第14話 向こう岸にいるひと

 華々しく始まった建国祭の裏で数十年ぶりに魔弾の射手が現れたことは、すぐさま世間に広まった。

 ミーティアの葬儀のあった日の夕刊にはいくつかの新聞社に取りあげられ、その翌日の建国祭三日目には全ての新聞社の朝刊で一面を飾った。

 仕事があるにも関わらずのんびりと朝食を摂っているサダルメリクは、その新聞を畳んでから困ったように言う。


「国賓の方々が近衛星団を怖がっている」というか、と続ける。「近衛星団に警護されることを怖がっているんだよね。もちろん仲間の死に同情してくれてはいるけど、相手は星団殺しの魔弾の射手。僕たちの近くにいれば、自分まで魔弾の射手の巻き添えを食らう可能性があるって」

「はんっ、身勝手な連中だな」

「いやあ、これはしょうがないでしょ。悔しいけど、数百年と続く近衛星団の失態だよ。次々と仲間を殺していった指名手配犯を依然として捕まえられていないんだから」


 そういうわけで、国賓の警護という近衛星団の仕事は、丸々保留となってしまった。現在は警察組織がその役割を担っている。近衛星団の信頼性が疑われている現状、さらに不安を煽るような真似はしないという決断が為されたわけだ。おかげでサダルメリクは優雅に自宅待機している。


「と言っても、警察の警護では不安だっていう声も少なくないから、団長と副団長がどうにかしようと交渉してくれてるところ。近衛星団にうろつかれると危ないって思われるなら、近衛星団の制服を脱いじゃえばいいだけだしね。町の巡回をするはずだった警察が警護にあたってるから、今日のところは近衛星団が町の巡回を買って出た。僕も午後からは外に出るよ」

「こんなときでも働くんですか……?」

「僕たちは大人で、魔法使いの騎士だから。それに、町の巡回をしていたら、魔弾の射手と出くわすこともあるかもしれない。みんなもミーティアの仇を取りたくてうずうずしてるんだよ。今度こそ、近衛星団の威信をかけて、魔弾の射手の身柄を押さえてやりたいって……だけどさ、あいつ、本当に隠れるのが上手いんだよなあ」


 サダルメリクは居間の椅子にだらりとしなだれる。お行儀の悪い姿勢だったけれど、コメットもネブラも押し黙っていた。

 コメットは目玉焼きをフォークで切り分けながら、「魔力の痕跡を辿るっていうこともできないんですよね?」と尋ねる。


「うん。そもそも魔導資格ソーサライセンスを持っていない魔法使いだから魔力の登録もしていない。照合しようにもできない感じ。しかも、魔力操作が抜群に上手いんだ。膨大な魔力を持っているくせに、それをほとんど無に見せかけることもできる。あそこまで上手い魔法使いを僕は他に見たことがないね。おまけにあの


 そういえば、近衛星団の一人であるカメロパルダリスも、魔弾の射手の杖についてなにかを言っていた気がする。魔弾の射手はなにを杖にしているのだろうと、コメットが再び尋ねようとしたとき、ネブラは先回りしてその疑問を解消する。


「大砲」

「……えっ、大砲?」

「を、小さくしたやつ」ネブラはテーブルに頬杖をつく。「小型の砲身に小型の弾。レバーを引くだけで発砲できる。魔法と同じように化学も発達してるからって、どこの国にもそんな武器はねえんだけどな。魔弾の射手は誰も見たことのないような武器を杖にしてるんだと」

「仕組みなんかは大砲と一緒だね。撃たれて死んだ近衛星団の魔法使いには、体中に抉られたような穴がいくつもの空いていたらしい」

「……痛そう」

「それに、悔しかっただろうね」サダルメリクは傷ましく微笑む。「魔弾の射手は強い魔法使いだし、実際に強力な魔法を使うけど、恐ろしいのは魔力だけでなく武力まで持つところだよ。近衛星団の魔法使いはその武力に殺された。魔力の痕跡なんて残るわけがない」


 コメットは昨日のパレードを思い出す。

 誰も彼もが煌びやかに輝いて見えた。箒に乗って自由に空を駆ける、綺羅星のごとき魔法使いたち。その星々を無惨にも撃ち落としたのが、魔弾の射手なのだ。


「言っておくけど、今回は絶対に、なにがあっても、手伝いなんて任せないよ」


 ふと、サダルメリクが言った。

 コメットとネブラが顔を上げると、真剣な面持ちをしたサダルメリクが、エメラルドの瞳でじっと見つめていた。ただならぬ圧を感じて、思わずコメットは身構える。

 ネブラも硬い表情をして、なにも言わずにサダルメリクを見つめ返していた。


「魔弾の射手が出没した以上、なにが起こるかわからない。やつは一人殺したあと何十年と姿を眩ますこともあれば、もう一人と手にかけることもある。そしてその魔の手を、近衛星団は一度だって防げたことがないんだ」

「…………」

「本当なら、君たちにはこの家にずっと閉じこもっててほしいくらいなんだけど……せっかくの建国祭にそれじゃあ可哀想だ。お小遣いをあげるからお出かけしておいで。近衛星団や魔弾の射手のことは忘れて、たくさん遊ぶといい」


 正直、そんなふうに送り出されたって、ちっとも楽しめる気分ではない。

 唇を尖らせたコメットは「大先生、僕を子供扱いしてるでしょ、そんなのではぐらかせると思って」とこぼす。サダルメリクは肩を揺らして笑い、「こんなのではぐらかされてくれるくらい、大人だと思ってるよ」と返した。

 だから、はぐらかされてあげることにした。コメットは頷き、ネブラも「はいよ」と答えた。






 ところでコメットはいまだに杖を持っていなかった。それもこれもネブラのせいである。

 いつまで経ってもネブラが真剣に考えようとしないおかげで、この秋、サダルメリクの悪友にして「僕の羽虫」であるトーラスからアドバイスをもらうまで、コメットの杖問題は宙に浮いたままだった。あまりに重力に逆らいすぎていて、そろそろ地に足をつけたいなと思っていたところ、「箒にすればいいじゃん」とトーラスが言った。地に足をつけるどころかもっと浮きあがりそうな提案だったけれど、ネブラには知ったこっちゃないので「勝手にしろよ」とだけ返した。北風のように冷たい。


「そんなこと言わずさ、」コメットはネブラの篭る部屋の扉に背凭れて言う。「これから箒を買いに行くから一緒についてきてよう」

「絶対にいや」ネブラは自室に篭ったまま、きっぱりと返す。「俺の建国祭は昨日で終わった。満足した。もう二度と暖炉の前から動かない。俺はここに安寧の国を建てる」

「建国記念日だね! おでかけしよ!」

「国歌斉唱。俺は〜〜ここから〜〜絶対に出な〜〜〜〜い」

「うわあ! 馬鹿だあ!」


 そう張り叫んだコメットの頭へ金盥かなだらいが大量に降り注いだ。無理矢理に扉を開けようとしたわけでもないのにこれだったので、防犯魔法じゃなくて意地悪だな、とコメットは気づいた。金盥に埋もれながら歯噛みする。自分にやり返せるだけの力があれば。

 というわけで、コメットは自分の杖となる箒を買いに商店街へと出かけた。

 すっかり見慣れたブルースの町も、建国祭の色に染まっていて、コメットは新鮮な気分で眺められた。

 目指すのは西通り。

 サダルメリクに頼んで予約もしているので、買い物の準備は万全だ。コメットは迷いのない足取りでてくてくと歩いていく。

 ちなみに、一人で箒を買いに行くのはなんとなく不安だったので、コメットはお供として「僕の羽虫」ことトーラスを連れてきた。

 コメットの部屋の窓辺、タンジーのスワッグの上でにちにち歩いているのを、ちょうどいいと捕まえたのだ。サダルメリクからもらったお小遣いのうち、何枚かの紙幣をチラつかせ、「買い物行こ」と誘ったら、変身魔法メタモルフォーシスを解いて「行く」と返ってきた。チラつかせたお金はもちろんトーラスの懐に消えた。

 本当の姿を明かして以降も気づけば羽虫の姿で部屋にいるトーラスに対し、コメットもはじめは混乱していた。しかし、慣れてしまえば、話せるペットみたいなものだった。ギロやベルリラの飼っている妖精猫ケット・シーとなにが違うのか。どう考えても雲泥の差である。


「今日は買い物に付き合ってくれてありがとうね、トーラス。君は暇なの?」

「感謝しながら喧嘩を売るな。買わねえよ」


 口先だけで、トーラスの態度は鷹揚だった。ハシバミ色の外套コートのポケットに両手を突っこむ。コメットの足並みに合わせて歩きながら、「ちょうどひと段落ついたとこ」と楽しそうに言った。垂れ目がちな瞳が細まり、流麗な曲線を描いた。


「トーラスは薬師なんだっけ」

「そーそ。一昨日と昨日で作ってた薬は全部売れた。昨日の夜に追加の薬を作って、いまは熟成させてんの。明日からまた商売だ」

「へえ。人気だったんだね、トーラスの薬。どんなのを作ったの?」

「いろいろ。髪の毛が光る薬とか、疲れを感じさせなくする薬とか」

「売れるの?」

「売れたじゃん。お祭り気分のときにはってつけなんだよ」

「ふうん」

「それよか、どこ目指してんの?」

「<豆の樹>ってお店!」コメットは顔を綻ばせる。「ライラさんっていう魔法使いのお店でね、僕ずっと行きたいなって思ってたの! 箒を買うって大先生に言ったら、せっかくなら作ってもらいなよって、ライラさんに連絡を入れてくれたんだ」


 西通り、特に賑わいを見せるど真ん中に、ライラの営む<豆の樹>はある。

 大木とハープを掛け合わせたロゴ看板が垂れ下がった、シックな深緑に塗られた店構えだった。ショーウィンドウには、透けるように繊細な布を幾重にも重ねた、花が咲き誇るような純白のドレスが、マネキンに着せて飾られてあった。照明が当たるとオーロラのようにさらさらと光る。この世のものとは思えないほどの見事なドレスだった。

 そのディスプレイの隣に大きな扉がある。その扉を開けると、優雅な鈴の音が響いた。

 途端に、ホワイトムスク調の上品な香りがふんわりと鼻腔を突く。中へ一歩入ると、艶々とした黒い床で高級感のある、たいへんにお洒落な内装で、コメットはこれまで訪れたどんなお店よりも緊張した。

 自分なんて場違いなんじゃと縮こまったけれど、店内にはコメットと同世代くらいの少女たちもいれば、働き盛りな女性もいて、店の奥のほうには落ち着いたマダムもいるのだから、どの世代の女性にも愛された店なのだろうとコメットは思った。

 入って左手側に化粧品や香水、右手側に服飾品や装身具が陳列している。それらを眩いばかりの照明が照らし、一つ一つをちらちらと輝かせていた。妙齢の客人が、鏡の前で、貝殻に収められた口紅を試してみる。珊瑚色にすうっと染まり、彩られた唇が弧を描いた。

 見惚れていたコメットの背後でふわっと香る。幸せだけを詰めこんだような柔らかい匂いだった。振り返ると、テスターの香水瓶が独りでにポンプを押していた。一定時間を置いて自動で香水を振り撒く魔法だ。

 コメットの外套ケープにもその香りが移っており、くんくんと嗅ぐとうっとりした気分になった。

 すごい。豆の樹は、誰でもミラみたいな素敵な女の子になれるお店だった。

 興奮が緊張を上回り、コメットはぱあっと顔を綻ばせる。箒を買いに来たことも忘れて、他の客人と同じように、並べられた製品を手に取ってみる。ピスタチオグリーンのアイシャドウ。大粒のイヤリング。イヤリングの石はまるでオパールみたいだ。光に当たると無数に弾ける虹色のファイアが、コメットの瞳の中でも咲いた。なんてお洒落なの!

 店内のあちこちを楽しそうに見てまわるコメットは、リードの限界まではしゃいでいる犬みたいだった。飼い主のような気持ちになったトーラスは、ハイハイよしよしそうねそうねと適当な相槌を打つ。コメットはトーラスのことを「僕の虫」と思っているが、トーラスはトーラスでコメットのことを「俺のワンコロ」と思い始めていた。

 コメットとトーラスが店内を回っていると、「いらっしゃいませ」と従業員の女性が近づいてくる。コメットはなんとなくギクリとした。みっともなくはしゃぎまわった自覚があるので、もしかしたら叱られてしまうかも。

 しかし、その従業員はにっこりと笑みを浮かべていた。ゴールドブラウンの瞼がゴージャスで、アイラインは猫のよう。着こなすのは、ベルベットのようにしっとりとした光沢のあるピーコックグリーンの制服。シルエットのゆったりとしたコンビネゾンで、カシュクールの襟元の中からは黒のレースのブラウスが覗いている。丁寧で恭しい態度で、コメットに「お名前のご登録はございますか?」と尋ねた。


「へ? え、あの、僕はコメットです……」

「ああ! コメットお嬢様ですね」誘導するように奥へと手を遣る。「店長から伺っております。もう少しで来られると思うので、あちらにおかけになってお待ちください」


 店の奥では、同じ制服を着た従業員が、テーブル越しに客人にカウンセリングをしている。そのエリアを抜け、豪華な刺繍を施されたカーテンの向こうまで通されると、丸い黒テーブルのある部屋が待ち受けていた。テーブルのそばにはグリーンの革張りのチェアが並べられていて、カラービーズの鋲飾りがかわいい。エスコートされるようにして、コメットはそのチェアに腰かけた。椅子を引かれるのも、それに応じて座るのも、はじめてのことでどきどきした。

 従業員が「お連れの方もどうぞ」と言って、トーラスのチェアも引く。トーラスは「どうも」と言って腰かけた。ややあってから、従業員は二人分の紅茶をテーブルの上に置いた。去り際に「少々お待ちくださいませ」と告げ、カーテンの向こうへと戻っていく。

 コメットはなんだかとても美味しい気がする紅茶を一口飲み、従業員が時間潰しにと置いていってくれた薄い雑誌を見遣る。豆の樹の過去のコレクションのバックナンバーのようで、ティーカップを置いたコメットは、そっと手に取ってみた。

 年度はちょうど去年のもので、その一年のアイテムがずらりと並んでいた。去年の夏の新作は、ひんやりとした黄色が爽やかな落下傘のスカートだ。白菊のパニエ、紫陽花のパニエとの合わせで載っている。発表された当時、乙女ファンの全員が「天才」と吐露した傑作だった。

 コメットの開くバックナンバーを覗きこんだトーラスも、カップに口をつけながら「いーじゃん」とこぼした。


「それに似た服、さっきも見たな。定番化したんじゃねーの」

「見て。この靴もかっこいい。お洒落」

「おー。そだなー」適当な相槌だったけれど、提案はしてやるトーラス。「気に入ったんなら冬用に買えばいいじゃん。ずっとその薄っぺらいぺったんこな靴履くの?」

「履きやすくて気に入ってるんだもん」

「お前がいいならいいけど、新しい服なり靴なりはあってもよくね?」


 コメットは小さな頭の中でワードローブを漁る。元々手持ちは少なくて、しかもどれも似たり寄ったりだ。サダルメリクの家に居候するようになって、最初の衣類はサダルメリクがまとめて買ってくれて、それ以降はコメットも同じ類のものを選んでしまうようになった。安定に走ったのだ。いま目の前で革命が起きようとしている。


「買えば? 金はもらってるんだろ」


 欲しい、僕もこんなお洋服が着てみたい。

 そう思うコメットの脳内で、ネブラが「ゲロがおめかししたってゲロだろ」と馬鹿にした。妄想のくせに辛辣だ。さすがにネブラもそこまでは言わない。

 たちまちむっつりとした顔を作ったコメットが「いい。似合わないし」と呟いた。


「そうか?」

「こういう大人っぽいのは、ライラさんとかミラとかが似合うんだよ。僕が身につけてもこうはならないよ」

「そんなことないとは思うけど、」トーラスは目を瞬かせて前のめりになる。「えっ、もしかしてだけど、コメット、ガキくさいこと気にしてる?」

「……僕チビだもん」


 トーラスは面白そうにコメットの頬を両手でかいぐる。粘土のように顔を捏ねられたコメットはくぐもった呻き声を上げた。


「へえ意外〜! お前ってそんなこと気にするんだ〜! お〜よちよち、かわいいねえ、うりうり~」

「ンムゥ〜〜〜〜」

「コメットのお望みなら、裾なり袖なりでサイズを合わせて着ることもできるし、なんならオーダーメイドで作ることもできるわよ。今回の箒と合わせてカウンセリングしましょうか?」


 突如隣から聞こえた声に、コメットは「ンム!?」と目を見開かせる。トーラスの手を剥いで振り向けば、横髪を耳にかけながらバックナンバーを覗きこむ、ライラの姿があった。


「ライラさん!」

「ハァイ」ライラは手を振る。「ごめんなさい、待たせちゃったわね。今朝メリクから連絡が来てから、あたしもいろいろ用意してたんだけど、時間がかかっちゃって」


 コメットは「ううん、待ってません」とライラの美貌を見上げた。鮮やかな青緑のアーモンドアイに圧倒されそうになる。相変わらずたじろぐほどに綺麗な魔法使いだった。

 ライラ・ル・フェイ。

 この〈豆の樹〉の店長にしてデザイナーであり、流行を作るファッショニスタだ。

 西通りにこの店舗を、東通りに工房を構えている。服の販売のほとんどは雇った従業員に任せているので、ライラが店舗にいることは稀だったが、コメットが買い物に行くという連絡を受け、ライラ自らカウンセリングをするため、工房から店舗のほうまで足を運んだのだ。


「今日のオーダーにはメリクもネブラも一緒じゃないのね」

「ネブラは寒がりなので」

「どうせ暖炉の前で猫みたいに丸くなってるんでしょ」ライラは少し呆れていた。「それで、今日の付き添いは彼?」

「はい。大先生の昔からの友達みたいで、」

「トーラス・ラドカーン」トーラスはほがらかに告げる。「メリクとは古い付き合いなんだ。よろしく、美しきミレディ」


 トーラスの賛辞に対して、ライラは「ありがとう」と簡素に、言われ慣れているのを隠しもしない態度で答えた。トーラスと握手を交わしたのち、コメットに向き直る。


「で、どうするの? 服」

「うへっ」

「仕立ててあげられるけど?」

「だって、似合うかどうか……」

「似合うのを作るのよ。あたしを誰だと思ってるの。覚えておきなさい。美的価値観の流行は、黄金律ではなくライラ律」

「でも、でも、」

「でもじゃない」


 ライラは戒めるようにコメットの顎を掴んだ。むにゅむにゅと指を動かして肌の感触を楽しむ。そのままじっくりとコメットの顔を眺めたてみた。クリンとした目に、白桃みたいな頬っぺた。フム、と息をついて、その顔から手を離す。


「血色がいいから気づきにくいけど、コメットってかなり色白よね。赤ちゃんみたいな肌してる。下睫毛だってちゃんと長くて、顎はほっそりしてるけど痩せすぎてない。素材がいいわ。童顔だから、化粧はもう少し我慢しましょう。無理に背伸びするよりも、年頃になってからしたほうが楽しいと思うから」


 ライラは慣れた手つきでバックナンバーのページをめくる。あるところで止まって、とんとんと指先で叩いた。


「こういう、色使いだけは年相応に、シルエットの大人っぽいものを選べばいいわ」

「わっ、かわいい!」

「顔のラインは曲線が多いから、カジュアルなものが似合うわね。派手すぎない柄物も似合うと思う。装飾の少ないストレートなブラウスに、ハイウエストのズボンで、いまよりもボーイッシュな方向に持っていっても、逆にいいかも。体に凹凸が少ないぶん、爽やかに着こなせると思うわよ」


 ライラがなにを言っているのか半分くらいわからなかったが、ライラが自分のためにたくさんアドバイスをしてくれたことはわかった。コメットはくすぐったくて笑う。


「すごい、嬉しいよ! こんなことすぐに思いついちゃうなんて、さすがライラさん!」

「ふふふ、もっと言って」

「お洒落! 天才! 美人!」

「嬉しい〜〜もっと言って〜〜」


 ライラは魔法で持ってきたチェアに腰かけ、るようにして凭れた。コメットにおだてられ、気持ちよくなったところで、足を組んでテーブルに肘をつく。


「とにかく、あんたがその気ならいつでも相談に乗ってあげるわ。あんたに似合う服を作ってあげる」

「うん。ありがとう」コメットは照れくさくなる。「でも、僕、初めてライラさんに仕立ててもらうなら、三角帽子がいいって思ってるから……だから、もうちょっとだけ我慢する。でも、服はまた買いに来る」

「わかったわ。従業員にも選ぶのを手伝うよう言っておくから。いつでもいらっしゃい」

「うん!」


 元気よく返事をするコメットに、ライラは微笑む。そして、パンパンパンと三度手を打ち鳴らす。どこからともなく分厚いカタログが飛んできて、ゆっくりとテーブルの上に置かれた。


「さて。いよいよ箒のオーダーメイドといきましょう」ライラはカタログを開く。「こだわりの強い魔法使いでもないかぎり、箒を特注することは滅多にないけど、それがになるっていうなら話は別よね」


 ライラはにやりと笑んで、開いたページを指でなぞった。黒檀、紫檀、白樺。あらゆる素材で作られた箒がずらりと並んでいる。眺めるだけでコメットの胸は高鳴る。


「柄と穂は異素材でできていることが多いわね。よく穂に使われているのは針金雀枝ハリエニシダ棕櫚シュロの木の皮、椰子ヤシの葉脈。素材によって飛びかたも変わってくるから、本来ならそことの兼ね合いも考えるべきなんだけど……コメットは碌に箒を扱ったこともないでしょうし、どの素材が自分の好みかもわからないでしょうから、まずは入門者向けの素材を選ぶといいわね」

「なるほど」

「おすすめは赤シダ。コシの強さもしなやかさもちょうどいいわ。程よく安定していて暴れすぎない。こういう形のものが人気ね」

「じゃあ、それでお願いします! いくらですか?」

「あら、もう終わりでいいの? オプションで好きなだけ盛れるわよ」

「へ?」

「楽しいのはここからじゃない」ライラの目がぴかりと輝く。「どうせメリクの金で買うんしょ? はじめての箒なんだから、コメットの好きなように誂えるのよ」


 ライラはバサバサとページをめくった。オリジナルの箒へと作り替えるための、装飾のページへと移る。


「女の子に人気のカスタムはこれ。箒の穂に大粒のラメ、オーロラの粉末」

「ラメ? オーロラ?」

「箒をきらきらにできるのよ」

「箒をきらきらに!?」


 ライラは「こんな感じ」とカタログの絵を見せる。ライラの言うとおり、箒がきらきらしていた。コメットはときめきで爆発しそうになった。


「穂の色も自由に変えられるのよ。赤シダだと色味がやかましいから、たとえば黒檀っぽく上品に塗りあげて、穂先だけ別の色に染めてもいいかもね。あとは、穂の材料に好きな花を混ぜることもできるわ。飛んだあとに虹色の尾を引くことも、星を散らせることもできる」

「そんなことまで!?」

「できるわよ。珍しくもないし。ある程度箒に慣れた魔法使いなら、オリジナルの箒を持っているものよ」

「俺の箒にはギアがついてるぜ」

「男って好きよね、加速装置とかつけるの。ちなみに、あたしの箒には羽根飾りがついてる。横座りで飛ぶことが多いから、お尻が痛くならないようにサドルもついてる」あ、とライラは思い出したように問いかける。「コメットはどうやって箒に乗りたい? 跨ぎ乗り? 横乗り?」

「え、えっと、跨いで」

「だったら、腰を浮かせて重心を取る足掛けは絶対につけておいたほうがいいわ。この金色のやつがいいと思う」

「お任せします」

「柄に名前を刻印しておくといいかもね。穂先のカスタムはどうする? 黒塗りのあとに玉虫色に染めて、光が当たったときだけ色が変わるようにしても素敵よね。ああ、でも、あんたならもっと色とりどりにしてもいいかも。穂に虹色のリーフを飾って、リボンをつけてもかわいいでしょうね。イメージと近しいものは……あ、そうそう、これとか似合うんじゃないかしら」

「えっ、でも、派手じゃないですか?」

「地味にこだわる意味がわからないわ」

「なるほど……?」


 コメットは圧倒されていた。ライラの言うとおりにしたら、世界に一本の、自分のためだけの箒ができあがる予感がした。

 言葉を失いかけているコメットに、「たしかにバランスは大事よ」とライラは囁く。


「でも、はじめての箒って特別でしょ? いま引き算なんて覚えなくていいわ。足して足して足しまくるのよ。あるいは掛け算ね。コメットのどきどきの最高値を目指すの。言ったでしょう? いまの流行は?」

「黄金律じゃなくてライラ律」

「そういうこと。あたしに任せてあんたは好きなのを選びなさいよ。もちろん予算もあるだろうけど……」


 そう言って、ライラはどこからともなく持ちだしてきた算盤の鉄隕石メテオライトの珠を弾く。パチパチと動かしながら「さっきの箒にいまのカスタムでいくと……」とこぼし、コメットに算盤を見せる。


「このくらいかしら」

「……どのくらい?」

「算盤読めないの?」


 こくんと頷く。目を丸くしたライラからは「あら〜お馬鹿なのね〜」と明け透けに言われた。厭味いやみがないだけよかった。


「そもそも計算が苦手なんだ。簡単な勘定ならできるんだけど……」

「いままでよく買い物できたわね」

「持ってるお金を全部渡してお釣りだけもらってた。足りないって言われたときは買うのを諦める」

「極端すぎ。最悪メリクにつければいいけど、今日の手持ちは足りるんでしょうね?」


 コメットは有り金を出した。

 ライラはひっくり返った。


「子供にどんな額持たせてんのよあの男!」


 トーラスは「あいつってそういうところあるよな」とぼやいた。そういうところのある男からの小遣いの一部で買い物に付き添っているのがトーラスだ。この男にもそういうところがある。


「足りそう?」

「この箒がローンなしの一括で五本は買えるわよ」ライラはため息をつく。「ついでに箒の防犯登録もやっておいてあげるわ。二、三日でできあがるから、そのときは連絡を入れる。箒はこんな感じで大丈夫?」

「うんと、えーとね……」


 コメットはそこから一つ二つカスタムのお願いをして、トーラスにお墨付きをいただいてから、ライラに箒を依頼した。

 やっと箒が、自分の杖が手に入る。コメットはわくわくとした気持ちが止まらなかった。自分の願いを叶えてくれた魔法使いへ、「ライラさんは本当になんでも作れちゃうんだね」と告げた。


「なんでもってわけじゃないけどね。あたしが持ってる魔導資格ソーサライセンスは三等級だから、できることが多いってだけで」

「魔導資格の等級によって、できることが増えるんでしたっけ」

「そう。見習いから魔法使いへと認定されて五等級になれば、公の場での魔法使用と、グリモワ図書館の禁書以外の閲覧権を許されるわ。四等級になれば、魔法工学の商業的取り扱い、危険指定生物の狩猟解禁」

「三等級なら、専門的な職にも就けるぜ」トーラスが言葉を継ぐ。「人体への魔法行使、つまり魔法による施術が許されるからな」


 たとえば、二等級のケートスは、医療目的で魔法を使っている。

 また、豆の樹では、特別なお客さまに対して、魔法によるエステを案内している。

 魔法技術を磨くことで、仕事を円滑におこなうことができるのだ。魔法使いにとって、等級は箔であり、己の技量の証明だ。


「でも、大抵の魔法使いは、四等級あればどんな仕事でもやっていけるはずよ」ライラは肩を竦める。「あたしが魔導資格ソーサライセンスを取ったのだって、あたしの魔法で商売がしたかったからだし。危険指定生物の中には、美しい羽根や独特の香りを放つ生物もいる。装飾品や香水の材料にはこだわりたかったから、自分の手で採集したかったの」

「へえ」

「まあ、これを加工してほしいって、お客さまが材料を持ってくることもあるけどね。コメットのその髪飾りとか」


 ライラにそう言われ、コメットは反射で、滅茶苦茶な髪をまとめている髪飾りへと目を向けた。自分の頭についているため、もちろん視界に映ることはなかったけれど、星をかたどったその髪飾りは、落ち着いた金色の向こうで、炎のような光を揺らめかせていた。


「大先生がくれたんですけど、これもライラさんが作ってたなんて」

「メリクが珍しい金属を持ってきたのよ。真鍮にしてはきらきらしてて綺麗だし、金にしては軽いし、こんなの見たことがないわ。実はオレイカルコスだったりして」

「《大洪水》で沈んだ?」

「まさかね!」

「「アハハハ」」


 声を揃えて笑う二人を眺め、トーラスはなんとも言えない顔をした。

 一笑いが落ち着いたとき、コメットはショーウインドウに飾られた羽衣のようなドレスを思い出した。絵にも描けないほど美しい、花の化身がごとき純白のドレスだ。


「そういえば、店の前のドレスはなんですか? すごく綺麗で見惚れちゃった」

「ああ。あれはウエディングドレスよ。東ゴンドワナ大陸にしか自生しない植物の繊維と、レムリア大陸の竜の島の生き物の毛を紡いで、真夏の月光の下で生地に仕立てると、あんなふうに繊細な布にできあがるの」

「僕にはわからないけど、あれだけ素晴らしいんだもの、やっぱりすごく手間がかかるんですね。あれも売り物ですか?」

「ううん。あたしの」


 コメットは目を見開かせて、「えっ、ライラさん、結婚するんですか?」と両手で口元を押さえる。コメットの反応がおかしかったライラはくすくすと笑い、「昔のよ」と答えた。


「あたしって男運ないでしょ? 昔、唯一上手くいきそうだったひとがいたんだけど、死んじゃったのよ、そのひと」


 えっ、とコメットは再び声を漏らした。衝撃的なことを言われた気がしたのに、呆気に取られた先での告白だったから、碌に反応できなかった。ただぼんやりとライラを見つめる。

 ライラは青緑の瞳をわずかに細めて、思い出すように滔々と語る。


「星団殺しに殺されたの。八十年くらい前かな。彼は近衛星団の魔法使いだった。ミルクティーみたいな声でけらけら笑うひと。ちょっと抜けてるけど、ユーモアはたっぷり。あたしが眠ってる隙に指輪のサイズをこっそり測ろうとするのよ、おかしくて狸寝入りしちゃった」


 昔の恋人を語るライラは穏やかだった。どこか夢見心地で、眼差しはしっとりとしていて、けれど、その裏側に切ない気持ちが微塵もないわけではなかった。


「あたしも浮かれてた。天に舞い上がるような気持ちだった。それで羽衣みたいなドレスを仕立てたの。もうすぐ結婚の話が出ると思ったから。そりゃあ手間暇かけて、丹精こめて作ったわよ。あたしのどきどきの最高値。でも、結局着られなかったから、もったいなくて、あそこに飾りっぱなしにしてあるの」


 思い出、とは違う温度だと、コメットにもわかった。

 目の前のライラは平然としているけれど、恋人を殺された当時のライラを思えば、そして、あの美しいドレスの裾の中に潜んだ悲しい秘密を知ってしまえば、コメットは俯くしかなかった。


「……つらかったですよね」


 そんなちゃちな言葉でライラの気持ちに寄り添えるわけではないと、コメットも理解している。それでも、どうにか慰めたくて、こんな言葉しか出てこなかった。

 ライラは二百年以上生きた大人なので、そういうコメットの真心も葛藤もあたたかく受け入れられる。苦笑しながら、「そうね」と答えた。


「それこそ、彼を亡くしたときは、洪水ができるんじゃないかってくらい泣いたわ。彼に会いたくて、夢の中に現れるのを指折り数えて待った。出てきてくれたときは嬉しくて、夢から覚めたときは絶望した」

「…………」

「あのひとの前にも恋人はいたし、あのひとの後にも恋人はいるわ。なにも特別愛してたわけじゃない。だけど、別れるより先に終わってしまったから、未練になっちゃった。もしも、星の彼方から会いに来てくれたなら、一も二もなくその手を取ると思うわ」


 目を瞑りながらそのように語るライラは、星になったかつての恋人へ想いを馳せる。夜空を流れる燦々とした川の一粒に、の人がいるのなら、ライラの声を聞いてほしいと、コメットは思った。

 どこかしょんぼりするコメットを見て、ライラはふっと笑う。コメットの肩に手を置いて「気にしなくていいのよ」と囁いた。


「どうせ昔の話だし。突然の別れなんて珍しいことじゃないわ。長い時を生きていれば、そういう経験の一つや二つはあるものよ」ライラはトーラスを見遣った。「貴方はどう? 今でも思い出すような女性はいらっしゃるの?」

「まあね」


 トーラスはおどけるように肩を竦める。コメットはトーラスへと目を向けて、「君も?」と尋ねた。トーラスは「聞きたい?」としたり顔をした。


「意外。トーラスにも恋人なんていたの?」

「俺もそれなりに生きてるからな。恋人も結婚相手もいたさ」

「えっ、奥さんがいるの!?」

んだよ」トーラスは頬杖を突く。「もう死んでる。寿命でね。相手は魔法使いじゃなかったから、俺みたいに長生きはできねーの。恋人は、それこそ星の数ほど作ったけど、結婚したのはその一人だけ」

「唯一結婚を望んだ相手だったのに、添い遂げようとは思わなかったの? 長寿の魔法を解いて、奥様と一緒に死ぬ道だって選べたでしょうに」

「俺たちはそういうんじゃなかったんだ」

「でも、相手の女のひとは、トーラスよりもずっと先に自分が死んじゃうってことを気にしなかったの?」

「ああ。歳や寿命の差も、自分だけが老いることも気にしなかったよ。結婚する前に、俺が一緒に死ぬことも選ばないと伝えても、それでかまわないって」

「気丈な女性だったのね」

「だろ?」


 ただ、「私が死ぬ間際に貴方も殺すから、嫌なら逃げてね」とだけ言った。魔法を使ってどのようにも逃げられる自分にそう言うのが愉快で、トーラスは他の女性に目移りもせずに、彼女に寄り添った。

 彼女が死ぬ日、トーラスは魔が差すように「殺されてもいいかな」と思った。一緒に死んでもいいと思えるほど愛しい時間をすごした。だから、トーラスは逃げなかったのに、彼女はトーラスを殺せなかった。皺々しわしわの顔で泣きながら微笑み、「愛が溢れてできない」と言って、穏やかに死んだ。

 トーラスの話を聞いて呆然としているコメットへ、トーラスは「いい女だろ」と肩を竦めた。ライラは「メリクの友人にしては見る目あるのね」と半ば失礼なことを言った。


って、信用ないのな、あいつ」

「大先生ってそんなに見る目ないんですか?」

「ないでしょ。あの顔で恋人もいないのよ? 火を見るよりも明らかだわ」

「たしかに、大先生が休日に女のひとと出かけるなんて想像できないかも……それこそライラさんと飲みに行くときくらい」

「まあ、あんな男、精々飲み友達が限界よね。見る目があるのは周りの女のほうかも」ライラはせせら笑った。「メリクはたしかにいい男だし、肩書きも立派だけれど、中身はメリクだものね。二物は与えても三物は惜しんだんだわ、天はわかってる」

「惜しんだのはなに?」

「性格」


 そういうことをずばっと言ってしまえるのだから、サダルメリクもライラもどっちもどっちなんじゃ、とコメットは思った。

 その後、ややあってから、ライラが「長話しちゃったわね」と言ったので、コメットとトーラスは豆の樹を出ることにした。

 正午すぎにはここに着いたはずなのに、気づけば二時間も経っていた。それくらい夢中になっていたことをコメットは知る。軽やかな「またお越しくださいませ」という声を背に受けて、二人は豆の樹を出たけれど、扉が閉まっても、コメットはショーウィンドウのマネキンが着た純白のドレスを見ていた。

 そんなコメットを見下ろし、トーラスはあえて明るい声で「よかったな」と声をかけた。


「あっ、うん」コメットは振り返る。「付き合ってくれてありがとうね、トーラス」

「いや、俺も足掛けを新調できてよかった」ちゃっかり自分も買い物をしていたトーラスは思いを馳せる。「しかも穂の羽根飾りまで買っちまった……倹約家の俺に金を遣わせるとは、やるな、あのミレディ」

「喉が渇いたね。ちょっとお茶する?」

「奢り?」

「逆に君が払うとかいう天変地異ある?」

「わかってるじゃん! 行こ行こ。俺フロートの気分。建国祭ムードにかこつけてぼったくり価格で売られてるブルーレモンフロートを飲みに行こう」

「いいけどお金足りるかなあ」

「箒四本分の持ち合わせで買えないとかウケる」


 西通りを抜け、中央広場まで戻り、コメットとトーラスは南通りに向かう。コメットにとっては南通りのほうが勝手知ったる場所なので、なんだか地元に帰ってきたような安心感があった。

 南通りでは、風船を持った子供たちがはしゃぎまわり、いつもは見ないような新しい露店が出店されていた。また、いつもは開いている店が開いていなかったりして、表に「出張中」という看板が吊るされてある。建国祭なので、帝都の外れのブルースではなく、中心地にまで稼ぎに行っているのだろう。

 さて、どの店に入ろうかとコメットが思っているところに、見知った後ろ姿を二人分見つけた。瑞々しいペリドットの髪と、それに並ぶ夜色の髪。サダルメリクと、おそらくカノープスだ。

 コメットは声をかけようか悩んで、でも今朝ああやって言いつけられたしな、と躊躇う。

 すると、隣のトーラスも「げっ」とサダルメリクに気づく。コメットと一緒にいるところをサダルメリクに見られると、余計なことを言っていないかなどといちゃもんをつけられそうで面倒なのだ。


「俺はいませんって言っといて」


 そう呟いたトーラスが指を鳴らす。瞬く間に羽虫に変身したトーラスは、コメットのうなじのあたりに身を潜め、やりすごすことを選んだ。フロートのタダ飲みを諦めるわけがない。

 それと同時に、たまたま振り返ったカノープスがコメットに気づき、陽気に手を振った。サダルメリクもコメットに気づいて、苦笑しながらも朗らかに迎える。

 その様子にコメットもほっとして、二人のもとへ近づいていく。


「やっほ、コメット」

「こんにちは、カノさん。大先生もお疲れさまです」

「ありがとう。買い物帰り? 一人で?」

「はい。


 カノープスは「は?」と素っ頓狂な声を漏らしたけれど、サダルメリクは深くはツッコまずに「そう。いい箒は買えた?」と尋ねた。


「はい! ライラさんが素敵な箒を作ってくれるんです! できあがるのが楽しみ!」コメットは二人を順番に見遣る。「大先生とカノさんは巡回中ですか?」

「ああ」カノープスが頷く。「って言っても、ブルースは治安も悪くないし、なんにもないけど。制服も着てないから、むしろこっちまでちょっとしたお祭り気分になっちまう」


 サダルメリクもカノープスも、いつもの制服や外套マント、三角帽子を脱いで、気の抜けた普段着の格好をしていた。

 サダルメリクは黒のタートルネックに厚手のチェスターコートを合わせている。カノープスは詰襟のジャケットに白いマフラーを巻いていた。制服を脱いだ二人は近衛星団の魔法使いではなく、祭日を歩き回る二人組の青年だった。


「コメットはこれからどこに?」

「ええっと、喉が渇いたから、どこかのお店に……でも、知ってるお店は閉まってるところも多くて、どうしよっかなあって迷ってました」

「だったらおすすめのカフェがあるぜ!」カノープスは声を跳ねあげる。「商店街から外れたところにある路地裏カフェで、さっき通ったけど開いてた。毎年建国祭の一週間はバニラワッフルをサービスしてくれる。案内しようか?」

「わあ、ぜひ! あ、そこって、フロートもありますか?」

「あはは、あるよ。着いてきな」


 カノープスが先導して、カフェまでの道を案内する。

 サダルメリクの隣に並びながら、コメットは「お仕事の邪魔しちゃってごめんなさい」とこぼした。サダルメリクは「気にしてないよ」と返す。実際、今回の件に深く関わってほしくなかっただけで、コメットに気まずい思いをさせたいわけではなかった。

 やや歩いて商店街を抜ける。そのとき、ある飲食店の前で、客と店員が揉めているのが見えた。昼間から酒を飲んでいた客が酔っぱらって暴れているらしい。カノープスは「おいおい」と呆れる。


「大丈夫かな」

「怪我人が出ても困るな。止めようか」

「コメットは……」と、カノープスは振り返り、少し悩んでから。「せっかく遊んでるのに、巻きこんじゃ悪いな。カフェまで案内するよ。コメットを送ってから俺も戻ってくるから、メリク、あっちを頼んでいい?」

「いいけど、二手に分かれるの?」

「ちょっとのあいだだけだから大丈夫だろ。行くぞ、コメット」

「あ、はい。ありがとうございます」


 コメットは頭を下げる。サダルメリクのほうも見遣れば、ひらひらと手を振られた。行っていいということだ。コメットはカノープスと一緒にカフェを目指す。

 連れてこられたのは人通りもめっきりと少なくなった路地裏だった。かろうじて建国祭の装飾が残っている。


「ここ、昼はこんなだけど、夜になると賑わうんだ。そんな中にぽつんとあるカフェなんて穴場だよな」

「このあたりはよく来るんですか?」

「たまに。カフェ巡りが好きなんだよ。帝都のカフェには大概行ったことあるぜ」

「すごい」

「長生きしてるからな。暇すぎていろいろ回っちゃった」カノープスは思い出すようにこぼす。「星団に入る前は、アトランティス大陸のあちこちを旅してた。それこそ帝国として統一されるよりも前から。戦禍で廃れたところもあるけど、こうして祝えるだけ月日が経ったんだよな……平和になってよかったよ」


 カノープスは近衛星団の中でも長い時を生きた魔法使いで、齢は八百歳になるのだとコメットは聞いた。コメットの見知らぬものをたくさん知っていて、聞き知らぬものもたくさん知っている。コメットは顔を綻ばせて口を開いた。


「ねえねえ、カノさんは他にどんな——」


 と、そこで、真昼の空気を切りつけるような乾いた音が鳴る。

 これまでにコメットが聞いたことのないような大きな音で、まるで巨人が拍手したみたいだった。

 驚愕に体を震わせたところで、コメットはカノープスの体が傾いたのを見た。


「カノさん?」


 カノープスが膝をつく。低く呻きながら震えるその体を追うようにしゃがみこんだとき、コメットは見た。

 カノープスの腹から、真っ赤な血が流れている。

 コメットは息を呑む。我が身が凍るのは一瞬だった。指先から、心臓から、温度が消えていく。

 苦痛に歪むカノープスは額に汗を掻く。そのあいだにも、カノープスの服は血で滲んでいく。少ししてから蹲るように横たわった。

 コメットはわけがわからなかった。

 どうして、なんで急に、怪我してる、カノさんが、早く誰かを呼んで、

——悪寒。

 凍った体がさらに凍てつく。氷漬けにされたみたいに動けなくなる。それほどまでにおぞましいなにかが、すぐそばまで近づいてくるのを感じた。直感的に死が頭をぎった。

 きっと、どんなに鈍くて能天気な者でも、目の前にしたら第六感が叫ぶだろう。生きて帰りたかったら今すぐ逃げろ、と。

 コツン、と足音がした。

 コンバッドブーツが地面を鳴らす音。

 まるで魔物の蹄みたいだとコメットは思った。お願いだからこっちに来ないで。あまりの恐怖に心臓が異常な脈を打つ。カノープスの背を抱く指が蒼褪める。


「震えちゃってるの? かわいいな」


 近づいてきた魔物が言った。

 コメットはまだ顔を上げられない。

 けれど、その魔物がカノープスを攻撃したことは理解していた。そうでないはずがないほどの怖気に支配された。次は自分かもしれない。怖い。存在感だけで死んでしまいそう。


「安心していいぜ。俺は若者や弱者は手にかけない。俺が狙うのは近衛星団とかいう魔法主義を増長しかねん出る杭だ。出る杭はっとかなきゃみんな平等になれないだろ? 俺は不公平が嫌いなんだ。いや待て、嫌いって言葉はストレッサーだな。ごめんな、訂正するよ、好きじゃないんだ」


 魔物がなにを言っているのか理解できない。紡がれる言葉はただの音の羅列だ。不気味で嫌らしくて、舌なめずりや爪を研ぐときの響きに似ている。

 コメットは唾を飲みこんで、やっとの思いで目を遣った。

 魔物は、夜叉五倍子やしゃぶしで染めたように黒い、フードのついた外套コートを羽織っていた。真昼の空の下、穏やかな街には不釣り合いなくらい、目深にフードを被っている。フードの奥から悪魔的な紫の瞳が覗く。魔物が牙を見せて笑った。


「どうも。最近流行りの星団殺しだよ」

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