第22話 噴火

「ふぁふ……」


 よく晴れた朝、着替えを済ませたコメットは、あくびをしながら居間へと下りる。朝の冷気に負けないよう、ブラウスの上から杉綾織ヘリングボーンのショールを巻きつけている。まだブラシで梳いていないために髪は膨らんでいて、前髪があちらこちらへと跳ねていた。

 そんな寝起きのコメットに、サダルメリクが「おはよう」と声をかけた。今日は土曜日で、サダルメリクも休日だった。いつもよりのんびりと朝食を摂っている。


「コメット。君に手紙が届いてたよ」


 サダルメリクが差しだしたのは、夜明けの薄昏い紺色の封筒を、朝日の華やかな黄金色の封蝋で閉じた、一通の手紙。

 眠気眼ねむけまなこを柔くこすって、差出人に目を通す。


「……ミラだ!」

 

 コメットは弾かれたように駆け寄って、サダルメリクから手紙を受け取った。居間の大きな張り出し窓の額縁に、すたんっと腰かけ、手紙を開ける。

 ミラは、ネブラの兄弟子にあたるケートスという魔法使いの弟子で、コメットにとっては唯一の見習い友達だ。

 コメットとミラの親交は文通によって続いており、すっかりペンパルだ。花菖蒲の葉やリボンに文字を綴った、魔法使い流の手紙——葉書はがきである——を送りあっていた。

 コメットが送ったのを最後に、一週間ほど便りが途絶えていたのだが、まさか葉書ではなく本当の手紙で届くなんて。

 ミラから届いた手紙を大事に開けながら、コメットは少し胸が躍った。

 瑠璃色の封筒には、透明の蝋で、ヒトデの印璽が押されている。中で折り重なっていた三枚の便箋は、ぬるい象牙色。罫線に銀箔が使われているのが洒脱だった。

 こういうミラのセンスの一つ一つが、コメットの心をくすぐってくる。

 そんな麗しのミラからの便りは、爪先立ちをするバレリーナのような筆致の『こんばんはコメット』という言葉から始まる。


 こんばんはコメット。月のない柔らかな夜に、私はこの手紙を書いています。そちらの夜はいかがですか?

 先日コメットが尋ねてくれたことについて、葉書で伝えるには到底叶わず、このたびはリボンや百合の葉ではなく、紙を手に取りました。文字をたくさん書くことはあまり得意ではありませんが、さよならの挨拶が遠いのはいいですね。

 ちなみに、この便箋は、私の大好きな文房具屋さんで買ったものです。コメットに宛てるのになにかよいものはないかしらと探していたとき、銀箔が踊っていたところを見つけたのです。元気なところがコメットによく似ていますね。私の細い字でも似合うでしょうか。

 さて。コメットが尋ねてくれた、魔法の勉強についてですが、最近の私はの練習をしています。ケートス先生が言うには、私の中にある言葉から魔法を削ぎ落して、言葉本来の意味を意識するのが目的なんだとか。

 その一環として、実は、私もスマイルフラワーとはよくお話をしています。ただ、コメットのように笑わせたり怒らせたりするのではなく、じっと黙っていてもらわなければなりません。

 踊ったり歌ったりしてくれるほうが私は嬉しいのですが、愛想のない顔の花を見たケートス先生は満足げに頷きます。まったく不思議な勉強です。

 私のおしゃべりが上手になったら、次に会ったとき、私が貴女の名を呼ぶことを許してくれますか。リボンや便箋には到底書き足りないような私の話を、貴女は聞いてくれますか。

 おしゃべり上手な貴女の離れた友人。

 梟の声を探して耳を澄ませるミラより。


「……ミラもがんばってるんだね」


 音に、声に出してしまえば、それが一から十まで魔法になってしまうミラは、師であるケートスの教えに従い、普段は寡黙を貫いている。

 ミラの独特の雰囲気も相俟あいまって、その寡黙は、まるで深淵を覗きこむかのように、目見まみえる者に未知の気配を感じ取らせた。なにを考えているかわからない、というのはネブラの言葉だ。

 コメットはミステリアスな美少女にきゅんきゅんしているのだが、しかし、手紙という音のない世界において、ミラは極めて雄弁で、その浮世離れした微笑みの下に眠る彼女だけの神秘を、余すことなく伝えてくれた。

 これを書いていたときのミラの夜は、冴え冴えとした光のない、濃紺の絵の具が溶けだしたような闇夜で、オカリナのような鳴き声が聞こえるのを待ちながら、コメットに手紙を書いてくれたのかもしれない。


「いいことが書いてあったみたいだね」サダルメリクが微笑ましそうに言う。「コメット、顔が緩んでるよ」

「えへ、はい。いつもよりたくさん書いてくれてました。ミラも、スマイルフラワーを使って、魔法をコントロールする練習をしてるみたいです」

「ああ、なるほど。コメットとは逆の使いかただね。ケートスもよく考えたものだ」


 コメットの場合は正しく魔法を使ったことの証左として、ミラの場合は魔法を使わなかったことの証左として、スマイルフラワーを用いている。

 コメットは再び便箋へと視線を落とし、手紙の最末尾に目を通す。


『追伸。さんざめく雨粒をたっぷりと抱えこんで、いつ私たちに降らせてやろうかと企んでいる、瞳が燻るような重たい雲が好きです』


 ミラは曇り空が好きなのだと、コメットは気づいていた。文脈に関係なく、その日の雲の様子を、よく手紙に綴っているためだ。ミラは万の言葉を用いて曇り空の魅力を語る。

 コメットは窓から空を見上げた。生憎と快晴だけれど、ミラの住む場所でも、今日は晴れているのだろうか。

 なんと返事をしたものか、とつおいつ考えて、コメットは自分の好きな天気を返すことに決める。ミラが雨の話をしてくれたから、その地続き——になるように。


『僕はたくさん雨が降ったあとにかかる大きな虹が好きです。いくつか重なってたらもっと好き。それだけの数の天然のプリズムが、大気に散らばってるなんて、本当に驚きです。一粒ずつ集めたものを僕の部屋に飾って、毎日虹を眺めたいです』


 なにを返すのか決めれば、早く書きたくなった。

 今度は自分も便箋に書こう。今日の午後にでも、ミラに宛てるのにぴったりの便箋と封筒を、商店街で探そう。

 コメットは手紙を封筒に戻し、居間のテーブルに置いた。

 そおっと調理場のほうを覗いてみる。ネブラはいない。


「あの、大先生、ネブラは?」

「ん。朝食を作ったあと、買い出しに行ったよ」

「こんな朝早くに?」

「今晩、ケートスとライラが家に来るんだよね。一緒に飲もうって話になって。そのための準備をしてくれてるんだよ。コメットのぶんのジュースも頼んであるんだけど、チェリーエードでよかった? 最近ハマってるって言ってたよね」

「ありがとうございます。大丈夫です」

「よかった。ケートスとライラもコメットに会いたがってたから、コメットも夜の予定は開けておいてね」


 そもそもコメットの予定が夜に詰まることはない。

 今日の予定も、昼すぎからギロに勉強を教わって、そのあとはネブラから魔法を教わる。隙間時間でミラへ手紙の返事を書くつもりだ。

 コメットの席のテーブルには、ネブラが用意したであろう朝食が置かれている。皿の上に手を翳すと、できたてのように温かい。保温魔法がかけられているのだとすぐにわかった。


「コメットも早くお食べ。チーズオムレツが絶品だよ」


 ネブラとは、まだ仲直りできていない。






 昼すぎ、ギロがコメットを訪ねてくる。

 ギロがコメットに勉強を教えているあいだに、楽室でサダルメリクがネブラに魔法を教える。そのため、居間にはコメットとギロの二人だけだった。

 今日は歴史の授業で、ギロはコメットに古い教科書を用意していた。歴史小説では学びきれない歴史上の人物はたくさんいて、その補完をおこなうためだ。


「今日はリリー・プランタジネットについてだ。スターゲイザー・リリーの異名で知られる。プランタジネット家は伯爵家だけど、教科書に名を遺すようなひとが二人もいるんだ」

「リリー・プランタジネットって名前を見るの二回目なんだけど」

「お、よく覚えてる」ギロは軽く褒めた。「前に勉強したのは一世のほうだな。歴史小説にも出てきたろ。病院に多額の寄付をして医療に貢献したお方で、またの名をマドンナ・リリー。いまから勉強するのはスターゲイザー・リリーと呼ばれるリリー二世のほう。異名で覚えると混乱しなくていいぞ」


 コメットは『純白の貴婦人マドンナ・リリー』を思い出す。貴族令嬢でありながら、生涯を通して慈善活動に勤しんだ、聖母の百合マドンナ・リリーと呼ばれる女性だ。

 彼女と同じ名を持つ、星を観つめる百合スターゲイザー・リリー

 ただ、ギロの教科書に載る彼女の肖像画は、深淵のような暗い色の瞳が冷然として見え、どこか恐ろしい雰囲気を纏っていた。青白い顔に、血が渇いたような色のドレス、笑みのない口元。

 コメットの目には、あえておぞましく描かれたように見えた。


「……怖いひと」

「実際とても怖いひとで、その恐ろしさで歴史に残ってる。魔法使いに憧れて、悲惨な実験を繰り返し、何十人もの犠牲者が出た」

「魔法使いに憧れて、実験?」


 不穏な単語を耳にして、コメットは眉を顰める。

 瞬かせた瞳は不安げに揺れていた。

 小さな胸の底に、ぞっとするような寒気があった。


「魔法使いになるには55mBマジベルの魔力が必要だろ。このひとは、足りない魔力量を補おうとしたんだ。人を殺して、その血を浴びることで、魔力を増やそうとしたりだとか。実際には、そんなことをして魔力は増えないって明らかになってるんだけど……当時はそんなこと知りようがないしな。スターゲイザー・リリーが殺した人間以外にも攫われたひとはいて、彼らは行方不明のまま、その死体もいまだに見つかってない。歴史上最も残虐な事件の一つだよ」

「どうしてそんな酷いこと……55mBマジベルになるまで待てなかったのかな」


 魔力量は、訓練や年齢とともに少しずつ増えてゆく。

 魔法使いと一緒に生活していることもあり、コメットの魔力量も、この半年ほどで5mBマジベル増えた。

 困惑するコメットを見て、ギロは少し難しい顔をする。


「一応聞くけど、コメットってさ、人間の持つ平均的な魔力量って知ってる?」

「んー……知らないかも」

「だいたい36mBマジベルくらい」

「嘘っ、そんなに少ないの!?」

「ちなみに、俺が最後に測定したときは32mBマジベルだったぞ」

「エーッッ!?」


 コメットはギョッとした。

 魔法使いに弟子入りする前のコメットでも、72mBマジベルはあった。

 ギロの魔力量は、その半分もない。


「毎年、身体検査のときに学校で測定するけど、どんなに高い数値のやつでも43mBマジベルが最高だったかな。まあ、もしかしたらそいつは、大人になったら魔法使いになれるのかもしれないけど、そんな簡単に数値は上がらないからなあ」

「そ、そうなの?」

「うん。でも、それが普通だよ。人間は最低21mBマジベルの魔力は必ず保有していて、 30mBマジベルより低い数値だと魔力欠乏症になるけど、一般的には50 mBマジベル以上あるやつのほうが少ない」ギロは呆れる。「お前、魔法使いに囲まれてるから、こういうことも知らないよな」


 これまでコメットはたくさんの魔法使いと出会ってきた。

 しかし、世界的に見ても、魔法を使える者は珍しく、生涯を通して55mBマジベルに到達しない人間がほとんどだ。

 十代にして魔法を使えているコメットやネブラは、生まれつき魔力量に恵まれた側の人間だった。ケートスやライラのように、魔法を自分の仕事に活かせている者だって稀で、近衛星団の面々に至っては上澄みも上澄みだ。大魔法使いトリスメギストスなど、雲の上のお方と言える。


「スターゲイザー・リリーの魔力量は54mBマジベルだったと言われてる。彼女にだって魔法使いとしての将来性はあったはずだった。でも、不運なことに、彼女は魔力アレルギーだったんだ」

「魔力アレルギー……聞いたことある。魔力が苦手ってことだよね」

「そう。魔力に敏感で、魔力を浴びるとアナフィラキシーが起こる。簡単に言うと体の不調だけど、それが原因で死ぬこともあるらしいよ。いまは魔力非含有マジフリーのものだって少なくはないけど、当時の状況だと、食べられないもの、触れないもの、聞けないもの、近づけないもの、いっぱいあったんじゃないかな」


 魔力と魔法のありふれたこの世界で、それらにまったく触れずに生活することは難しい。そのため、魔力アレルギーのある者は、生活の隅々にまで制限がある。


「彼女の場合、自分の魔力にも体が反応するくらいだったらしくて、魔力が増えることのないように、薬で体内の魔力を抑えたり、魔力絶縁物質アダーストーンまみれの部屋で生活したりしてたんだってさ。そういう体質もあって、彼女が生きているあいだに魔法使いになれる確率は、万に一つもなかった」


 それでも彼女は夢を見た。

 魔法使いたる夢を。

 魔力量を増やすため、あるいは魔力アレルギーを治すため、果ては魔力がなくても魔法を使えるようになるため。自分の夢のために、非道な人体実験を繰り返し、多くの犠牲による試験を繰り返した。


「天文学者としての一面もあった彼女は、個人的な天文台も建てている。そこが実験施設だとは誰も知らなかった。彼女の奇怪な行動に、周囲のひとも目をつけていたみたいだけど、プランタジネット家の名誉のため、深く調べることはしなかった。でも、いずれ彼女の犯したことが明るみになる」


 魔力にまつわる彼女の実験と、そのグロテスクな惨状は、瞬く間に帝国中に広まった。偉大なるリリー・プランタジネットの名を授かったはずの彼女は、貴族としての酌量すら許されず、殺人罪で絞首刑を言い渡される。

 そんな彼女の遺した最期の言葉は、


「——

「…………」

「その当時の実験施設は禁足地になってる。おかしな実験を繰り返したせいで、魔力の流れがよくないふうに溜まってて、人が近づいたら危ないんだってさ。去年のいつだったか、爆発事故も起きてたよ。いまでも封鎖されてるから、詳しい原因もわかってないみたいだけど……呪いのような場所だよな」


 死ぬまで魔法使いになることを夢見た女性。

 星を観つめる百合スターゲイザー・リリー


「なんか、やだ、怖い」


 そうこぼしたコメットの顔色が悪いのを見て、ギロは「まあ、聞いてて楽しい話じゃないよな」と気遣った。そして、壁の時計を一瞥し、教科書を閉じる


「ちょっと休憩するか」

「……別の単元の勉強ならできるよ?」

「じゅうぶん進んでるからいいんだ。歴史の勉強って、いいことも悪いことも覚えなきゃいけないから、ちょっとしんどいよな」ギロは安心させるように笑いかける。「おやつにしよう。いっぱい勉強して、頭も疲れただろ?」


 このまま勉強できる気分ではなかったので、コメットはギロの言葉に甘えることにした。


「俺、ジンジャークッキーを持ってきたんだ。コメット好きだったよな」

「うわあ、嬉しいな! フローズンヨーグルトもあるから一緒に食べよう」

「いいのか?」

「うん。大先生も好きに食べていいよって言ってた。ドリンクはなにがいい? ギロも選びにおいでよ」


 コメットはギロを連れて調理場へ向かう。奥の冷蔵庫の扉を開け、冷凍庫を覗きこんだ。魔法のおかげでいつでもキンキンに冷えているため、指先から徐々に熱を奪われる。

 コメットが「えーとどこかな」とフローズンヨーグルトを探していたとき、ギロがあるものを見つけ、わずかに驚く。


「冷凍庫にお酒がある」

「なんか大先生が入れてるんだよね。冷えたウイスキーも好きみたいで」

「なんで凍ってないんだろ……あ、魔法か」

「ううん。たぶん、ウイスキーの中のアルコールの凍る温度が、冷凍庫の温度よりも低いからだと思う」

「えっ」

「ほら、アルコールっていうかエタノールは、融点がマイナス114℃だから、お酒のアルコール度数が高ければ高いだけ、そのお酒の融点も低くなって、凍りにくくなるんじゃない?」


 そんなことをさらっと答えてみせるコメットに、ギロは目を見開かせた。感嘆と驚愕とが入り混じった、味のある顔をして、隣のコメットを見下ろす。

 一方のコメットは、ぽやんとした横顔で、冷凍室に詰まった食材を掻き分け、フローズンヨーグルトを探している。もしかしたら大先生かネブラがもう食べちゃったのかも、としょげはじめてもいた。


「コメット、なんでそんなこと知ってるんだ?」

「なんでって?」

「融点の理屈とか、そんな化学的なこと、俺、教えてないけど」

「えー? んー、なんでだろ……孤児院で習ったのかなあ」


 コメットは孤児院で習ったことをまったく覚えていないし、習って覚えていることもこうして忘れる。

 ギロはちょっと疲れたように「俺、たまにコメットのことがわからなくなる」とこぼす。コメットは首を傾げつつ、「そお?」と目を瞬かせた。

 フローズンヨーグルトが無事に見つかったので、それを二人分、水色の小皿に移し、マーマレードジャムをかける。コメットは冷やしてあったジャスミンティーを、ギロはホットココアを選んだ。

 二人が居間のテーブルにつくと、ギロはしみじみと告げる。


「……なんか、このまま俺が教えていいのかって、思うときがある」

「え? 僕、ギロがいいよ。君が教えてくれたから、お金の計算もできるようになったし、西や東もわかるようになったんだよ? ギロのおかげだよ」

「いや、コメットががんばったからだよ。本当、よく勉強したと思う。この調子で帝国の歴史と地理を学び終わったら、世界の地理に進みたいんだけど……俺もあんまり詳しいことを教えられる自信ないんだよな」


 コメットに教えるため、ギロもがんばって勉強をしている。簡単な算数はともかく、歴史や地理になってくると、高等教育に食いこんでくるのだ。


「たしかにコメットは常識がないし、知らないことはとことん知らないけど……それ以外で知ってることは意外と多いし、勉強したことはしっかり身についてる。だからこそ、ちゃんと教えてやりたいんだけど」


 ギロは今後の教育課程を静かに思案する。

 定着のために計算問題を毎日こなしているものの、ネブラからは「四則演算の応用ができればとりあえず問題ない」と言われている。面積と確率の計算を教えればひと段落にするつもりだ。反復練習は続けるにしても、それはコメット一人でもできる。

 一方で、常識や慣習にも根づく、帝国史や帝国地理に関しては、もうちょっと詰めこんでもいいな、とは思っている。アトランティス帝国は大陸丸ごとが一つの国で、その領土は広大だ。全部を事細かに知る必要はなくとも、地名を聞いたらどのあたりの場所なのかわかるくらいにはしてやりたい。


「これからのこと、ネブラから聞いてる?」

「聞いてない」

「そうか……ていうか、あれからネブラとは話したのか? ネブラから謝ってきたりは?」

「別に、なにも」


 コメットはフローズンヨーグルトを掬ったスプーンを舐る。

 その気まずそうな顔を見て、ギロは睥睨した。


「まさか、ずっと喧嘩中? あれから何日経った?」

「別に言い合いしてるわけじゃないよ。ネブラはちゃんと授業してくれるし、僕だって拗ねてないもの」

「でも、お互いにもなし? ずっと居心地悪いままだろ、それ」


 そのとおりだった。

 コメットもネブラも、あの日のことなど忘れたというふうに振る舞っているけれど、本当はちっとも忘れていない。声を荒げて、喧嘩別れのようになってしまって、それなのに毎日顔を合わせるものだから、平然とすごすしかないだけだ。

 コメットからしてみれば、かろうじてボタンが引っかかっているような、変な状況である。

 ギロは呆れに呆れて、深いため息をついた。


「ちっちゃい男だな、ネブラ」

「ネブラがちっちゃいって、どこが? 身長も態度もでかいよ?」

「相手は年下の女の子なんだから、自分から謝ればいいのに。心とか器ってやつがちっちゃいんだよな、あいつ」


 ギロはジンジャークッキーを割り、フローズンヨーグルトの上に落とした。合わせて食べてみる。好みでない組み合わせだったので、失敗した、という顔をした。


「ネブラが謝るわけないよ。ネブラが謝ってるとこなんて、僕、見たことない」

「そんな最低なやつが、よくいままで生きてこれたな……ちなみに、ネブラのほうはどんな感じなの?」

「わかんないよ。ネブラの考えてることなんて。まだ怒ってるかもしれないし、もう怒ってないかもしれない」

「コメットはどうしたい?」

「……このままじゃだめかなって思ってるよ。でも、僕はなにも悪いことしてないから、謝るのも違うなって」


 今回の出来事は、ネブラがコメットをめためたに馬鹿にしたことが原因だ。むしろ、コメットには、もっと言い返してやりたい気持ちだってある。

 自分がネブラのことで思い悩んでいるように、ネブラだって自分のことで思い悩むべきだ。

 ただ、コメットはこれまで、ネブラの火山の裾野を歩きながら、踏んではいけない一歩は絶対に踏んでこなかった。ネブラを傷つけないよう、その小さな頭で最大限に気をつけてきた。いまさらネブラを傷つけようだなんて考えられないし、そんな言葉、思いつきもしない。

 それをギロに言うと、ギロは少し考えたのち、おもむろに口を開く。


「いまのネブラなら、絶交するとかなんとか言えば効くんじゃないか?」

「絶交ってなに?」

「え、知らない? ……いや、コメットは絶交なんて言わなそうだもんな」

「どういう意味なの?」

「そいつとはもう話さないってこと」

「なんで?」

「嫌いだから、もう仲良くしたくないだろ」

「でも、僕、ネブラのこと嫌いじゃない」

「そこは嫌いじゃなくても、言ってみるだけ」

「言ってみてどうなるの? ネブラだよ? 僕が話しかけなくなっても清々するとか言うよ絶対」


 いつかのように「森へお帰り」と返ってくるだろうと、コメットは容易に想像できた。もし本当にそうなったら、自分は葈耳オナモミをたくさん投げつけてやりたい。

 そもそも、いまはネブラの頭がおかしくなっているおかげで、魔法を教えてくれるものの、それがいつまで続くのかはわからない。もしかしたら今日にでも破門を言い渡されるかもしれない。もう馬鹿弟子とすら言われなくなるかも。コメットの中の自信という自信が、下り坂を転げ落ちていく。

 じめーっとした気配を漂わせるコメットを、ギロはぼんやりと眺める。

 コメットは本気でネブラがわからないらしい。

 ネブラが変わった理由なんて、コメット以外にありはしないのに。


「……まあ、俺からの魔法の呪文だとでも思って覚えといて」


 そう言ったものの、コメットが本当にそれをネブラに告げたときにどうなるかは、ギロには想像できなかった。






 さて。夕方からはネブラの魔法の授業だ。

 楽室の窓から見える空は、黄昏の先駆けのような薄紫で、冬の夜足の速さを感じさせる。

 コメットとネブラはいつものように、向かい合わせになって座っていた。


「ギロから聞いた。お前、平均魔力量も知らなかったんだな」

「う、うん」

「なんつーか、魔法についての常識もないんだなって、改めてわかったから、今日の授業は魔法理論の基礎を教える」


 ネブラが持ちだしたのは薄っぺらい教本で、『ナメクジでもわかる魔法!』というタイトルだった。もしかしたらコメットのことがナメクジに見えているのかもしれない。


「魔法は万能じゃない。だから、できないこともある」ネブラは教本を開いてみせた。「たとえば、命を作れない。命っていうのは生き物全部だな。言葉で言うよか見るほうが早いだろ」


 ネブラの開いたページには、が載っていた。

 たしかに、絵にして見るとわかりやすい。

 人間。馬。猫。魚。虫。草花。木。ユニコーン。妖精。人魚。


「動物もだけど、植物もだめなの? 建国祭の最後に、大先生やルシファー団長がブーケを出してたけど」

「あれは造花だからな。生きてないし枯れない。本物の花は魔法じゃ作れない。あと、食べ物も無理だな。結局、大きなくくりでにあたるものが駄目なんだよ。魔法使いは神様じゃないって話だ」

「……じゃあ、牛乳は? 牛から取れるけど、生きてはいないよね?」

「いいところを突いたが、それも不可能だ。同様に、血や涙なんかも魔法では作れない。作れるのは、完成度の高い模造品が限度だな」


 コメットは教本の隣のページを見遣った。

 他にも、魔法で不可能なこととして、過去や未来に飛ぶことが挙げられている。時間を巻き戻す、なんていうのはファンタジーの中だけだ。


「模造品だったとしても、本物と見紛うほどの造花を作ることはできる。たとえば、時限魔法を施して、時間経過で枯れたように見せるとかな。匂いや感触を再現したりもできる。ただ、分子学的にはまったくの別物だ」

「ふうん」

「本物を出せるとしたら、すでに用意していた植物や食べ物をどこぞから取りだすことくらい。この方法で花を咲かせていたのが、アンドロメダ・ディーの魔法だ」


 アンドロメダ・ディーは、コメットもよく聞く魔法使いの名だ。代表的な著書には『アンドロメダ・ディーの華麗なる魔法集』があり、コメットも目を通したことがある。


「“銀の川のほとりより、我が花を一輪、”」


 ネブラが唱えると、その左手に真っ白なガーベラが現れる。

 コメットは目を瞠った。


「“二輪、”」


 続いて、赤いアネモネが重なり、


「“三輪、君に捧ぐ”」


 さらにピンクのチューリップが横たわり、魔法が終わる。

 ネブラの手の中には、三本の花が束ねられていた。摘みたてのような瑞々しい芳香を放っていて、嫋やかな花弁にきりりとした緑が華やぐようだった。


「この魔法は、ディーの遺作だった」ネブラは三輪の花束をテーブルに置く。「こんなふうに、ディーの魔法から生みだされる花は紛うことなき本物で、呪文だけ遺して死んじまったから、長らくは神業だって言われてたみたいだぜ。けど、死後何年か経って、その仕組みが解析された。これは、ディーの作った亜空間から半永久的に花を召喚する魔法だ」


 魔法の仕組み自体は単純だったため、解析にはそう時間はかからなかったとされている。しかし、そのとんでもない魔法設計に、ありとあらゆる魔法使いが絶句した。


「亜空間を創造し、そこに多種多様な植物を植えた。それを“双子の呪文”で増殖させ、尽きさせないように常時補給。おまけに時間停止魔法で植物の鮮度を保たせてる。煩雑な魔法と莫大な魔力によって、空間を管理してやがったんだ。魔法で生花を出す、たったそれだけのために」

「すごいね……」

「頭おかしいんだよ。花一本のために、別世界を作っちまったんだぜ? コスパが悪すぎる。思いついたって誰もやろうとはしない」

「そんな魔法を、アンドロメダ・ディーは人生をかけて組み立てて、人生の最期に完成させたんだよね。すごくロマンチストなひとだったんだ。偽物の花じゃなくて、本物の花を出したかったんだね」

「ディーの馬鹿げたお膳立てのおかげで、簡単な詠唱と最低限の魔力消費で生花を出せる魔法が、世に広まったわけだが……その魔法が解析されて以降、ディーの作った魔法はコスパが悪い、ってイメージがつくようになった。実際、魔力消費の激しい魔法もわりとある。実用性に乏しい娯楽的な魔法ばっかりだ」


 アンドロメダ・ディーがどういうふうに魔法を使いたかったかは、彼女が紡いだ呪文にしかと現れている。我が花を君に捧ぐ。彼女の花を受け取った相手は喜んでくれたのだろうかと、コメットは思いを馳せた。


「素敵だな。僕もそういう魔法を使いたいな」


 テーブルに寝かせた右手の人差し指で、コメットはガーベラをなぞる。そのしなやかな感触に目を細めた。


「そういう魔法使いになりゃいいだろ。勝手になっとけ」ネブラは肩を竦めて言った。「次、魔法を使える生物についてだ。人間、つまり魔法使い以外でも、魔力があれば魔法を使える。人間と同じ言葉を発語する巨人族や、人語を理解する人魚なんかがそうだな。だが、音もなく魔法を使える生物も存在して、それは人間の使う魔法とは違うルーツを持つ魔法を————」


 ネブラの話が耳の反対側へとすっぽ抜けていく。

 目の前の教本を眺めたところで、一字たりとも頭に入ってこなかった。

 勝手になっとけ——ネブラはどこまでも他人事で、コメットがどんな魔法使いになろうと、あるいはならなかろうと、どうでもいいようだった。

 そのことが、コメットをみじめにさせる。

 目の前のネブラは、コメットにどんなことを言ってのけたかも知らないで、教本の文字を声でなぞる。コメットのことで思い悩んだりしない。ギロの言うとおり、ネブラの心の器は小さいのだ。そこにコメットの入る隙間なんてない。

 ネブラのそういうところが、あまりにも——むくむくと膨らんでいく感情に、コメットは唇を噛み締めていた。

 感情の乱れが、魔力を震わせる。


「……おい」ふと、ネブラが説明をやめ、コメットを見る。「なんだよ、その顔。まだなんか怒ってんのか」

「別に」

「はあ?」

「怒ってない」

「それが怒ってないやつの顔かよ」

「怒ってない!」

「怒ってんだろうが。なにむきになってんの。それとも、自分がどんな顔してるかも、馬鹿だからわかんねえって言うのかよ」


 ネブラはコメットを鼻で嗤った。

 実のところ、ネブラにとっては、先日の口論はすぎたことだった。いけすかないこともあるが、コメットが真面目に勉強に取り組んでいるなら、それはネブラの労が報われたということだ。自分の手から離した問題について、これ以上とやかく言うつもりはない。だから、こんな厭味いやみだって何気なく言う。

 その意地悪な態度に、コメットはカチンと来た。

 あの呪文が火を噴いた。


「……僕、もう勝手にするから」

「なにが」

「絶交する! もうネブラとはお話しないから!」

「……はあ?」


 すると、ネブラも火を噴いた。

 この馬鹿弟子は、さっきからぼうっとしてると思いきや、突然ムシャクシャしはじめて、勝手に臍を曲げて、挙げ句、絶交なんて子供じみた拒絶を、自分に叩きつけてきたのだ。

 目眩を通り越して興奮すら覚えた。

 否、怒りである。


「へえ。俺と口聞かねえって、そんなこと言えんの、お前」


 深淵のような瞳の奥に、獰猛な炎が灯り、険しい眼光を放った。じりじりと焦げつくように魔力が練りあげられ、ネブラの中で燃え盛る。

 途端に凄まれたコメットは、ぞっとして身を強張らせた。

 怒ったネブラなんて何度も見てきたはずだった。それなのに、今のネブラは、初めて見るような形相で、コメットを見据えている。さっきまでの威勢もしゅんと鎮火するほどの迫力が、目の前にあった。

 息が止まる。コメットは恐ろしさのあまり逃げだしたくなった。顔を青褪めさせて、ガタガタと無様に慌てふためき、席を立つ。

 その一挙手一投足さえも、ネブラは堪らないとでも言いたげに睨みつけている。


「なんとか言えや、おい」


 コメットはこれまで、ネブラの裾野を歩きながら、踏んではいけない一歩は絶対に踏んでこなかったはずだ。

 それなのに、今、急に地雷原に立っている。

 空間転移魔法でも使われた気分だ。

 ギロの教えてくれた呪文は覿面てきめんだった。

 ばくばくと心臓の急く、恐怖と焦燥のど真ん中で、コメットは冷静に現実逃避していた。

 嘘でしょ。森へお帰りって言わない。これまでのネブラなら歯牙にもかけないはずなのに、すごい効いてる。でも、これ、僕がとってもまずいんじゃ。

 ネブラが立ち上がったので、コメットははじかれたように走りだし、急いで楽室を出る。途端に放たれた痺れ魔法を間一髪で躱し、コメットは階段を駆けあがっていく。


「——“Agitatoアジタート”!」


 すると、階段がぐにゃぐにゃと荒ぶりはじめた。まるで捏ねられた粘土みたいに形を変えて、コメットの進行を妨げる。

——そこまでする!?

 コメットは手摺りに掴まりながら、なにがなんだかわからない段差をよじ登っていく。必死だった。そして、背後に迫りくるネブラも本気なのだ。


「“待ちやがれコメット”!」


 三階の踊り場まで辿り着いたコメットの頭上を、カカカンッと硬い音が貫いた。

 コメットが見上げると、ガーベラとアネモネとチューリップが、廊下の壁に突き刺さっている。

 殺される、とシンプルに思った。

 いまだかつてない、憎悪すら感じるネブラの怒りに、コメットはちびりそうになっていた。

 階段のほうを見遣れば、やはり、ネブラは追ってきていた。紫紺の髪を振り乱して、恨みがましくこちらを凄んでいる。

 やっとの思いで自分の部屋に逃げこんだコメットは、頼りなすぎる鍵をかける。その音までもが弱々しく響いた。こんな鍵、ネブラなら秒で開けてくる。

 コメットはポールスタンドにかけられていたがま口のポシェットを引っ掴む。それをパカッと開けて、適当に紙幣三枚——2万1000Бベイルだった——を取りだして、


「トーラス、いたら助けて」


 と泣きついた。

 ベッドが軋んだかと思えば、足をぶっきらぼうに組んで腰かけたトーラスが「どしたの」と姿を見せる。

 コメットはトーラスの足元にしゃがみこみ、その脛を抱きしめるように縋りついた。


「か、匿って」

「どこにどうやって匿うんだよ!」


 トーラスは笑いながら言った。そして、コメットの手から報酬を抜き取る。震えるコメットを抱きしめて、パチンと指を鳴らした。

 ぐわわん、と脳が揺れるような不快感ののち、コメットは、自分が家の外にいることに気づいた。地面で揺れる化粧桜ケショウザクラが、コメットとトーラスを見上げていた。


「わ、あ、ありがとうっ」

「お前、なにしたの。ネブラすんげえ怒ってるくない? 魔力で火事が起きそう」

「話せば長くなるんだけど、えっと、」

「あーいい。移動しながらで」

「移動? 空間転移までしてくれたのに?」

「はー甘いぜ。最近のネブラは魔力に敏感で、ちょっとした識別と探知くらいならできるようになってんの。お前の魔力なんか一発で見つけてくるって」


 トーラスは三枚の紙幣をポケットに突っこんで、もう一度パチンと指を鳴らす。足掛けと羽根飾りのついた樫の箒を取りだした。


「魔法使いの情けだ。匿うのは無理でも逃がしてやるよ」

「トーラス! 大好き!」

「悪いな、その気持ちには応えられない」


 トーラスは箒に跨ると、コメットを後ろに乗せ、地を蹴った。二人を乗せた箒はばびゅんとその場を離れる。三百エーカーの森を突き抜けたときよりは緩やかな、安心と安全の法定速度で。

 コメットは空を飛ぶ高揚感も忘れ、ネブラから逃げおおせた安堵に、息を整える。

 トーラスの腰に腕を回した状態で、念のため、家のほうを振り返り、ネブラが追ってきていないか確認した。大丈夫。ネブラはまだ箒には乗れない。追いつけっこない。

 再び視線を前へと戻して、そういえば、ネブラは魔力を見分ける練習をしていたのだっけ、と思い出す。そして、トーラスと初めて出会った日、自分の魔力が珍しいことを教えてもらったような。


「ねえ、トーラス。僕の魔力ってどんなの? そんなにわかりやすい?」

「わかりやすいほうではあるな。癖があって、けっこう独特。カスタードクリームに胡椒とオレガノを効かせてレモンで香りづけしました、みたいな」

「えぇー……なんかやだなあ……」

「お前、もっと単純そうなのにな。意外性の塊だよ。ウケる」


 向かい風が冷たくて、コメットは「べしゅん!」とくしゃみをした。トーラスは「うわ汚っ」と言うだけで、温めようとはしなかった。


「てかさ、お前まだ魔力の識別もできねーの? サジタリアスに会ったときを思い出してみ。あいつ圧すごかったじゃん」

「サジタリアス? 誰それ」

「星団殺しだよ」

「あのひとそんな名前なんだ」

「あーウンそうよ」

「星団殺しに会ったときのこと、怖かったせいかあんまり覚えてなくて……でも、さっきのネブラは、なんか、いままでのネブラとは違ってた気がする」

「おお、さすがにちょっとは感じ取れたか」トーラスは肩を竦める。「そんで? なにがあったらあんなことになるんだよ」

「ネブラと喧嘩した。絶交するって言ったの」

「想像以上に馬鹿みたいな理由」

「その前も、ちょっと言い合いになって、でも、僕だって我慢してたし、仲直りしなきゃって思ってたんだよ。それが、こんなことになるなんて、言わなきゃよかった……」


 コメットは早くも後悔していた。まさかネブラがあんなに怒るなんて思ってなかったのだ。しおしおの声で「もう本当怖いよ……」とこぼしている。

 トーラスの箒は商店街へと向かっていた。中央の吹き抜けから芝生の上へ、ゆっくりと降り立つ。コメットが地に足をつけると、指を鳴らして箒を仕舞う。


「ありがとう、トーラス」

「ま、ここまで来たら、ネブラだって追いつくのには時間がかかるだろ。手間賃分の働きはしたし、俺はもう行くから」

「追加料金は3万Бベイルいい?」

「どこでもついてく。今日から海神信仰やめてお前を信じて生きていくよ」


 トーラスお得意の転身であった。オレイカルコス製の面の皮である。

 その場を去ろうとしたトーラスを引き止めることに成功したコメットは、風で乱れた髪を整えながら尋ねる。


「もう行くって、ブルースを出るの?」

「言ったろ。俺がここに滞在するのは建国祭までの予定だったんだ。じゅうぶん金は稼いだから、別の場所で新しい仕事を見つけよっかなって」トーラスは腰に手を当てる。「ま、追加料金はくれるみたいだし、今日お前に付き合ったあと、ここを発つよ」


 コメットは「そっか」と眉を下げた。


「もう行っちゃうんだ。寂しくなるね」

「寂しくなる?」

「なるよ。トーラスがいなくなったら、僕は困ったとき誰に相談すればいいの? 僕の杖のことを考えてくれたのも君なのに」


 タダでは助けてくれない、困った魔法使いだけど、コメットにとっては、金さえあれば頼りになる、秘密の居候だった。それに「僕の羽虫」でもある。


「このまま僕の部屋で飼っちゃだめ?」

「薄々感じてたけどさ、お前って、俺のことペットかなんかだと思ってるフシあるよなあ」

「がんばって育てるから」

「ペットっていうかサボテンじゃん、俺」


 トーラスはコメットの両頬に手を添え、小さな顔を覗きこむように身を屈めて、「そんな細っこい腕で俺を養おうなんて臍で茶が沸くぜ、おまぬけちゃん」と笑うのだ。

 ぷ、とコメットの唇が尖る。


「んへ、鼻水出てやんの」

「寒いんだよ。外套ケープ忘れちゃったから」

「しょうがねえなあ」


 パチンと指を鳴らし、コメットの部屋のワードローブから真っ赤な外套ケープを取りだしてやった。コメットにそれを羽織らせて、「うりうり」と鼻を抓む。

 コメットは「ンム! 意地悪しちゃイヤ!」と身を捩った。トーラスの手から逃れると、真っ赤になった鼻を啜り、彼の真っ黒な瞳を睨みあげる。

 トーラスはにやりと笑った。


「でも、よかったじゃん、ネブラが魔法を教えてくれる気になって。俺の見立てでは、あと千年はかかると思ってたぜ」

「……よかったけど」

「けどなんだよ。ネブラがかまってくれない、って泣いたこともあるのに。変なの」

「変なのはネブラだよ。ずっと、僕のことなんて知らんぷりだったのに、僕が諦めるのを待ってたくせに、いきなり、魔法とか勉強とか教えようとして、なんで……」


 コメットは強張った顔で、力なくこぼす。

 この小さな生き物は、のほほんとした能天気な毒麦に見えて、実は考える葦なのだと、トーラスは知っている。なんてったって、トーラスは、その葦を止まり木にした、羽虫男なので。

 まだあの家の庭にアメジストセージが咲いていたころ、コメットはネブラのためにえんえん泣いていた。どんなに小さくとも、風を受ければ、葦の心は健気に揺れるのだ。

 その悩めるつむじに、トーラスは笑いかけた。


「これまでずっと、お前だけががんばって馬鹿みたいだったよな。でも、俺には、お前の師匠もがんばろうとしてるように見えるよ。嬉しくねえの?」

「……嬉しいけど、素直に喜べない。だって、僕、なんにもできなかった」コメットの声が震える。「大先生にお願いされたのに。ネブラに希望を見せてほしいって。僕もそんな魔法を使いたいって思った。でも、僕にはそんなたいそうなことできなくて、役立たずで、僕がいる意味なんてなかった。大先生が願いをかけるようなお星様にはなれなかった。僕がいなくても、ネブラは勝手に希望を見つけられる」


 あの子に希望を見せてやってほしいと願われたから、そのために魔法を使いたいと、コメットは緩やかに決意をしたのだ。

 でも、コメットは魔法使いじゃない。ただの見習いで、希望を届ける星にはなれない。

 コメットの駆け抜けるスピードでは、ネブラに追いつけなかった。コメットよりもよっぽど速く、ネブラは進んでいる。だだっ広い宇宙で一人ぽつんと置いてけぼりにされたような気持ちになる。


「もしかして、恨んでる?」


 トーラスの問いかけにコメットは押し黙る。

 恨む気持ちもわかるけど、なんて、ギロにも言われた言葉で、きっと、自分の中のいろんな感情を引き算していくうちに、そういう気持ちが現れることもあるのだろうと思う。

 けれど、それは解ではなかった。

 恨みがましさよりもよっぽど大きな感情が、コメットの奥底に沈んでいる。


「寂しい」


 彼方を見果てるコメットの瞳が濡れる。

 光を反射して、遠い星を映した。


「悔しくて、もどかしい……僕はネブラにとって星屑ですらないから。ネブラの周りを走り回って、空回ってるだけの、夢見がちなただの子供だ。僕がどんな魔法を使っても、きっと、ネブラには届かない」


 あんな癇癪持ちがそばにいたのだ。

 どうしてこんなにも怒ってしまうのか、居ても立っても居られなくなるのかは、コメットが一番よくわかっている。


「僕がネブラに怒ってるのは、僕が傷ついて悲しいからなんだ……」


 でも、コメットには、怒る資格も悲しむ資格もない。

 ネブラは最初からコメットに興味なんてなかったし、それをコメットも悟っていた。ずっとネブラはわかりやすく線を引いていて、コメットを突き放しはしないだけで、いつでも手放してやる心持ちでいる。

 そこへ無理矢理くっついていたのはコメットだ。ネブラが折れるのが先か、コメットがへばるのが先か。その二人だけのチキンレースに、コメットは負けそうになっている。

 結局のところ、コメットにとって、ネブラはどこまでも遠い星だった。

 自分を顧みない輝きを追いかけて、勝手に転んで痛がっているのが、いまの自分コメットだ。


「なんでお前は、そんなにネブラがいいの?」


 トーラスは不思議そうに言う。

 それは、コメットが幾度となく投げかけられた問いだ。

 なんで周りがそんなことを気にするのかはわからなかったけれど、おかげで、コメットはそれを答えるのが得意になった。


「一目で憧れちゃったから」

「…………」

「僕はずっと、魔法って特別なものだと思ってたんだ。きらきらしてかっこよくて、だから魔法使いになりたいって思ってた。でも、ネブラと初めて会ったとき、ネブラは魔法で洗濯物を干してた。なにも特別なことなんてなくて、当たり前のことみたいに、魔法を使ってた」コメットの声に感嘆が乗る。「……ああ、これが魔法使いなんだって、そのとき思った」


 ただ、洗濯物を干すネブラのつまらなそうな顔が、夢の欠片もないその魔法が、コメットの目には輝かしく見えた。


「僕も魔法使いになるんだって思ったんだ」


 でも、もうだめかもしれない。

 ネブラは滅茶苦茶に怒っているし、コメットはもう話さないなんて言ってしまったし、今日ばかりはもう終わりだと思った。

 このままでは確実に破門である。ネブラ、謝ったら許してくれないかな。無駄かもな、勝手にしろなんて言うくらいだから。もう僕が全部悪いってことでいいから、こんな寒空の下で見捨てないでほしい。


「……うぐ、ふぅ」

「あ、泣いた」

「びえぇえぇぇん」

「泣け泣け。子供は泣くのが仕事だ」


 コメットが泣きやむまで、トーラスはコメットの背中を撫でつづけた。しばらく泣きつづけ、空が青黒く染まりだしたころ、その涙は止まった。

 泣いたぶん、多少すっきりしたコメットは、暗くなる前に家に帰ろうという気持ちになった。

 その道中でしれっとレターセットを買っていて、トーラスに「俺、お前がわかんねえわ」と言われた。

 家に戻る道すがら、トーラスとも別れる。次にいつ会えるかはわからなかったけれど、トーラスは「またな」と言ってくれた。

 パチンと指を鳴らして、姿を眩ませる。


「…………よし」


 周囲を警戒しながら丘を登り、家の前まで辿り着いたコメットは、そっと窓から中を確認する。ネブラの姿はなかった。

 居間には、サダルメリク、ケートス、ライラの三人がいて、楽しげに飲みの準備をしている。

 コメットはそろりそろりと玄関扉を開ける。


「あ。おかえり、コメット」

「こんばんはコメット。邪魔してるわよ」

「こうして会うのは久しぶりですね、元気でしたか?」


 サダルメリクがにこやかに出迎えると、続いてライラとケートスが声をかける。コメットは扉のノブを掴んだまま、あったかい空気に肩を落とした。


「こんばんは、ライラさん。ケートス先生は久しぶりです」

「コメットはお出かけでしたか。外は寒かったでしょう? 早くお入りなさい」


 鉢合わせなくてよかったけど、ネブラはどうしたんだろう。僕を探しに行ったまま帰ってきてないのかな……。

 そんなことを考えながら、コメットは家の中へ入る。半身を翻して閉めようとした扉が、あるところで引き攣ったように軋んだ。


「うぇ?」


 その感触にギョッとして、コメットは振り返り、引っかかりを覚えた扉の足元を見遣る。大きな靴を履いた足が、扉の間に挟まっていた。

 痛そう、と反射で緩めた手が、扉の主導権を失う。扉の縁に、外側から手をかけられたためだ。閉じかけていた扉が強引に開かれて、ネブラの体が滑り入ってきた。


「ヒィッ」


 ネブラと目が合って、その圧から逃れるように、コメットは後退る。しかし、先走る自分の足に引っかかって尻もちをついた。青褪めた顔で、恐怖の元凶を見上げる。


「ネネネッネブネブラ」

「そんな愉快な名前のやつは知らねえよ」


 地を這うような声で、ネブラは恨みがましく言った。深い紫色の髪の隙間から、地獄でしか見られない怪火のような眼光が覗く。

 見下ろされたまま立てなくなったコメットの背後で、サダルメリクが「お帰り、ネブラ。薪拾いありがとう」と声をかける。ネブラは左腕に太い枝の束を抱えていた。暖炉用の燃料を取りに出ていたのだと、コメットは悟った。

 ネブラの背後から吹き抜ける冷気に、コメットは恐々と震えている。尻もちをついたまま、びたびたとその場を後ずさった。

 ネブラは玄関の扉を閉める。そのあいだも、滑稽なまでに怯えるコメットから視線を剥がさなかった。やがて、凄惨に笑み崩し、コメットへこぼすのだ。


「……で? 俺とお話する気分にはなったかよ」

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