第9話 11月28日
~ある加害者のモノローグ・1~
世の中は腐っている。
少なくとも、僕はもうこの世界に微塵たりとも期待してはいない。
何度主張しても、何度抵抗しても……所詮は無価値だったんだ。
最初から、あの電車に乗った時から僕の命運は尽き果てていたのかもしれない。
……じゃあ、もしそうだとしたら"あの子"は悪魔だったのだろうか。あの子が、あの子さえ僕を指差さなければ僕は――
鏡に映る自分の顔を見る。酷い顔だ。顔立ちのことではなく、表情の方だけれど。
「……司」
この単語を呟く度に心が締め付けられる。結局昨日、司が電話に出ることはなかった。
メールも送ったが同じように、全く反応はなかった。何か、あったのだろうか。それともあたし、嫌われちゃったのかな……。
そんなことを考えている内に朝になっていた。当然寝不足とぐちゃぐちゃな心のせいで今のあたしの表情が出来てしまっている。
「……しっかりしなきゃ」
今日から待ちに待った学校だ。司が何で昨日来なかったか、直接本人に聞けば良いだけの話だ。
もし納得いかない理由だったら弄ってやればいい。とにかく、そんなに重く考えることじゃないんだ。
「……よしっ!」
あたしは気合いを入れて洗面所を後にした。
どれ程の時間が経っただろうか。手術中のランプが消え、医者が手術室から出て来た。
真実の両親に何か話しているようだったが、様子からするにどうやら手術は成功したらしかった。
「ほい。……手術、成功したみたいだな」
「サンキュ。ああ、良かった……」
晃が渡してくれた缶コーヒーのプルタブを開けながらぼーっと真実の両親と医者のやり取りを見る。
苦めのコーヒーが身体に染み渡っていく。ふと壁にかかっている時計を見るとすでに夜中の2時過ぎだった。
病院に入ってから関係者として、警察に簡単な取り調べを受けて――
「……そういえば、大内さんは?」
「警察に引き渡されたらしい。今も多分事情聴取、つーか取り調べ中だろうな」
「……そうか」
結局、犯人は大内さんだったのだ。
真実を刺した件は勿論のこと、中条の自転車に細工したのも彼女だ。そして俺を一ヶ月近く悩ませてきた、あの数々の嫌がらせの犯人も恐らく――
「スマン……」
「晃?」
晃はうなだれていた。そこにはいつも明るく俺を励ましてくれていた晃の面影はなかった。
「俺が、もっとちゃんと断っていれば……委員長は刺されずにすんだのに……!」
晃は苦しそうにそう呟いた。無理もない、というか当然の葛藤だった。
まして晃は責任感の強い方だ。余計に責任を感じてしまい、責めざるを得ないのだろう。
「別に晃のせいじゃねぇよ。つーか、むしろ晃は真実を助けたじゃんか」
あの時の大内さんは、きっと晃以外の呼びかけでは止まらなかっただろう。
むしろとどめを刺そうとしていた彼女を止められたのは、晃のおかげだったのだ。
「でも俺は――」
「でももへったくれもあるか。とにかく晃は真実を助けたし、どんな事情があろうとも悪いのは……大内さんだよ」
「司……」
人は色んな感情を押さえ付けて生きてるんだと思う。それは憎しみだったり、欲望だったり、悲しみだったり。
でもそれらの感情をそのまま出すことは許されないから、だから人は我慢や妥協をして生きている。
とても残酷なことだが、一時の感情に支配された者が向かうのは、破滅しかないんだ。
人々はそのことに無意識に気付いているからこそ、この社会は成り立っているのではないか。
もし、自身の感情を押さえ付けられなくなったとしたら、それは自己責任以外の何物でもないはずだから。
「だから晃は真実が目覚めたらいつもみたくアホなこと言って励ましてやれば良いんだよ」
「……サンキュ。アホは余計だけどな」
晃は苦笑いしながら俺の肩を叩いた。やっといつものコイツらしくなってきたな。
「さて、これからどうするか。司はどうする?」
「……俺はもう少し、出来れば真実が目覚めるまでここに居たい」
「そうか……。家族には?」
「そこの電話で弥生には事情を話してあるから、そっちは平気だ」
本当は携帯からかけようとしたのだが、電池が切れてしまっていた。どうやら晃のもだったらしく、仕方なく10円玉を数枚犠牲にして自宅にかけることにした。
「後は、委員長の家族が許してくれるかだな……」
晃の言葉に思わず不安げになってしまう。
大体この時間まで付き添いで居させてもらっていることですら、感謝しなければならないのにもう少しなんて許して頂けるのだろうか。
そんなことを考えている内に、真実の両親が俺たちに歩み寄ってきていた。果たして何を言われるのだろうか。
緊張している俺の手を真実の父親であろう男性が、がしっと握ってきた。
「えっ……?」
「娘を助けてくれて本当にありがとう!君が司君だね?話は電話で娘から聞いているよ。君もありがとう!」
「あっ、はい……」
続いて晃も熱い握手をさせられる。母親の方は少し離れて俺たちを見ていた。これが真実の両親……。
確か真実は一人暮らしをしていると言っていたが、何だかとても温和な印象を受けた。
「あ、あのっ!すいません、俺――」
俺がこのまま真実の看病をしたいと申し出ると、真実の父親は快く許可してくれた。
どうやら二人とも共働きらしく、また早朝には仕事に行かなければならないらしい。ウチも共働きなので、その大変さは何となく分かった。
母親は少し不安げな表情を浮かべてはいたが、父親に倣って俺にお辞儀をして帰って行った。
帰り際の「娘が電話で言っていた通りだなぁ、あはは!」という真実の父親の台詞が気になって仕方なかったが、とりあえず許可を頂けたことには素直に感謝しなければならないだろう。
「……結婚フラグ?」
「んなわけあるか!」
朝っぱら、というかむしろ夜中から寝ぼけたことを言う晃にツッコミを入れる。
「でも良いのか?本当に帰らなくて。弥生ちゃんも心配してるだろうに」
「弥生には連絡してあるし、大丈夫だよ。それに目覚めた時に……傍にいてやりたいんだ」
真実が刺されたのは自分のせいだと、そう晃は自身を責めた。でも本当に責任があるのは晃じゃない。
…………俺だ。
俺が自分だけの力で嫌がらせを解決していれば、そもそも真実に打ち明けなければ彼女を巻き込まずに済んでいたはずた。
そうすれば俺と真実は今ほど親しくなることもなく、晃とも親しくならなかった。それならば大内さんに襲われることはなかったはずだ。
「……よく分からんが、あんまり思い詰めんなよ。司がさっき俺を励ましてくれた通りなら、司も悪くねぇんだからさ」
晃は軽く俺の肩を叩いて立ち上がる。励ましたはずが逆に励まされてしまった。
……晃がいてくれて本当に良かった。
「ああ、サンキュ」
「よしっ、司君が出られない分、しっかりと闘ってこなければな!」
「闘う……?」
「球技大会に決まってんだろ、球技大会!サッカーを司無しで闘わなければならないのは辛いが仕方ない……」
「……すっかり忘れてたわ」
一体コイツのサッカーへの想いは何処から来るのだろう。呆れたのが半分、そのお気楽さに救われたのが半分といったところか。
「俺は必ず優勝カップを――」
ひとしきりサッカーと今回の球技大会へ対する熱を語り尽くした晃は、満足したのか帰って行った。
「……さて、と」
一息付いた後、俺は静かに病室に入る。
本当は付き添い用の部屋があってそこで寝なければならないらしい。
だから、気付かれないようにこっそりと忍び込む。深い暗闇の中、手探りでベッドに近付くと、眠っている真実がいた。
近くにあった椅子に腰掛けて深い溜息を付く。
「……これで、終わったのか」
長い一日だった。
色んな感情が入り混じり満身創痍だ。でも真実が死ななくて本当に良かった。
そして一ヶ月近く続いた嫌がらせの犯人も、ついに捕まった。
これでようやく、俺が望んでいた平穏な日常が戻って来る。そう考えると途端に睡魔が襲ってきた。
「ふぁ……戻んの、めんどくさいし良いか……」
そのまま椅子に座り込んで目を閉じる。明日の球技大会には参加できないが、明後日からはまた元通りの生活が待っている――
そんな希望に満ち溢れた日々を夢想しながら俺はゆっくりと意識を手放した。
「中条さんっ!」
「おお、中条さん久しぶり!もう大丈夫なのかよ!」
「今日のバレー、一応登録しといて正解だったぜ!やっぱ中条さんがいないと――」
あたしが教室に入った瞬間、クラスメイトが口々に話し掛けてくる。非常に有り難いことだが、それどころではない。
生返事をしながら教室を見渡すが司の姿は見当たらなかった。おかしい、いつもならとっくに居てもおかしくないはずなのに――
「あぶねぇ!ギリギリセーフだろ!?」
「あ……」
反対の扉から晃が滑り込んで来た。
クラスメイトに弄られながら自分の席に向かっていく。そうだ、晃なら司に何があったのか、知っているかもしれない。
そう思った瞬間、あたしは自然と晃に近付いていた。
「……おはよう、晃」
「おっ!復活したか中条っ!マジで待ってたぜ!」
あたしを見て満面の笑みで迎えてくれる晃。とても嬉しかったし、あたし達が親友だってことをより強く信じさせてくれる。
「昨日は悪かったな、急にお見舞いいけなくなっちまってさ」
「ううん、仕方ないよ。……それより司は?」
……自分に嫌気がさす。せっかくこうやって晃が心配してくれているのに、あたしの頭には司のことしかない。
晃がどうして昨日お見舞いに来れなかったのか、そんなことはどうでもいいからとにかく司に会いたい――
……間違ってるのは分かっている。でも止められない。この深くて真っ黒な感情があたしの心を蝕んでいくのを、止められない。
「あーっと……実はさ、昨日――」
「ほら!チャイムなってるぞ!さっさと席に着け!」
「わりぃ!また後で話すわ!」
「……うん」
タイミング悪く担任が教室に入って来て、晃から話を聞けなくなってしまった。
……一体晃は何を言おうとしていたのだろうか。ホームルームの時間が永遠のように感じられる。担任が何か言っているが全く耳に入って来ない。
「…………司」
一体どれくらい経っただろうか。やっとクラスが騒ぎ出すが今日が球技大会のせいで、すぐに晃は数人の友達と外へ出てしまった。
黒板の予定表を見ると次の休憩は昼休みあたしもバレーの選手として参加しなければならない。こうしている間にも司は――
「……?」
その時、あたしは違和感に気が付く。
教室を見渡すが姿は見えない。晃のようにもう移動してしまったのだろうか。
いや、確かにあたしが教室に着いた時には居なかったはずだ。
「ん?雪、どうしたの?早く着替えに行こうよ」
「あ……うん」
周りに促され仕方なく席を立つ。もしかしたら誰か知っているかもしれない。
けど、聞くのは怖い。もし事実だとしたら……あたしは平静を保てるだろうか。
「ね、ねぇ……聞いても良いかな?」
「何~?」
呑気な友達の声とは対照的にあたしの中の何かが警鐘を鳴らす。聞かない方が、いや聞いてはいけない。そんな声をあたしは無視する。
「い、委員長は……今日いる?」
「あれ、雪聞いてなかったの?ホームルームで休みだって言ってたじゃん」
「…………そっ……か」
……やはり聞くべきではなかった。
あたしの中でうごめいていた得体の知れない感情が、
あたしの心を蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで蝕んで――
「――きっ!雪っ!?大丈夫!?雪っ!」
「…………あれ、あたし?」
気が付くとあたしは友達に支えられて何とか立っていた。一瞬だが気を失ってしまったらしい。
「急にふらついて倒れそうになるんだもん!大丈夫!?」
「……うん、大丈夫。ちょっと貧血でクラッときただけだから。ありがと」
「まだ病み上がりなんだから辛かったらすぐに言ってね」
「……ありがとう」
お礼を言ってまた廊下を歩き出す。友達が何か言っているが全く耳に入って来ない。担任の時と同じだ。
あたしの頭の中は最悪の可能性で一杯だった。司がいない、そして委員長もいない。
どう考えてもあたしの思い込みだ。そう思っても決して疑念は消えない。それどころか否定しようとすればするほど、それは強くなっていく。
司と……委員長は一緒に……。
「さあ向かいますよ、体育館に!いつものリベロ、お願いしますよ中条さん!」
「……任せて」
あたしはちゃんと笑えているだろうか。心の中はいつまでも疑念が渦巻いていた。
「雪っ!」
目の前に迫るボールを両腕で弾く。強すぎず弱すぎず、ちょうど良い加減で味方へ――
「……っ!」
「くっ!」
速攻のスパイクが相手のコートに突き刺さる。
瞬間、クラスメイトの歓声が聞こえていた。スコアを見ると25対16。どうやら準決勝に進出したようだった。
「よっしゃ!」
「いやぁ勝った勝った!」
チームメイトも口々に喜びを表している。スコア的には圧勝だが中々手強い相手だっただけに、勝った喜びも一入のようだ。
「雪っ、お疲れ様!」
「恵(めぐみ)……ナイススパイク」
このチームのエースでありあたしと同じ女子バレー部の、林恵(はやしめぐみ)。
あたしの友達であり、部活では良いコンビでもある。あたしが上げて恵が決める。これがウチのバレー部の基本形とまで言われたりする。
「雪こそナイストス&カバー。私たち、結婚できるわね」
「はいはい」
「雪のいけず~」
恵はいつものようにあたしに抱き着きながらふざける。確かにあたし達は不思議と息がピッタリだと思う。
それは自他共に認める程だし、何となく気が合うのかもしれない。小さめのあたしに比べて恵は175cmあり、ショートボブが良く似合う活発な奴だ。
だから冗談でよくカップルとか言われたりするのだが、正直恥ずかしいし勘弁して欲しい。
恵はむしろネタにして毎回あたしに抱き着いてくるけれど。
「……ゴメンね、恵」
「ん?」
「トス……結構乱れた」
恵だけに聞こえるよう、小さめな声で謝罪する。
周りは気付いていないかもしれないけど、今日のあたしのトスやレシーブは少し……いや、かなり乱れていた。それに恵が何とか合わせて打ってくれたのだ。
「……別に気にしてないけど、大丈夫?」
「……何とか、ね」
「病み上がりもあるだろうけど……何かあった?」
恵の言葉にドキッとしてしまう。そう、あたしの心は今かなり乱れている。
理由は勿論、司と委員長のこと。それがバレーにもはっきりと出てしまっていたのだ。恵はそれを何となく感じ取ったのだろう。
「……ま、次は昼休み挟むから一回落ち着きなよ」
「ありがと……」
「切り替えてきな!私の嫁だろ?」
恵の言葉に苦笑いしながらも少しだけ、救われたような気持ちになる。一回頭を冷やそう、そう思ってあたしは屋上へ向かった。司が一番好きな場所だから。
屋上には涼しい風が吹いていて心地好かった。球技大会ということもあり、屋上には殆ど人影は見えない――
「おっす、中条!ちょうど呼ぼうと思ってたんだよ!ほい、隣座れよ」
「晃……」
振り返るとベンチに晃が座っていた。ゼッケンを着たままなのがまた晃らしくて笑える。
「晃、ゼッケンつけたままよ」
「あっ、やべっ!まあ後で返せば良いか」
「相変わらずね……」
促されたまま晃の隣に座る。こうやって話すのも何だか久しぶりな気がして、何だか懐かしかった。
「どうだ女子バレーは?」
「次が準決勝よ。そっちは?」
「ナイス!ウチは次準々決勝。やっぱ司がいないと大幅に戦力ダウンだわ」
"司"……その言葉に思わず反応してしまう。そうだ、晃は知っている。何故司が今日いないのか、そして何故昨日来なかったのかを。
「あのさ、晃――」
「司のことだろ、ちゃんと話すから安心しろって。その為に呼ぶつもりだったんだからさ」
「……ありがと、晃」
「中条だって司のこと心配だろ。別にお礼言うことじゃないって」
笑顔でそう答える晃。これだから晃はモテるんだろうな、なんて思う。晃は気が利くし、すぐにこちらの気持ちを汲み取ってくれる。それに比べて司は――
「……中条?」
「えっ!?何っ?」
「……もしかして今、司のこと考えてた?」
「っ!?」
思わず声も出ない。一気に顔が赤くなるのが分かる。そんなあたしの様子を見て、晃はにやけ始める。
「中条にしても司にしても、分かりやすいなぁ」
「う、うるさいっ!」
「あべしっ!」
おちょくろうとする晃の鳩尾に鋭い蹴りを入れる。晃はしばらく悶絶した後、またベンチに座り直した。
……そんなに分かりやすいかな、あたし。
「な、何も本気で蹴ることはないだろ……」
「……何か言った?」
「いえ、何にもございません!」
あたしの殺気にすぐにビシッとなる晃。やっぱり晃と話していると飽きない。
こう言うと偉そうに聞こえるが、この明るさがあたしが彼を"親友"と認めている理由の一つだったりする。とにかく晃といると元気になれるのだ。
……やはりどう考えても晃の方が良い男なのだが、あたしは何故か……うん、止めよう。また晃にからかわれてしまう。
「で、司のことだよな」
「うん……」
「ちょっと長くなるけど、良いか?」
「構わないわ、全部……教えて」
晃がゆっくりと口を開く。果たしてあたしの疑念はただの杞憂だったのか、それとも――
「……つか…さ……君?」
「んっ……ま、真実?」
結局、朝まで病室で寝てしまい、看護婦のおばさんにこっぴどく怒られてしまった。
その後も病室で真実の傍にいたのだが、いつの間にかまた眠ってしまっていたようだ。
微かな声と手の温もりを感じて目を覚ますと真実は目を開けて、俺の手を握っていた。つまり――
「意識が戻った……!」
「……司、君」
「ああ、俺だよ!本当に良かった……!」
思わず涙が出そうになる。目の前で刺された時は、血が溢れ出した時はもうダメかと思った。
でも、こうして真実は今生きている。
「……随分心配かけたみたいね、ごめんなさい」
「真実が謝ることじゃないよ。ちょっと待ってて、今お医者さんを――」
離そうとした手の平をギュッと握られる。真実は不安げな顔をしていた。
「……もう少しだけ、こうしていて、お願い」
「……分かった」
俺は真実の手をゆっくりと握り返す。とても小さくて普段の彼女からは想像しがたい程、頼りなかった。
「刺された時、力が抜けていくのが分かったの……」
「ああ……」
「身体がどんどん冷たくなって……怖かった。これが死ぬってことなんだって……」
「真実……」
「でも……司がいてくれた……この手を握って、私に呼び掛けてくれた」
「俺は何も――」
「してくれたよ……だからもう一度、確かめさせて。司は……ここにいるよね?」
「ああ……俺は居るよ。ここに、真実の傍に居るよ」
真実の言葉に応えるように手を強く握る。彼女は弱々しいながらも微笑んだ後、俺の手をそっと離した。
「すぐに戻ってくるからな。ちょっと待っててくれ」
「うん……待ってる」
こんな状況なのに真実の微笑にドキドキしてしまう自分がいた。とにかく真実が目を覚ましてくれた。
これで、本当に全部終わったんだ。俺たちは悪意に打ち勝つことが出来たんだ……。
廊下に出て時計を見るとちょうど12時だった。晃は今頃サッカーに燃えているのだろうか――
「……あ」
ふと気付く。昨日からのドタバタですっかり忘れていたが、昨日は中条の退院予定日だったはず。慌てて携帯を取り出すが――
「電池切れなの、忘れてた……」
もしかしたら中条から連絡が来ているかもしれない。
昨日退院したなら今日、学校に来ているだろうが、晃は上手く説明してくれただろうか。いずれにしろ、申し訳ない気持ちになる。と同時に――
『よくもすっぽかしてくれたわね、司……。幻のカレーパン、買ってきなさい!出来なきゃ……ククク……それもまたよし、だわ』
「……ありそう、つーかそれしかねぇよ」
意地悪い顔をしながら近付いてくる中条が嫌でも脳裏に浮かんで来る。
そしてそんな状況を懐かしむ、というかむしろ多少望んでいる自分がいるのに気が付いた。
そう、やっと中条にも会えるんだ。
「あーあ、怖いからカレーパン、用意しておくかな」
自然とテンションが上がっているのに気が付く。別に焦らなくていいじゃないか。
時間はたくさんある。もう俺たちを苦しめる脅威は去ったのだから。
「――そういうわけで、委員長は病院に運ばれて、司は傍に居る感じだ」
晃は昨日の出来事を順序よく説明してくれた。おかげであたしの中に巣くっていた疑念は大体解消された。
確かにあたしの勘はある意味当たっていたが、それは司と委員長が一緒に何処かへ、とかではなく司の責任感から来るものだったから。
委員長の両親に司が信頼されている話は若干複雑だったが、隠さず話してくれた晃には感謝しなくてはならない。
「……ありがとう、本当に助かったわ」
「おや、毒舌の中条さんに褒められてしまった!」
「本当に感謝してるの、ちゃかさないでよ」
「まあ良いってことよ……それより――」
晃は急に顔を近付けて来る。思わず後ずさるがその分だけ晃が詰めて来るので結局かなり近い距離に顔がある。
「な、なによ」
「行かなくて良いのか、司んとこ」
晃の言葉にドキッとする。朴念仁の司とは対照的に晃の勘は鋭い。というか鋭過ぎる。
「べ、別にあたしは……」
「気になるから何処か上の空だったんだろ?」
「べ、別に上の空なんかじゃ……!」
「んー?」
ニヤニヤと笑う晃の鳩尾にまた一発お見舞いする。
呻き声を出しながらも晃は相変わらずニヤニヤしていた。いつも弄っているから反撃されているのかもしれない。
気に喰わなかったがもうばれてるのはあたしでも分かる。今更、しらを切っても無駄だろうし。
「……気になる」
「いてて……え?」
コイツ、殴りたい……!
「気になるって言ってんの!」
顔を恐らくは先程以上に真っ赤にしてあたしは叫んだ。同時に心の中のもやもやしたものが晴れていく気がする。
「……これがツンデレか」
「っ!」
「や、止めよう!ノーモア鳩尾!」
「じゃあ黙ってろ……!」
「は、はいっ!」
敬礼する晃はほって置いて、ため息をつきながら空を眺める。澄み渡るような快晴が広がっていた。あたしの心も決まった。司に、会いに行こう――
「さ、もう午後の試合始まるし、戻ろうぜ」
「分かってるわよ……ありがと」
あたしは、あたしはやっぱり司のことが好きだ。だから会いに行くんだ――
気付けば病室に夕日が差し込み始めていた。長く話しすぎてしまったようだ。
「なるほど……じゃあ犯人は大内さんだったのね……」
「ああ、中条の自転車に細工したことも白状してたし……多分間違いないと思う」
刺された箇所がそこまで深くなかったのが不幸中の幸いだったのか、真実は目覚めてからすぐに話せる状態まで回復していた。
「そう。それじゃ司君への嫌がらせも、彼女が……」
「動機は前に真実が推理した通り、俺じゃなくて晃が目的だった」
それでも本来ならば安静にしてなければならないのだが、真実の強い希望により俺との会話が許可された。
と、言ってもたまに巡回に来るおばさんの刺すような視線に耐えなければならないのだが。
「小坂君……中条さんではなかったのね。大内さんは警察に捕まったって言ってたけど……」
「ああ、今日は球技大会だし、まだ学校も発表してないみたいだな」
「大内さん……」
真実は夕日を見つめて呟いた。確か同じクラス委員長同士だったんだっけ。いきなり聞かされるとショックだよな。
「真実……」
「……とにかく!これで司君の嫌がらせの件も解決ね」
「ああ、やっと普通の生活に戻れるよ……真実のおかげだ、本当にありがとう」
「ううん、私なんてこんなザマだし……結局犯人に刺されて司君に迷惑かけちゃっただけだわ」
真実は申し訳なさそうに俯く。何処まで責任感が強いんだろうか。
「いや、真実がいなかったら決して真相には辿り着けなかったよ……これでも感謝してるんだぜ?」
「……良かった、司君の役に立てて」
満面の笑みを浮かべる真実は、かなり可愛かった。思わず見とれそうになる程だ。
「ま、明日からは早起きもしなくて済むし、真実には本当に感謝だよ」
「……じゃあ、ご褒美貰っても良い?」
真実はまた俯いていて、表情はよく分からないがご褒美の一つや二つ、あげても何の問題もないだろう。
「何なりとお嬢様。こないだパフェですか?それともまた買い物に――」
「キス……しなさい」
病室に静寂が訪れる。
突然のことに上手く呼吸が出来なくなる。今彼女は何て言った?
俺の聞き間違いなのだろうか。いや、確かに彼女は――
「キス……してよ」
「あ……」
もう一度、今度はねだるように囁かれる。
聞き間違いでも勘違いでもない。
彼女は、辻本真実は俺に、藤塚司にキスして欲しいんだ。
その事実が俺の鼓動を急速に早まらせる。外に聞こえるんじゃないかと思うくらい、鼓動が早まるのが分かる。
よく見ると顔をこちらに向けた真実の頬は赤く染まっていた。
「…………」
「……真実」
名前を呼ばれて真実はゆっくりと目を閉じる。
流石に俺もこれが合図だということに気が付いた。汗ばんだ手で真実の肩を掴み顔を近付けていく――
『か、感謝してるの!!こんなあたしを受け入れてくれてすっごく嬉しかったの!!』
『……今日は、ありがと。司の言葉、嬉しかったよ』
『……来てくれて、ありがと』
『う、うん。でも嬉しいよ……』
「……っ」
何故だろう、何故今中条とのことを思い出すのだろう。
俺にとって中条は大切な親友で、それ以上でも以下でもないはずだ。
でも真実は、俺は真実のことが女の子として好きなんじゃないのか。
『ま、別に強制はしないけどよ。決めるなら早くした方が良いぜ?中条も帰ってくることだしよ』
……何だよ、何なんだよ。
どうしてこのタイミングで晃の言葉が思い浮かぶんだよ。
「司……君……?」
「あ、ああ……」
気が付けば真実は不安げな目で俺を見つめていた。そりゃそうだ、俺が躊躇してるんだから。
……俺は、俺は彼女を安心させる為にここにいるんじゃないのか。だから、だからこれは――
「んっ……」
当然のことなんだ。唇が触れ合った瞬間、ドアの外から物音がして――
「んっ!?」
振り向く間もなく真実は俺を求めるようにキスを続ける。
女の子特有の、甘い香りが完全に俺を支配していた。何も考えられない。一瞬なのか永遠なのか。
決して短いとは言えない時間の後、俺たちはやっと唇を離した。
振り返るが扉は閉められたままで、看護婦に見られた……訳でもないようだった。
「キス……しちゃったね」
「……ああ」
真実はまだ頬を赤く染めてぽーっとしている。恐らくは俺もだろうが。
キス一つでこんなにもドキドキするとは思わなかった。どうやらそれは真実も同じようで、俺たちは中々目を合わせられなかった。
時計を見るともう良い時間だったので、とりあえず今日は帰ることにする。
「つ、司君っ!」
「ん?」
扉に手をかけると真実が呼び掛けてきた。振り向くと今だに顔を真っ赤にしながらも俺をしっかりと見つめている。
「わ、私……ああいうこと初めてだったけど……後悔してないからっ!」
若干目を震えながらたどたどしく告げる真実は今まで見ていたどんな彼女よりも……可愛かった。
「……俺も後悔してないよ。また、お見舞い行くからさ」
「う、うん。今日はありがとう……」
「じゃあな、ゆっくり休めよ」
手を振りながら扉を閉める。
……こういうのがギャップなのだろうか。だとしたらおそるべし、辻本真実。
「ん?」
真実の病室の前に何かが転がっているのに気が付いて拾う。
「……栄養ドリンク?」
未開封の栄養ドリンクが転がっていた。また冷たいのは買って間もないからなのかもしれない。
それは以前俺がテスト前に徹夜した時に愛用していたメーカーの物だ。あの時は中条と晃に散々弄られたっけ。
そして、その近くに袋も転がっていて、中にはゼリーなどが入っていた。さっき外でした物音はこれだったのかもしれない。
しかし誰が、というか落としたのに何故拾わなかったのだろうか。
「……とりあえず落とし物として届けるか」
何かが腑に落ちないが仕方なく俺は受付に向かった。
夜の街をがむしゃらに走る。
行き先なんてない、ただあの病室から一歩でも離れられるなら、何処でも良かった。
「はぁっ……はぁっ……!」
頭の中からあのシーンがこびりついて離れない。司と委員長が――
「はぁっ……はぁっ……!」
自分の息さえ耳障りだ。あのシーンが頭から離れない。
あたしの中の何かが完全に壊れていくような気がする――
「あっ!?」
足がもつれてしまい派手にこける。
流石に決勝戦までやった後の全力疾走に、身体は中々ついて来てくれなかった。
両足から血が出てるのを感じる。熱くて、痛い。
「……っく、ひっく」
目頭が熱くなるのを感じる。
止めようと思った時にはもう遅かった。心が決壊して歯止めが聞かなくなる。
「……っく!」
声は出なかった。震えながらひたすら涙を流す。何故涙が出るんだろう。
あたしは司が……あのシーンが、司と委員長が――
「うぅっ!」
駄目だ、叫んじゃ駄目だ。泣き叫んだら、きっともう止まらなくなる。
そんなの駄目だ。
今のあたしに出来ることは歯を食いしばって震えながら泣くことだけだから。
心が軋む、認めたくない。見たくなかった、見なければよかった。
負の感情がぐるぐるとあたしの心に溜まっていく。××した瞬間、あの女の目は確かにあたしを見ていた。
あたしに、見せ付けていた。司は……司はあの女のことが――
「うぅっ!!」
悔しい、辛い、嫌だ、悲しい、死にたい――色んな感情があたしを支配した。
しばらくそうやって泣いて、ようやくあたしは立ち上がることが出来た。
頭はクラクラするし身体は思ったように言うことを聞かない。
ふとゆっくりと空を見上げると月があたしを照らしていた。周りには誰もいない、暗い一本道にあたしだけ取り残されているようで、ようやくあたしは悟った。
元から分かっていたことだったはずだ。あの時裏切られた瞬間、あたしは散々思い知ったはずなんだ。
なのに司が優しくするから、あたしは勘違いしちゃったんだ。
そうだよ、あたしは――
「あたしは…………やっぱり、独りなんだ」
その言葉は誰にも応えられず、闇に消えていった。
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