第一話 迷

01

CHAPTER01 THE LOST


 滝のような雨の中を一人で歩く彼の右手には骨の折れた傘、左手にはブリーフケース。着ているものは量産型のグレーのスーツに安物の革靴。どれもびしょ濡れで真っ黒で、男の髪色そっくりになっていた。


 その真っ黒な男の名前は斉藤アラン。


 父にアメリカ人、母に日本人をもち、アジア人にしては彫り深く、しかしマンハッタンの町中で「つり目!」「アジア!」「チャイナ!」と呼び掛けられる程度にはアジア人らしい外見をしている。そして背丈は5.3フィート(約160cm)と小柄で華奢な体躯をしているため、もう二十八歳になるというのに未だにティーンと間違われる。そんなわけで生まれも育ちもこのマンハッタン、職場までマンハッタンという超エリートでありながら、彼はこの街が苦手だった。他を知らないというのに、とにかくこの街が苦手でそうして嫌いだった。


 そんな彼がわざわざ嵐の日に街を歩いていたのには二つの理由がある。


 一つは『会社の上司からなめられているため』であり、一つは『その上司が仕事ができないため』である。


 彼は日常的に上司の仕事をフォローし、カバーしていた。中間管理職としてできる限りのことをし、部下からは敬意を払われていた。だがその上司は彼の外見から「ベイビーちゃん」だとか「そんな細い目じゃ世界が半分しか見えないだろう」だとか「チームアジアのリーダーとしては優秀だ」だとか、悪気なく、しかし文化と意識に深く根付いた上での差別的な発言を繰り返していた。


 この日も上司はアランにリカバーの指示を出し、自分は家のベッドでホームドラマを満喫し、そのことになんの疑問も持っていなかった。彼女は『アランはマンハッタン在住だからなんとかなるだろう』と、アランに人権があるという当たり前のことをすっぽり忘れてしまっていたのである。だからアランはすでに二日も寝ていないというのに、そういうことになったのだ。


 同時にアランもまたそのことに慣れており、上司に声をあげることも、逆らうこともなく、言われた通り嵐の中出勤し仕事を終え、嵐の中帰宅をしていたのである。


 行きに使った傘の骨はバキバキに折れており、靴の中どころかパンツの中までぐしゃぐしゃにびしょびしょ。雨のせいでメガネは役に立たずネオンの消えた街は暗く冷たい。彼の視界にうつる街並みは彼の心情にぴったりであった。


 彼は暗く下水の匂いに満ちた街を暗い顔で一人歩いていた。



 さて、しかし物語は唐突に始まるものだ――平和が急に終わり戦争が始まるのと同じように。


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