百合
のぶくさ
第1話
「わぁ、すっごく綺麗だね!」
花のような笑顔を見せる彼女は、そう言いながら窓の外に指を指す。私は隣に座る彼女につられるように、顔を上げて窓を覗く。するとそこには、どこまでも広がる海があった。夏の日差しをぎらぎらと照り返し、まるで宝石のように光輝いている。
見るからに暑い外の世界とは裏腹に、ここは随分と心地が良い。眺める景色はゆっくりと変化していく。
どうやらこの電車はトンネルを通り、山間を進むらしい。今になっても不思議であるが、どうして彼女が私の横にいるのだろうか。内気でぱっとしない私にとって、不相応なのは明白である。
移りゆく窓の外の景色に目を向けながら、私は事の発端となった1週間前を回想した。
それは夏休みが始まってすぐの事だった。たんまりと溜まっている宿題を片ずけようと机に向かった時、携帯に通知がきている事に気がついた。勉強を始めようとする時についつい携帯を確認してしまうのは、昔から治らない私の悪癖である。果たして携帯を確認すると、それは彼女からのメールだった。曰く、来週に遠出をして一泊二日で海へ行こうと。
私は積み上がった宿題の山の標高をほんの少し低くした後、返信の文章を考える。
限られた友人しか持たない地味な私にとって、彼女への返信には長い時間がかかってしまう。最近それなりに仲良くなったとはいえ、泊まりがけの遊びに誘うのが私でいいのだろうか。何かの間違えではないのか。そんな思考が頭の中でぐるぐると渦巻き、つい自虐的になる。しかし彼女は私に話しかけてくるようなお人好しであり、そんな人物が悪趣味なことは考えないだろうと思い直す。要らぬことを考え、心配してしまうから私は内向的なのだ。自覚はしているのだが、これまたどうにも改善できない。
文章を紡いでゆく。頭に浮かんだものを入力しては消しを繰り返し、推敲する。返信を考えているこの時間に、私は心地よい穏やかな高揚を感じていた。
流れる景色はその速度を徐々に落とし、遂に止まった。どうやら目的地に到着したようだ。彼女は跳ねるように電車を降り、伸びをした。かわいい。絶対に口には出せないが。
無人駅にしては随分と掃除の行き届いたホームである、と思った。周囲は青々と生い茂る森に囲まれ、いくらかの古民家と商店、郵便局があった。そこの住人が掃除でもしているのだろうか。
そんな想像をしていると、彼女から話しかけられる。
「田舎だね...。それに暑い」
頷く。ここは都心からだいたい電車で二時間ほどの場所で、二駅先にそこそこ大きな街があるとはいえ、々に田舎だ。さらに追い討ちとばかりに、線路は山の中にある古い河川の跡に沿って敷かれているため、その途中にある駅には熱が籠って気温がかなり高い。汗が吹き出る感覚に不快感を覚えて空を見上げると、自己主張の強い太陽は地球にエネルギーを必要以上に届けているようだった。
私たちはどうにもならない文句を垂れつつ、道を進んで行く。暑さから逃げるためか、それともこの先の時間への期待なのか、足取りは随分と軽かった。
トンネルを抜けると、視界が光で溢れた。目いっぱいに光が飛び込んで明順応したのだが、瞳が明かりに適応した後も光はその輝きを失わなかった。つい今まで見ていた繁る山の風景が、果てしなく広がってきらきらと光る海へと変わったのだ。言葉が出なかった。まるで、まったく別の世界へと来たかのような心持ちがした。
波打つ海は海岸線に湾を作り上げ、砂浜をざぁっと撫でる。海風に揺られる木々は私たちの背後を陣取り、さやさやと梢で心地の良い音をたてている。横に並ぶ彼女が口を開いた。
「外国人が初めて富士山を見た時の顔してるね...」
そうかもしれない。だがその例えは如何なものか。過去に見たことがある訳でもないだろうに。でも実際、私にとってこの光景はあまりに印象的だった。日本は四季が豊かであるとよく言われるものだが、都市部に住んでいるとそういった自然を感じることは少ない。見るとしても、せいぜいが公園や川程度だ。この感情を表すに言葉が足りないかもしれないが、きっとこれは感動なのだろう。眼前に広がる風景はとても綺麗だった。
ふと彼女の方を見ると、先の言葉とは裏腹に、押し黙って海を見ていた。彼女にも感じるものがあるのだろうか、いつもの利発的な様子とは異なり、どこか物憂げであった。私の視線に気づいた彼女は、少し照れたような笑みを浮かべながら、
「そろそろ行こっか!」
そう言って、砂浜へと続く少し急な階段へと歩き出す。吹き付ける風に海中の塩が混ざり込むこの土地では金属の腐食が早いらしく、握る手すりには相当な年季が入っていた。私の(決して重くはない)体重を支えられるほど強度はあったらしく、手が鉄臭くなってしまったくらいの被害で済み、無事に砂浜へと着いた。
百合 のぶくさ @novuxa
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