親からも『ティナ』だ。

 おかげで私はずっと自分の名前を『ティナ』だと思っていたのだが、この『ティナ』はただの愛称で、本当はもう少し長かったらしい。


「……長いれすね」


 綴られた文字を数えてみると、ずっと自分の名前だと思っていた『ティナ』は四文字だったが、正式な名前は九文字あった。

 残念ながら、昨日習った文字は全体を見ても一文字しか入っていない。


「……貴族の名前は長いからな。アルフもあれが愛称だぞ。本当の名前はアルフレッドと言う」


 ……あれ?


 レオナルドの声が少し固い。

 普通に呼んでいたアルフの名前が愛称だったことは驚きだが、それだけの話でレオナルドが緊張をする必要などないと思う。


 ……うん?


 アルフの名前が長いのは解ったが、貴族の名前が長いのと、私の本当の名前が長いことがどう繋がるのかが解らない。

 解らないのだが、背筋を嫌な汗が伝った。


「レオにゃルドさん、なんで貴族の名前が長いって話になったんれすか?」


 チリチリと嫌な予感がしてくる。

 聞きたくはないし、はっきりさせるのも怖いのだが、半端なまま放置していつまでも気になるのも嫌だ。

 レオナルドの顔色を窺うように見上げると、レオナルド自身言い難そうに口を開いた。


「……サロモン様が騎士をしていた頃に助けられた、と話したことがあっただろう?」


「聞きましら。おおかみの餌にされそうになってらとこを、お父さんに助けらえたって」


「その時にサロモン様の纏っていた鎧が、白かったんだ」


 白い鎧の騎士はそのまま白騎士と呼ばれ、貴族の子弟がなるものだと聞いたことがある。

 単純に考えて、白騎士というだけでその騎士が貴族の家の子どもであることは間違いがない。

 私の父親であるサロモンが白騎士で、貴族だったとレオナルドは言っているのだ。


「サロモン様が貴族なら、サロモン様の娘であるティナも……むぐっ!?」


 不吉な言葉を最後まで言わせず、レオナルドの口をクッションで塞ぐ。

 はっきりさせずにモヤモヤとするのは嫌だったが、歓迎できない事実は耳へ入れたくもない。


 ……いや、私が貴族とか、怖いっ! なにそれ、なにそれ。嫌すぎる……っ!


 貴族といえば、あれだ。

 偏見であることは百も承知だが、意地と見栄の塊で、贅沢はできるが場合によってはそれも借金塗れ。

 借金の形として成金に嫁がされたり、同じ貴族間で政略結婚させられたり、俯いてはいけないだとか、自分で手も洗っちゃいけないだとか謎のルールで雁字搦めになっている身分階級の世界だ。


 ……実はそんな世界の人間でした、とか今さら言われても困りますっ!


 不衛生な村での暮らしも慣れればなんとかなったが、貴族生活など逆に慣れられる気がしない。


 ……でも、前にレオナルドさんが私に英語を覚えなさい、ってしつこかった本当の理由はわかった。


 英語は貴族の教養として必須だと、オレリアの家にいた頃に聞いている。

 レオナルドはサロモンの娘である私が貴族だと知っていて、早いうちから英語を身に付けさせようと思ったのだろう。


「レオにゃルドさん、確認したいことがありましゅ」


「……なんだ?」


 レオナルドの口を塞いでいたクッションをはずし、胸の前で抱きしめる。

 貴族になどなりたくはないが、そのためには一つ確認しておかなければならない。


「前に親戚がわたしのことを要らないって言ったや、成人まで面倒をみてくれりゅって言ってたの、今れもおなじ気持ちですか?」


「もちろん、変わっていない」


 私が嫌だと言っても手放すつもりはないから安心しろ、とレオナルドは力強く頷く。

 もしかしたら、闘技大会で「アルフさんちの子になる」と言ったことを根に持っているのかもしれない。


「だったら、わたしはメイユ村のサロの娘れ、サロモンなんて貴族の娘やありません」


 ずっとレオナルドのうちの子でいるから、もう親戚は探さないでください、と言うと、レオナルドは不思議そうに首を傾げた。


「……普通は貴族になれると聞けば喜ぶものだが」


「そういう人もいりゅと思いますが、わたしは嫌れす」


「貴族の親戚に引き取られれば、贅沢な暮らしができるぞ? 綺麗な服も、美味しいお菓子もいっぱいだ」


 レオナルドは私が貴族だと言い難そうにしていたと思うのだが、今度は貴族の良さをアピールしてくる。

 この人は私を貴族にしたいのか、妹として手元に置きたいのか、どちらなのだろうか。

 なかば呆れつつ、レオナルドの貴族良いことアピールを遮る。

 レオナルドの言う贅沢など、レオナルドの妹であっても味わえる贅沢だ。


「レオにゃルドさんのところれも、充分すぎる贅沢な暮らしをしていましゅよ」


 言いながら長椅子から下り、ひらりとワンピースの裾を広げて見せる。

 手触りの良い上等な布がたっぷりと使われたワンピースは、平民の子どもには贅沢すぎる一品だ。

 それも、ただ贅沢に布を使うだけではなく、レオナルドの注文による魔改造でレースやリボンもふんだんにあしらわれていた。


「貴族なんて怖い人に近づきたくありましぇんので、もう親戚は探さないでくらさい」


「ティナがそれでいいなら、そうするが……」


 親戚探しをやめるのは無駄に終わるかもしれない、とレオナルドはそっと目をそらす。


「え? なんでれすか?」


「ジャン=ジャックがサロモン様の指輪を売ってしまっただろう? あの指輪の行方が未だに判らない」


 売られた指輪がどういう偶然か父の実家へと辿りついてしまえば、用があったら親戚の方から出向いてくるかもしれない、とレオナルドは言う。

 さすがに貴族の方から出向いて来られてしまえば、そんな指輪など知らないとはとぼけられない。

 洗いざらい報告することになり、サロモンの暮らしていたメイユ村へと案内することになるはずだ、と。


「……その時は、メイユ村まで案内したらいいれすよ」


 そこで父の死を知れば、それで終わりだ。

 父の足跡が知りたいのなら、そこで貴族の目的は達成される。

 私に用が発生するためには、親戚が父に娘がいたと知る必要があるが、あの指輪は父の行方の手がかりにはなっても、私の存在を伝えるものではないはずだ。

 指輪は二つあって、一つには私の名前が彫られていたが、ジャン=ジャックが売ってしまったのは宝石のついた金の指輪だ。

 木製の指輪が売れるわけはないので、ジャン=ジャックが持ち出した可能性は低い。

 そして、メイユ村の墓地へは先日レオナルドと行っている。

 その時に指輪の入れてあった箱は見つけたが、中にあったはずの木製の指輪はなかった。

 木製の指輪なのだから、いつかは朽ちて土に還るだろう。

 それほど心配する必要はない。


「……ずっとうちの子で、いいんだな? 貴族に戻らなくても」


 レオナルドの大きな手が私の手を包み込み、まっすぐに私の目を見つめてくる。

 なんだか必要以上に真剣な顔つきで見つめられているような気がして、くすぐったかった。


「貴族になんれなりたくないので、レオにゃルドさんの妹がいいれす」


 私がなんの気負いもなくそう答えると、レオナルドの大きな胸へと抱き寄せられる。

 少し苦しい。

 私の長い名前は貴族の名前である、と言い難そうにしていたレオナルドは、もしかしたらこの話題を意図的に避けてきたのかもしれない。

 レオナルドは最初から私が貴族の娘だと知っていたのだ。

 知っていて、突然できた妹を手放したくないと黙っていた。

 そんな気がした。







 タビサの作ってくれた朝食を食べながら、初めて通ったメンヒシュミ教会の報告をする。

 授業は思いのほか簡単で、ついていけそうだ。

 お手伝いに、とニルスというおっとりした少年を付けられた。

 ミルシェという可愛い女の子と友だちになれそうな気がする。

 秋にはいないはずとレオナルドが言っていたあの男児がいて、また髪を引っ張られた、と。


「……その男の子ってのは、闘技大会で牢に入れられたテオか?」


「はいれす。テオって名前れしたけど……レオにゃルドさん、テオのこと知っていたんれすね」


「闘技大会のあと、報告という形で俺のところにきた。突然ティナの髪を引っ張った男児を拘束し、反省を促すため牢へいれた、と」


 忙しかったのでそのまま一晩牢に放置され、翌朝になっても子どもが家に帰ってこないというテオの母親の訴えで身元が判明、家へと帰されたそうだ。

 牢とは言っても、私もアルフに入れられたことがある懲罰房で、ジャン=ジャックのいた地下牢に比べたらかなり快適な場所だった。

 さすがの悪童テオも懲罰房での一晩放置はこたえたらしく、翌朝にはぶるぶると震えながら逃げ帰ったそうだ。

 なんでも、夜中の北棟には女の幽霊が出るとかなんとか。


 ……北棟は隔離区画だったから、確かに女の人もいっぱい死んだけど……?


 ロイネをはじめとするワーズ病に感染した娼婦たちは、内心はどうあれみな明るい女性たちばかりだった。

 死んだからといって、化けて出るような性質たちではない。


「テオがあまり酷いようなら、なんとかしてやれるが……」


「ニルスにも言われましら。わたしが保護者レオナルドにテオのことを言ったら、子どものケンカじゃすまにゃくなる、って」


 私の言葉はある意味では暴力にも勝る、と諭された話をする。

 腹が立つので愚痴らせてはほしいが、レオナルドに実力行使で排除してほしいわけではないのだ、と釘を刺すことも忘れない。


「……それに、わたしだってやられっぱなしじゃないれすよ。今回は蹴って泣かせてやりました」


「泣か……? テオは男の子だろう!? 泣かせたのか?」


「はいれす。保護者に言いつけにゃい代わりに、反撃はするって導師アンナのお墨付きれす」


「導師アンナが? いや、そんな馬鹿な……」


「ジャン=ジャックに教わったことはしてないのれ、まだ優しい対処れすよ」


 心配しないでください、と薄い胸を反らして主張したら、ついにレオナルドがこめかみを押さえた。

 ぐりぐりと指でこめかみを揉みながら、ジャン=ジャックから教わった方法についてを聞いてくる。


「ジャン=ジャックに教わった方法、というのは?」


「裸にひん剥いれ、木にでも縛り付けてやれって教わりましら!」


 自尊心とか羞恥心とかいろいろなものをへし折ってやるそうです、と説明すると、絶対に実行しないようにと約束させられた。


「まずどちらが強いかを頭と体に叩き込むのが大事らって、ジャン=ジャックが言ってたんれすけどね」


「お転婆が過ぎるだろう、いくらなんでも……」


「ただの自衛れすよ」


 そんな会話をして、翌日またメンヒシュミ教会へと通う。

 バルトに連れられて行ったメンヒシュミ教会では、ニルスの他にもう一人ルシオという少年が付けられることになった。

 ニルスはともかくとして、彼は確実にテオ対策だと判る。

 既に基礎知識は身につけているニルスではあったが、私に教えるためか一応自分の塗板を持ってきている。

 しかし、ルシオにはそれがない。

 私の席の後ろに座り、テオが私の髪を引っ張れないよう見張っているようだった。


「こんにちは、ティナおねえちゃん」


「こんにちは、ミルシェちゃん」


 友だちを『ちゃん』付けで呼ぶなど、ちょっと新鮮だ。

 前世では本当に幼い時にしかしていないし、今生では初めてになる。


 ふにゃっと笑うミルシェが可愛くて、私までつられて笑顔になった。


 ……この可愛い子がテオの妹とか、何かの間違いだよ。


 何かの間違いだとは思うのだが、私の隣へと座るミルシェに、その隣へとテオが陣取り、早々にルシオがこれを排除に動く。

 襟首を猫の子のように引っ張られてテオが座らされた席は、一番後ろの中央だ。

 基本的には背の順で座る教室で、一番後ろの席ともなれば、背が高いというよりも学ぶ余裕ができた大人たちの席である。

 さしものテオも、大人に挟まれてはおとなしくせざるを得ないだろう。

 大人になってからメンヒシュミ教会へ来るとなると、彼等は本気で基礎を身に付けに来ているのだ。

 テオのように教室で騒いで他の子の邪魔をするような子どもに対し、容赦をするわけがなかった。


 ……テオも、これに懲りて真面目に勉強したらいいよ。

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