第8話 甘酸っぱいのはケーキだけ?


 彼女の細い指が、僕に触れた。それは偶然だった。火にでも触れたみたいに、互いに手を引っ込め、思わずハッと見つめ合う。


 時が、止まった。


 僕の心臓の音だけが爆音爆速で鳴り響き、彼女から目が離せない。視界一杯に、彼女の顔。驚きに見開かれた目。マスクの下に隠れた、つるんと小さく可愛らしい鼻と柔らかそうな桜色の唇。彼女の顔が次第に大きく……いや、近づいて……


(ちゅ、チューとかってどうすんだろ。そうだ、まずはマスクを。マスクを外さなきゃ)


「ハードル高えな、オイィィッ!!」


 思わず叫びながら、ベッドにダイブした。枕を抱きしめて顔を埋め、右に左に転げ回る。


 どうすんの、ねえどうすんの? マジで。だってドラマとかではそういう時ってマスクしてないじゃん。俺が外すの? どっちを? 先に自分のを外して……って、ちょっとマヌケじゃない? でも、先に相手のを……みぎゃああああ、エロい! それはエロい気がする!! よくわかんないけど!!! 待て待て待て。そっと手を伸ばして、指先で髪を掻き分け優しくマスク紐に触れて……ってムゥーリィィィ! そんなことしたら死んじゃう。心臓爆発して死んじゃう。マジでみんなどうしてんの? こんな試練乗り越えてんの? 誰か教えて、マジで!!! たすけてブンえ……



「相手はなっちゃんか」

「うわああああああああああ!!!」


 あっぶねえ、心臓止まるかと思った。思いっきり叫んじゃったけど、顔が枕に埋まってたおかげで外に声は漏れてないはず。たぶん。


「……じいちゃん……心臓に悪いから」


 枕を抱きしめたまま飛び起きて壁に張り付き、息を整える。ひっ、ひっ、ふーーー。ひっ、ひっ、ふーーー。



「妄想恋愛小説は、バレた時に傷が深いぞ。身バレ対策は万全にしとるのか? 相手の描写が詳細過ぎても特定される。名前、容姿、生活圏や行動範囲はフェイク盛り盛りにせねば。内容もじゃ。経験もなしにあり得ん流れなど書こうものなら即座に『妄想乙』と」

「だからなんでそんなにネット事情に詳しいんだよっ!」


 ようやく息が整った。でもまだ胸がドキドキしている。こんなドキドキ要らねえ。


「で、これは妄想か? それとも本当に……」


 なんでじいちゃんにそんなこと報告しなきゃいけないんだよ。でも……でも……ここは屈して、なんとか情報を得なければ。だって、友達とかに相談したら絶対根掘り葉掘り聞かれるし、そもそも経験者が周りに居ない。モテない君ばっかだし。いや、実は居るのか?


「……一応、ほんと」


「ほう。で、相手はやはり、なっちゃんか」


 やけに真面目な顔のじいちゃんに、僕は黙って頷いた。枕はまだ手放せない。


「この文章は、発表するのか?」

「しないよ! するわけないじゃん。ただ、思い出してたら自然と書いちゃっただけで」


「そうか」

 じいちゃんは表情を和らげ、大きく頷いた。


「で、フミヨシよ。したのか?」


「したって、何を」

「接吻」

「せっ…」


 ゲホゲホと、大きく咳き込んでしまった。苦しい……


「してないよっ!」


 お菓子作りの最中、偶然ちょっと手が触れちゃっただけで……そんで、十秒ぐらい見つめ合っちゃっただけで……いや、ほんとは2秒くらいだったかも。でも、一瞬がやけに長く感じたんだ。

 それに……マスクしててもわかるぐらい、なつみのほっぺた、赤くなってた……


 僕は再び、枕に顔を埋めた。あああああああ!!! なんだコレ!!! なんでこんなに、胸が苦しいんだぁ!! きゅうぅぅぅってなる! きゅうぅぅぅぅって!!


「甘酸っぱいのぅ………」


 呟くじいちゃんの声が、ニヤニヤしている。けど、知るかぁ、そんなもん!!


「身悶えしているところ、悪いがの。フミヨシ」

「むぅ」


 枕の下から返事をしたら、変な声になった。けど、知るかそんなもん!


「実在の人物をモデルにする場合、慎重すぎるほど慎重にせねばならんぞ? 下手をすると、相手を酷く傷つけるかもしれん。それは例え、相手をどんなに良く書いた場合でも、じゃ。モデルにされること自体を嫌う人もいるからな」


 枕から目だけを出して、じいちゃんを見た。声のニヤニヤは消えて、また真面目な顔になっている。というか、ちょっと心配そうな顔にも見える。


「わかった。そんな予定は全く無いけど、もし誰かをモデルに書くことがあれば、必ず了承を得るようにする。内容も事前に伝えて、許可してもらう」


 安心したように、じいちゃんは微笑んで頷いた。


「ときにフミヨシ……」


 あ、スイーツかな? 今日のは昼間作った……


「接吻する時は、マスクはどうするんじゃ?」



 じいちゃん、まさかの戦力外 ——————



 💋



 初めて作ったお菓子は、桃と紅茶のパウンドケーキだ。一人でも再現できるようにと、まずは簡単なものから……という話だったが、なかなかどうして、お菓子づくりがこんなに手間のかかるものだとは思わなかった。

 牛乳パックで型を作って、ホットケーキミックスやら砂糖やら分量を正確に計って、牛乳と茶葉をあっためて、桃を剥いて切って、混ぜて、焼いて、冷まして……

 こう書くと簡単そうだが、焼きあがるまでに1時間以上かかったと思う。

「失敗の少ない、簡単なやつだよ」って、なつみは言ってたけど。これで簡単なら、今まで食べてきたコンビニスイーツって、どれだけ手間かかってんだか……


 そうそう、砂糖をあんなに使うのにも、びっくりしたな。

 だからなつみは、ダイエットしたい時にこそ自分で作るんだって。砂糖の量にドン引きして、少し食べただけで満足するから、って。なんか可愛いな。ふふふ。



 緩めにホイップした生クリームを添えて、じいちゃんへ手渡した。


「これ、生まれて初めて僕が作ったんだ。食べてみて」

「なんと! フミヨシが作ったのか!!」

「なつみと一緒にね」


 じいちゃんの顔が、輝いている。文字どおり、銀色に発光している。幽霊の感情表現、すげえ。


「む、おおおおおお! 美味い! これは美味いぞフミヨシ!! しっとりとした舌触り、ほんのりと紅茶が香り、後から甘酸っぱい桃の味が爽やかに! おおお……生クリームと一緒になると、これがまた……」


 目を閉じたまま、うっとりと味わってくれている。


 自分が作ったものを食べてもらうのって、こんなに嬉しいんだな……すげえ喜んでくれて……あ、なんか泣きそう。



「ちょっと聞いてよあのクソ坊主!! 却下だってさああああ!!!」


 現れるなり叫んでいるのは、もちろんさゆりん。滲んだ涙が引っ込んだ。

 空海センセイの公認、貰えなかったんだね。残念。じいちゃん、パウンドケーキ落としそうになったけど、ギリセーフ。よかった。


「『御仏の教えは自由に解釈されるべきだから活動自体は勝手にすればいいが、私のコンセプトとは相容れない。よって、公認はしない』だってさ。なにさ、カッコつけちゃってエラソーに」


 僕はさゆりんの分のパウンドケーキを差し出した。さゆりんはプンプン怒りながらもそれを受け取る。


「どんだけ偉い坊さんか知らないけど、頭が堅いったらないわ。もう」


「でも、活動自体は勝手にしろって言ったんだよね? それって、公式認定ではないけど、言うなれば『公式黙認』じゃない?」


 さゆりんの動きがピタッと止まった。ゆっくりと首を巡らし、僕を見つめる。


「公式、黙認…?」


 頷くと、さゆりんの顔がパァッと輝いた。じいちゃんに続き、銀色に発光。幽霊の感情表現、すげえ。


「それ、いいじゃない! 使わせてもらうわ! …ってこのケーキ、ヤバッ! うんまっ!」


 二人とも光ってるぅ。まばゆーい!



……今度作る時は、父さんと母さんの分もちゃんと作ってあげよう。じいちゃんたちのお下がりじゃなくて、ちゃんと美味しいのを食べてもらおう。なつみんちでは、もう食べたかな……



 その日僕たちは、「接吻の際のマスク問題」について、日付が変わるまで討論したのだった。


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