第9話 高一の夏休み、最後の日 前編
「……今日は画面が真っ白じゃないか。どうしたフミヨシ」
僕はベッドに寝そべって、じいちゃんの声を聞くともなしに聞いている。声は聞こえているのだけれど、その言葉は意味を持たず、右から左へ流れて行く。
さきほどのなつみとの会話を思い出し、思わず目を閉じる。ジョギングを終えて、クールダウンがてらに歩いている時のことだ。
「明日から2学期かぁ。夏休み、終わっちゃったねぇ」
「うちは始業式は無いけどHRだけやるって。宿題提出して終わり」
「あー、うちもそんな感じ。私はその後部活あるけどね」
なつみの高校のテニス部は、活動時間を短縮して再開されるそうだ。習っている空手の教室も同様で、今までの半分ほどしか通えないけれども再開される。ということは、この夜のジョギングは……こちらも半分以下に減るか、もしくは無くなるか。
せっかく仲良くなりはじめたところだったのに。モンキチからふみよし君に格上げしたばかりだというのに。
『接吻の際のマスク問題』なんて話し合ってる場合じゃなかった。だってまだ、付き合ってさえいないのだから。どっちにしろ、マスク問題の結論は出なかったわけだけれども。
「終わった、な……」
ぽつり、言葉が溢れた。
「お? どうしたフミヨシ。いつにも増して腑抜けた顔をして。熱でもあるのか?」
じいちゃんの声が頭の上から降ってきた。目を開けると、目の前にじいちゃんのドアップ。ウザい。
「夏休みが終わった。学校が始まったら、忙しくなる。なつみと会う時間も減って、また前みたいに、顔見知り程度の関係に逆戻り」
「それが不満なのか」
「不満っていうか……残念だなって」
「残念、か。それでさっきから、ぼんやりと寝そべって貴重な時間を浪費しとるわけだな。なんとも腑抜けたことよ、情けない」
「……うるさいなあ」
「そうやってぐずぐずしているだけなら、楽じゃからな。勇気を振り絞る必要も無く、傷つくことに怯えずに済む。そのかわり、胸の高鳴りや心が震えるような喜びも、ない。平穏で空虚な、色の無い人生。それもよかろう。そういう生き様もある」
「そう思うなら、ほっといてよ。ってか、いい加減帰れって」
「なんじゃ。何も行動を起こさぬくせに、八つ当たりだけはいっちょ前か」
ムッとして、頭の下の枕を抜き取って投げた。枕はじいちゃんをすり抜けて天井にぶつかり、僕の顔の上に落ちた。半透明のじいちゃんが邪魔で距離感が掴めず、受け止め損なったのだ。余計に腹が立って、枕を床に投げ捨てた。
「別に八つ当たりじゃねーし。今日のスイーツは仏壇にあげとくから、それ食ってさっさと帰れよ」
今日の昼間、なつみと一緒に作った、ルマン*のアレンジレシピ。クリームチーズとフルーツのタルト。昼間の楽しかった時間を思い出し、胸の奥がズキンと痛んだ。その痛みがさらに僕を苛立たせる。
「そうかそうか。そうやって、好きなだけ腐っておれば良い。取り返しのつかない頃になって、後悔して自己嫌悪に陥れば良い。それも、おぬしの自由だ。では、ワシは仏壇の部屋に行っとるかの」
そのまま消えればいいのに、じいちゃんはわざわざ扉をすり抜けて出て行った。「夏休みは、ほんとうにもう、終わったのか?」と、壁掛け時計を指差しながら……
時計の針は、10時45分を指している。明日から学校。電話するにはギリギリの時間かもしれない。
先ほど投げ捨てた枕を拾う勢いを借りて立ち上がり、のろのろと机に向かう。なんでこんなに体が重たいんだろう……
机の上のスマホを見つめるけれど、着信はない。当たり前だけど。
電話するか? ライン送るか? でも、何を話せばいい?
なつみは、僕に好意を持ってくれてる。でもそれは、この間のことがあったからだ。なつみは今でも、僕が彼女を助けたのだと思っている。
もちろん、説明はした。「犯人達は逃走中に転んで怪我をし、動けなくなっていた」と。だってまさか、じいちゃんたちが霊体験でビビらせて足止めしていたなんて言えないから。
でもなつみは、それでも僕が助けてくれたのだ、と言ってきかない。
今はまだ、事件の記憶も新しいだろうから、僕を慕ってくれるているかもしれない。でも、学校が始まったら? なつみにはもっと素敵な出会いがあるだろう。そしたら僕のことなんて……
「平穏で空虚な、色の無い人生」
さっきのじいちゃんの言葉が蘇る。それが、僕の人生? それでいいのか? もちろん、今なつみに告ったとして、その後の人生がずっと薔薇色になるわけじゃないだろうけど……
飛び跳ねるように、立ち上がっていた。肚の底から突き上げるような衝動が、僕を走らせる。スマホを握って部屋を飛び出し、階段の手すりを滑ってその勢いのまま玄関へ。スニーカーを履くのももどかしく、夜の住宅街を駆け抜けた。
「どうしたの? 急に……」
なつみは驚いた様子だ。そりゃそうだ。さっき別れたばかりの男が、30分と経たずに戻ってきて、目の前で息を切らしてるんだから。
「いや……ちょっと話したくて」
ずらしていたマスクをきちんと装着し、僕は通話を切ってスマホをポケットにしまった。なつみもスマホを玄関の棚に置き、外へ出てドアを閉めた。
どうしよう。必死に走ってきたけど、何を話すかなんて決めてない。ただ、走らずにはいられなかったんだ。
門扉と3段の階段を挟んで、なつみを見上げる。なつみは下唇を巻き込むようにして噛み、僕を怪訝そうに見下ろしている。
「……明日から学校じゃん? そしたら、あの……ジョギングとかって、これからどうするのかなって」
違う違う違う。そうじゃないって。自分ちだから当然だけど、なつみはマスクをしていない。ヤバい。なんかめっちゃ可愛い。暴漢に襲われかけた日、うちでスイーツ食べてったときだって、顔見てたはずなのに。めっちゃ可愛い。心拍数ヤバい。
「そんな話を、わざわざ?」
うん、そうなりますよねー。
「ちがくて……あの、さ。学校別々だから、会う機会減っちゃうかなって」
「……お菓子作り、また教えてもいいよ」
うん、あ、それは嬉しい。でも……俺が今言いたいのは、そうじゃないんだ。俺が言いたいのは……
「なつみ、俺……好きとかそういうの、まだよくわかんないんだけど」
なつみが小さく息を吸った。ヒュッ、て小さな音を飲みこんだのが聞こえた。
「なんか俺、なつみと一緒に居ると楽しい。もっともっと、一緒にいたいって思う。だから、よかったらこれからもまた」
「ふみよし君」
言葉を遮られた。静かな声だけど、強い意志の宿る声。膝の力が抜けそうになる。胸の奥に、突き刺されたみたいな痛みが走った。やっぱり、無理だよね。俺なんか……
「私、ふみよし君のことが好きだよ。だから、あとはふみよし君が、私のことをちゃんと好きになればいいだけなんだよ。わかる?」
……えっと、わかんない。今、なんて……え、えええ?
「何よ、そのびっくり顔。マスク越しでもわかるって、どんだけよ」
だって、だって。キミを助けたのはボクじゃなくて……
「でも、あの時は、犯人達が転んで怪我してたから、俺は通報しただけで」
「それはもう聞いたよ。でもね」
なつみが玄関の階段を下りて、門扉を開けてくれた。階段の2段目に腰を下ろして隣の空間を指し、僕を見上げる。ギクシャクとした動きで、僕も隣に腰を下ろした。
「警察の人が言ってた。あの時、ふみよし君がおじさんとおばさん両方を呼んだのって、暴漢に襲われた直後だから、おじさんだけだと私が怖がるんじゃないかと思ったからだろう、って。違う?」
「いや、あの時は咄嗟にそうしてて……でも、言われてみればそんな意識もあったかも」
なつみはフフッと笑った。
「キミは呆れるほど馬鹿正直だな、モンキチ君。今、カッコつけようと思えばつけられたのに」
「……すんません」
「でもね、キミは咄嗟にそういう判断ができるくらい……ほんとに、優しいんだよ」
いやいやいや滅相もない。買い被りすぎですよ、俺なんて……と思ったところで、さゆりんとさゆりばあちゃんの顔が交互に浮かんだ。
『胸を張って、先祖代々受け継いできた遺伝子を誇りなさい。あんたは、あたしたち先祖の代表なんだから』
僕は頑張って背筋を伸ばし、なつみの目を真っすぐに見つめた。ちょっと唇が震えちゃってるけど、マスクで隠れて見えないはず。うん。
「それにね」
なつみも僕をじっとみつめ返し、言葉を継ぐ。
「おじさんとおばさんに私を託した後、『追いかける!』って走って行った後ろ姿、すっっっごく、カッコ良かった」
そして、信じられないことが起こった。
なつみの指が僕の肘に触れた。僕の目を覗き込む、潤んだ瞳。つるんと小さく可愛らしい鼻。柔らかそうな桜色の唇。彼女の顔が次第に大きく……いや、近づいて……
マスクからはみ出たほっぺたに、温かく柔らかな感触。これは……今のは………
「私のこと、ちゃんと好きになったら告白しに来てよ、ふみよし君。ただし、そんなに長くは待たないかもだけど」
なつみはパッと立ち上がると、僕の方を振り返ることなく家へと駆け込んだ。
玄関のドアが閉められても、僕はその場で動けず、しばらく呆然としていた。
そんなことされたら、そんなことされたら………大好きになるに決まってんだろーーーーーっ!!!
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