第10話 たんとお食べ

「殺してやりたいと思いました。いまだけ……自分のことも、猫のことも」

 奪われたから、憎いと思った。

 けど、そんな風にぶつけてしまう自分が自分で許せないとも思う。

「……ごめん、俺、いろいろと知らないからってつっこみすぎたね」

「いえ、いずれは知ることです」

 三太が気まずそうな声で聞いてきた。

「猫を拒絶すれば、この……味覚がある状態が失われる。そういう対価を差し出した」

「……それだけじゃないよ。アンタ、本当に聞いてないのか」 

 三太が痛ましいものを見るような声をかけてくる。何を、と政は聞き返そうとして出来なかった。ただじっとした目で見つめていた。

「猫は……呪い返しの産物なんだぞ」

「どういう、意味ですか」

 三太が頭をがりがりとかいたあと、はぁと深いため息をついた。

「……猫ってのは昔から、呪詛に使われる。情が人より強くて、執念深いからだ。昔、この土地を呪った呪いが猫なんだよ。どういう理由かなんて知らないし、なんでかもわからない。けど、この土地を呪った猫を、アンタの一族が憑き物にして、封じ込めたんだ。アンタの家が嫌われていたのか、それとも優れていたのかはわかんねぇけど、アンタの家と猫は契約を交わした」

 十代先、その子を猫を夫婦にする。

「十代先っていうのは、猫の呪詛としての力を削ぐために必要な年数だったんだ」

 呪いから生まれた穢れを落さねば人とは生きられぬ。だから十代先の子

「猫はずっとそれまで封じられていたんだよ。代々この家の人らは猫を奉って、浄め続けてきた

 けど、月日を重ねれば、呪いとかみんな忘れちまうからアンタの父親は猫のことを知らなかった、アンタも。けど、アンタは待ちに待った十代目だ」

 祖父たちが引き受けてくれていた呪いを自分たちは知らずに自由に生きていた。

 けれど約束の十代である政にはどうしても契約の罰が降りかかったということか。

 それが味覚を失うこと。

 そんな風に呪いのせいならはじめから殺してしまえばよかったのだ。猫という存在を消してしまえば、政は不幸ではなかったかもしれない。味覚があれば母の食べ物もおいしく食べれて、妻の食事も

 けれど、本当にそうだろうか? 諦め続けたものを今更取り戻したところで、なくしたものが帰ることはない。

「どうして、祖父たちは猫を消さなかったんですか」

「消せなかったんだよ。強い呪いだから」

 けど、と三太はつけくわえた。

「だいぶ浄められて、弱くなってるから、アンタの前の代では消せたかもしれない。けど、そこまで弱まったものが遠く離れたアンタに契約の罰を与えられるかっていうのは謎なんだよな。罰っていうのは、ようは憑き物筋の力だから。信仰とかもともと持って生まれた恐怖とかのさ。猫はこの家に奉られて、浄められて、過去の契約を失効するくらいにはたぶん弱くなってるんだ。たぶん、それを狙ったんだろう? 時間をかけて浄化して、消しちゃうっての……けど、まぁ消したら魂は転生できないんだよ」

「転生? 魂って、どういうことですか」

 三太が口ごもるが、政の視線に深く息を零して続けた。。

「呪いっていうのは、生き物を使えばそれだけ強くなるんだよ。あそこまで強いものだ……猫は、大本の呪いは生きた魂を対価に使われたんだ」

 誰かを呪うために、誰かの命を使い、そのせいで誰かの人生を潰していく。

 ああ、まさに呪いだ。

 どうして、自分の祖はそんものを引き受けてしまったのか。

 どうして、自分の祖父は猫を消せなかったのか。

 どうして、自分は呪いの罰を受け続けているのか。

 あまりにも理不尽で目が眩む。

 何を憎んでも、どうしようもない。

 ただ静かに目を伏せて息を吐いた。

「政さん」

 三太が遠慮がちに声をかけてきた。

「猫を消したいのか、本当に? 消したら、罰はないかもしれない。そこらへんの文献はないから俺もわかんないけどさ。それで取り戻したらアンタはいいのか?」

「わかりません」


 三太が帰ったあと、ものは試しに政は買ってきた鯛飯弁当を開いて割り箸で一口、すくって口に含んだ。

 そのとたんに、異物を口にいれたような不愉快さで吐き出していた。

 味がない。

 味がしない。

 それは生きるうえでたいしたことないのかもしれない。我慢すれば飲み込むことができる。知識として必要だから。またはそれ以外の何かで手を打つことだって出来る。けど自分は知ってしまった。

 味覚がある歓びを。

 得て失うとはあまりにも非道すぎる。

 いや、これと同じことが子供の頃にあった。ここに預けられたとき、確かに自分はまだ味覚があった。だから食べれなくなった。

 混乱するまま立ち上がり、政は家の奥の部屋に向かった。ここは祖父の遺品を置いてある部屋だ。あのとき、どうして自分はなくしてしまったのだろう。それに祖父はお前がいいらしいと手紙に残していた。

 アルバムを引っ張り出して、ページをめくる。

「あ」

 ようやく見つけたその古い写真には――笑っている猫が幼い政の横にいた。



 ――わたし、わからないの。あじってものが。のろいでなくしちゃったの

 ――じゃあ、おれのをあげる

 ――いいの?

 ――うん。だから


 フラッシュバックするように思い出した。

 夏に、家族から話され、友達もいなくて、祖父母も仕事があって独りぼっちの政に家のなかにいた猫が声をかけてくれた。寂しさを埋めてくれた彼女は食べることが苦手だった。味覚がないといわれて、幼い政はその意味がわからなかった。だからあげると口にした。だって、笑っていて欲しいと思ったから。


 幼いとき、政は自分で猫を選んだ。捧げることを。それを猫は受け取って契約を取り交わした。

 たまたま政が十代目だったから。

 祖父母が浄めて、だいぶ弱ってしまった、その憑き物を目覚めさせてしまったのは。

 過去の先祖の取り決めを執行したのは誰でもない自分だ。

 猫はそれを受け取り、憑き物としてとりついた。だから自分は罰を受けた。


「猫、猫、どこですか」

 家のなかを探し回るが声は帰ってこない。

 部屋を一つ、一つ、押し入れまで開けて、布団も出して探すがいない。

 息を荒くして政は庭に出た。

 静寂。

 夜の帳。

 虫たちの声のなか、金色の瞳が二つ、ある。

「猫」

「……はい」

 震える返事。

「俺があなたにあげたんですね、味覚を」

「……私、あなたがくれると口にしてくれて、嬉しくて、だからもらってしまったの」

 幼い政はその意味が、どういうことになるかなんて知らずに。

 猫はただ嬉しくて。

 一緒にいる夏の間は問題なかった。けれど離れたことによって呪いが――政から捧げた味覚を失わせてしまった。

 幼すぎて忘れてしまった約束のせいだ。

「……私、本当は早く返すべきだったんです。けど、あなたがまたきてくれると思って……呪いは時間の感覚がないんです。何年たっても、わからなくて、だからあなたがこんなにも成長しているなんて思わなかった。あなたがこんなにも苦しんでいるなんて思わなかったの」

 ごめんなさい、と消えいりそうな声で猫は囁く。

「知ったら、大変なことをしてしまったと思って、ますます言えなくなっちゃって。だから、ごめんなさい」

 震えて、泣きながら。

「もう、いいです。もういいんです」

「猫?」

「契約を破棄します。あなたに味覚を返して、私が消滅したら、あなたはちゃんと取り戻せるはずですから」

「そんなの、今更ですよ」

 政はできるだけ攻めないように口にした。過去は取り戻せない。取り戻すことなんて出来ない。

 愚かな幼い子供の過ちも、親の否定も、妻の浮気も。

「聞いてもいいですか。あなたがなんなのか、呪いといいました。あなたはなんの呪いなんですが、うちの祖はそこまでのことをしたんですか」

「私は」

 金色の瞳が闇の中で瞬いた。

「忘れられた神の呪いです」

 なにが、ひどい、悪い冗談を聞いたように政はただ聞いていた。

「奉られることをなくした神たちが怒り、私を作ったんです。

 神は仏ではなく、祟る生き物です。彼らは自分たちを忘れて別の神に縋る人を憎んで、たまたま山にいた私を捕まえ、呪いにしたんです」

 嘆く声で告げられた真実に政は拳を握りしめた。

 時代の移り変わりは変えられない。人の思考も、心も、信仰も。けれど忘れられた者はただ忘れ去られてだけではない。

「私のもとがなんだったのか、もう忘れてしまいました。きっと怒り狂った神はいろんなものを捕まえて混ぜたんでしょうね。人や動物や……姿を失くし、己をなくした私は呪うしか出来ないものになった。

それを知った、あなたの先祖は、私を憑き物にして、浄めてくれた。神の呪いです。それを受け止めれば、それ相当に負担も、災いも強いでしょうに、私は……誰かを憎みたくない、呪いたくない、ただ生き物としての天寿を全うしたかったんです」

 生き物として、ただ誰かを愛し、必要とされ、子を育てる。

 だから十代先の子と夫婦になる契約はこの目の前にいる呪いを救うためだけのもの。

 祖が結局、どうしてそこまでしてこの呪いを救おうとしたかはわからないが、政には今更だが、少しだけわかる。神の呪いでこの土地がひどい被害を受けるとか、災いなんか関係なく、こんなにも不幸な存在がただだた消滅するなんてあんまりだ。

 闇から恐る恐る出てきた猫が、家の灯りに照らされる。顔をあげてはにかんだ。

「私、幼いあなたと出会ったとき、あなたがきらきらしていて、嬉しかった。味覚をくれて、嬉しかった。

 どうして私たち憑き物筋がなにかしらの欠落があるか知ってますか? それが呪いなんです。五感をなくして時間をなくし、永遠を生きることができる。

 だから、五感のどれかを宿主と共有して、得ることで、どんどん私たちは時間を知り、なくしたものを得て、進めていく。それがいずれは消滅に繋がるんです。私たち憑き物筋は宿主を得て、その人たちと得た時間を、心を元に消えていくんです。

私の望みが叶うと思った。あなたと夫婦になるんだと思って、だから家事を教えてもらって、料理も」

 十年と少し前に預けらたれた政と共に過ごした短くとも猫は好きになってくれて、ずっとそれだけよすがにいつかを待って過ごしていたのだ。

 人である自分は薄情にも忘れて、自分の人生を生きていたのに。

「私のこと消しますか」

「……消えたいんですか」

 猫が俯いて、首を横に振った。

「生きたい。生き物としての天寿を全うしたい」

 切実な、とてもまっすぐな望みだ。

「そして政さんを幸せにしたい」

「俺を」

 つい苦笑いが零れた。

「はい。だって、政さんはずっとずっと変わらない、まっすぐな人ですから……私のせいで不幸にしてしまった」

 猫のせいじゃないのに、そこにあるというだけで不幸にしてしまう。後悔と苦しみの声だ。

 政は力なく笑った。

「あなたのせいじゃない」

「けどっ」

「もっと言えばよかったんです。知らぬままで、誰も気が付いてくれないと嘆いて、自分から相手を知ろうとも、入りこもうとしなかった自分のせいです」

 ただ味覚がないというだけで、こじれるわけがない。

 母の気持ちも、

 妻の気持ちもわからないし、わかろうとしなかったのは自分だ。

「こんな俺を好きになってくれて、消えようとなんてしないでください」

「政さん」

「お願いですから、あなたを、あなたの願いを叶えるチャンスを俺にください」



「おはよーーって、いたーー」

 三太の元気な声がしたのに政がちらりと視線を向けると、庭から居間に上がり込んできた。

 時刻はまだ早朝。雀たちが鳴き、仕事や学業のある者たちもまだ家でくつろぐ時間帯だ。

 それでも政はすでに起きていた。社畜として培った経験のたまものだ。

 茶を飲んでいたところに三太が無遠慮にあがりこみ、横に座ってきた。

「心配をおかけしました。とりあえず、まだ一緒に過ごすということでまとめました」

「とりあえずなんだ?」

 三太が明るい顔をしているが、どうも昨日のこと気にしていたようだ。

「おはようございまーす。朝ご飯ですよーって、あ、三太くん、せつえさーん」

 猫が奥からお盆を片手に駆け寄ってきた。

 上には白飯、卵焼き、味噌汁。

 器用に尻尾で戸を閉めた猫がテーブルに並べるのに政も手伝った。

「あ、いいな。おいしそー」

「こらっ」

 手を伸ばす三太の手を猫が尻尾で叩いた。

「これは政さんの分っ。もう、仕方ないなぁ、三太くんには昨日の鯛飯、残ってるから食べる? 二人分あるから」

「え、いいのー。食べる?」

「……なぜ二人が同じものを食べるのに、俺はこれなんですか? 浮気ですか? すでに浮気とはいい根性をしてますね。さすが猫畜生め」

「はわーーー。いや、ちがいます、ちがいます。旦那さんにはあたたかいごはんを~」

「浮気するようでしたら去勢をしますよ、猫畜生」

「あーーー」

 猫が悲鳴をあげるのに政が真顔で言い寄るのを三太はきょとんとした顔で見ていた。

「え、浮気って、なに、二人してどういう関係なの?」

「宿主にはなりましたが夫婦になるかは別です。まずはお付き合いからです。なのでとりあえず、です。が、浮気をするような猫畜生とは一緒にやっていけません。あ、こちらのあたたかなごはんをどうぞ。鯛飯は俺に」

「ラッキー、いただきます。朝飯抜いてきたから、嬉しいやって。夫婦になることが猫ちゃんの希望じゃなかったけ? え、恋人なの?」

 差し出された食事を三太はありだかくいだだくのに政は猫が持ってきた鯛飯弁当の蓋をあけた。

 冷たくなっているが、それでも十分に味がしみこんでいて、ふんわりしている。

「なんか、恋人ってさ、すげー気が長いことするよね?」

「いいんです。こうして二人でいれば味がある。俺は……昔、ここで食べておいしいと思ったものを探したいので、まだあと数日はこちらにいるつもりですし、その期間できっちりと互いのいろいろを知ろうかと」

「うわぁ、真面目。猫ちゃんそれでいいのって。猫ちゃーん?」

「ふふ、ふふ、政さんは真面目でかっこいいですよ。ねぇもうこんなにもきっちり決めてくれるひとなんて素敵ですねぇ」

「のろけてるよ、この呪い」

 三太が呆れた顔をしてごはんをつつく。

 政の横に猫が腰掛けて同じ冷えた弁当を口に運ぶ。

 昆布で味付けしたさっぱりめのご飯に甘い鯛の味が口のなかいっぱいに広がった。

「おいしいっ」

「うまい」

 政と猫の歓びの声が重なった。

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