02

「下水が溢れたのか……」


 アランが自宅に続く道に向かおうと大通りから脇道に曲がったところで、道路の真ん中のマンホールがあった場所から噴水のように真っ黒な水が吹き出していることに気がついた。その勢いからしてあと十分後にはここいらの道路が冠水しそうだ。とはいえ、アランにほかに行く当てはない。


 彼は自分の住んでいる最上階までは水が来ないことを祈りながら、下水がわきだしつづける道路の脇を歩き出した。彼の足元で雨水と下水が混ざりあい黒い汚水となる。


「この靴もスーツもゴミだな」


 最も安いスーツと靴を選んだとはいえ、この経費は自費なのだ。アランはその不条理にわずかばかりの怒りを覚えた。


 ――そのときである。


 彼の足元の黒い水が『立ち上がった』。


 ――噴水のように『噴き出した』のではなく、まるで生き物のように『立ち上がり』、彼の目の前で『形となった』。


 黒い水は一瞬で『それ』となり、彼の目の前に『立っていた』。



 『それ』の背丈はアランが見上げるほど高く、7フィート(約210cm)はありそうだった。全身、夜を凝縮したような真っ黒で、遠くから見るとまるで裾の広がったワンピースを着ているかのような形だ。しかし至近距離にいたアランは、その下半身がグチャグチャと絡み合う触手であることや、上半身は人間に近しいが腕の代わりに細い節足が六対あることや、頭部には鼻や口はなく無数の複眼がギョロギョロと動いていること、腹部にはおぞましい口らしき器官がついていることを一見した。


 『それ』は一見で『クリーチャー』とわかるものだった。


 アランは驚きのあまり息を止め、『夢を見ているのだろうか』だとか『これで死ぬのだろうか』だとか『死ぬならその前にお金を使いきればよかった』だとか、そういうどうでもいいことを考えた後、『寒いところで死にたくなかったな』としみじみ思った。


 彼は目の前のクリーチャーから逃げたいというよりは、あたたかいシャワーが浴びたかった。驚きのあまり恐怖を感じる余裕もなく、たまった疲れ故に死の恐怖よりも心身の疲労が重く思えた。


 そしてアランが息を止めている間にクリーチャーは動き出し、触手の一本をアランに伸ばした。おぞましい触手はゆっくりとアランに伸ばされていく。


 アランは咄嗟に――その触手を右手でつかんだ。


 それはヌメリと生温かく、スライムのようなものだった。生理的に受け付けない汚水のような臭いはするが、それよりもその生温かさがアランには優しく感じた。そのぐらいアランは全身が冷え切っていた。アランは自分でもなにをしているのだろうと思いながら、その触手を自分の頬に当てる。やはりそれはあたたかく、アランには気持ちがよかった。


 がしかし一方で触手はヌメヌメと粘度の高い液体を出し、まるでアランから逃げだそうとするかのように震え出した。人でいうならば『困惑』しているような様子だ。アランはそのことを不思議に思い、クリーチャーを見上げる。


 クリーチャーも遥かな高みから足元のアランのことを見つめているようだ。ギョロリとしたその目がアランを静かに見下ろしていた。だが、クリーチャーの複数の目はアランと目が合うと『慌てたように』目をそらした――まるで『片思いの相手と目が合ったことに恥じ入る乙女のように』。


 アランがジイとそのクリーチャーを見ていると、そのクリーチャーはちらりとアランを見て、それから慌てたように目をそらし、そうしてまたチラリ、とアランを見る。クリーチャーの触手はグチャグチャグチャとさらに絡み合い、腹部の口らしきものもキュウと閉じる。


 人であれば『モジモジしている』というのがぴったりくるその動作。


 アランはその反応に怯えるではなく、『こんな風に見つめられたことはない』と場違いなことを思った。

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