初めの一歩

みぃそん

初めの一歩

 大抵僕が目を覚ますのは台所から聞こえる母の陽気な鼻歌が原因である。


 往年のヒット曲を中心に構成され、時折流行りのCMソングが挟み込まれるそのプレイリストは、いつの日も僕の朝を悩ませる。しかし、今日の朝を悩ませたのは真反対から聞こえた母の低い声色の悲鳴だった。

 旧い戸の音もそこそこに、玄関から廊下を伝い、重く速い足取りで僕の部屋へとやって来た声の主は、いかにも顔面蒼白といった面持ちである。ヒトはいつもと違うことが起こると極度に緊張する生き物である。しかも、その変化が「鼻歌」から「悲鳴」、「陽気」から「絶望」だった場合どうだろうか。

 経年劣化でよれた蚊帳からじりりと顔を出し、僕は今日はじめての声を出す。


「おかあ、どうしたの」



 これは飛び降り自殺にみせかけた他殺なのだと、村一番の探偵気取りがそう吠えた。

 僕が着いた頃には既にモノがなくなっており、代わりに赤黒い跡が一点を中心として校庭のコンクリートにベッタリと引っ付いていた。彼女(故)がその場に存在しなくとも、むしろ存在しないからこそ、その痛々しい花火が死をより鮮明なものへとした。


「自殺、なわけねぇ……、だろ。なぁ、証拠とか……、あんのかよぉ」


 そう言って僕の旧友、まひるはハンチング帽を深くかぶった。



 まひるは少年だった僕から見ても酷く普通の少年だった。ボール蹴りが生きがいでかけっこの結果に一喜一憂するような、いわゆるただの少年だった。

 しかし、背が勉強机を越えだしたくらいから、彼はいつだったか読んだ推理小説に影響を受けて『村の探偵』を自称するようになった。何か村で変なことが起これば真っ先に飛び出し、真っ先に事情を聴取しに行く。そういった“ごっこ遊び”を急にやり始めたのだ。

 二週間でボール蹴りに飽きた彼のことだから、僕は「おおよそ1週間と3日といったところだろう」と予想を立てた。しかし、その予想は大外れし、なんと15にもなる今の今まで続く“ごっこ”となったのだ。

 僕も彼の探偵業に絆されて少し推理というものをかじっていたからわかるのだが、恐らくアレを突き動かす原動力は『恋』じゃないだろうかと、そう思う。僕らと同じ歳で同じ学校に通い続ける少女、旭灯に彼はずっと執着しているように感じる。

 変わった虫を捕まえては彼女の家へ見せに行っていたし、彼がごっこを始めたのも恐らく旭灯が推理小説のキャラを「カッコいい」と評していたからだろう。

 しかしこれは僕の中でずっと“裏付けのある直感”であり、実際がどうかは知らなかった。追及するのも、それこそ推理するのも些か野暮だろうと思っていた。



「旭灯ぃ……ずっと、ずっと好きだったんだよぉ……」


 彼が旭灯の血痕に膝をついてそう吐露しているのを僕は現在進行形で見ている。本人が、そう言っているのを見ている。なんて簡単な答え合わせだろう。畑荒らしのワル熊も幼馴染のエニグマも不意にピースが揃うものらしい。僕は深いため息を吐いた。

 騒ぎを聞きつけた村の人々が彼と彼女の遺していった赤黒を中心に半円の形をとっている。気の毒そうに彼を見守るのは僕もよく知る駄菓子屋の吉恵さんを主とする面々。旭灯と親交のある方々が多く、皆悲しみよりも驚きの方が多く勝っているような印象だ。


「悠くん」

「あっ……、どうも」


 現場に到着してから誰とも何も話さずに突っ立っていた僕に話しかけてくれたのは吉恵さんだった。いつもお店で見るエプロンは身に着けておらず、土に汚れたサンダルを引きずるように歩いている。


「なんで……、何があったんじゃろね」

「あぁ、はい。本当に」


 吉恵さんはいつもの快活な大声を控え、僕だけにわずか聞こえるような声量で話している。十歩先でうずくまるまひるを、そして彼と同じく幼い頃からずっと彼女と付き合ってきた僕のことを想ってのことなのだろう。


「飛び降り、なんじゃろかね。あたしもね、あさちゃんことずっと見とったけど、そんなことするような子には見えんかったけどねぇ」

「僕もそう思います、飛び降り……自殺なんて。ありえないというか、そういう素振りは全くなかったように感じます。少なくとも僕が接していた中では」


 旭灯は名前通りの明るい人間で、良く言えば裏表の無い性格、悪く言うなら隠さずになんでもズカズカと言ってしまうデリカシーの無い奴だった。でも、それが彼女の一番の長所であり、歯に衣着せぬ物言いが村中の大人たちから大層好かれていた。



 つまり、僕が彼女を屋上から突き落としたのは、言ってしまえば必然のようなものだったのだろうと思う。


 旭灯からの恋心に気付いたのは11くらいの時だった。思い返してみれば、もっと幼い頃から彼女は僕に対してベッタリくっ付いていたようにも思うが、何分距離が近すぎたため、それが彼女なりの好意の表し方だと気付くには少々時間がかかってしまった。

 やはり彼女は不器用だったため、内なる好意を隠すことができなかった。というより、まひると僕とで明らかな対応の差があったのだ。まひるに対して特別冷たかったわけではないが、僕に対しては特別優しかった。

 まひるが高熱を出して倒れた際、僕と旭灯でプリントを届けるがてらお見舞いへ行ったことがある。彼女の提案により駄菓子屋で買ったお菓子袋を手に提げ、まひるの家の戸を開けた。『お見舞い』というイベントは人生初で、彼の容態など気にもせず無性にワクワクしていた。部屋へ入ると、保冷剤を右手に持ったまひるが仰向けでへばっているのが見えた。それは文字通り別人のようで、いつものハイテンションが嘘のように消え失せている様に僕は少し怖くなった。旭灯に目をやると、病気でへばるまひるに大声で「お菓子買ってきたよ! 食べよ!」と、普段と変わらないテンションで接していた。

 その少し後、僕が熱を出した時にお見舞いへ来た旭灯は泣いていた。訳を聞いたが、上手く答えてはくれなかった。この時、直感的に「あぁそうなのだろう」と初めて思った。

 面と向かって「好き」だと言われたこともある。ある時、学校の帰り道でニヤニヤとしながら「好き」だとふざけながらにそう伝えられた。一瞬うろたえはしたものの、僕とて男で人間だから嬉しかった。ただ、言葉も知らないうちから顔を突き合わせている相手に「好き」だと告げられるのは少々受け入れがたかった。恋愛感情があるとかないとか、そういう以前の問題だった。だから僕は「ありがとう」とだけ返した。


 そんな気持ちとは裏腹に、僕はまひるのことが好きだった。性とか間柄なんかは関係なかった。探偵ごっこをしている彼の後ろを付いて回るのが、彼と共に時間を過ごすのがたまらなく幸せだった。

 この気持ちが友情のそれでないことに気付いたのは、彼のお見舞いから帰る時だった。親に「今日は早く帰って来い」と念押しされていた旭灯が一足先に家を出た後、僕はまひるの容態が心配で少し彼の部屋に残ることにした。家の奥からあたたかい匂いが漂いはじめていた。まひるは旭灯が帰ってから、彼女(と僕)の持ってきたおかしをボーっとしながらボリボリと食べていた。


「晩ご飯、食えなくなるよ」

「食えなくていいよ。食う気ないし」


 そう言って彼はロボット、あるいは義務のようにそのお菓子を食べ続けていた。まるで僕に取られることを嫌がっているみたいだった。


「あっ悠くん、ごめんねお見舞いなんか。まひる、晩ご飯どうするの」

「いいや。悪いけど、ごめん。俺はいい」

「またそんなお菓子食べて。今日だけよ。それ食べたら歯磨いて寝てな」

「うん、わかった」


 そう母に返事する合間も彼は食べる手を止めなかった。なんだかその光景がシュールで無性に笑いが込み上げてきた。

 用も済んだし帰ろうとすると、よかったらまひるの分食べて行きな、と彼のお母さんに引き留められた。この人はうちでご飯が用意されてるとか考えないのかなどは思いつつも、非日常的で魅力的な誘いを僕は断れるわけもなかった。

 元々はまひるが食べる予定だったものだから、皿に敷き詰められた数々は特別なものという訳では決してなかった。それでも、何故だか僕はすこぶる幸せな気持ちだった。「美味しい?」と義務的に尋ねる彼のお母さんに僕も義務的に「はい」と答える。いつもと違う家でいつもと違う食卓を囲む中、僕の頭を支配し続けたのはいつもより味付けの濃い卵焼きよりも、いつもより何倍も従順で大人しいまひるの顔だった。

 ごちそうさまでした、をしてから僕はフラフラと吸い込まれるように彼の部屋を訪れた。さっきまで食べていたお菓子を枕元にほっぽって、まひるは幸せそうに眠っていた。部屋の端にある掛け軸の言葉を理解できないままボーっと眺めていた。瞬間、気付けば僕は彼に口づけをしていた。時間と空間が溶けたような気がした。僕は自分のしたことが理解できないまま、少し後ろめたい気持ちを抱えて彼の家を去った。


(歯、磨いてないじゃん)


 僕の真横を通り過ぎる風は秋の始まりの匂いがした。



 中学生になっても、僕たちはそのままを過ごしていた。小学校を卒業して立場だけが勝手に中学生にさせられたものの、それがキッカケで中身が変わるなんてことはまるで起こらなかった。唯一変わったとすれば、旭灯に「好き」だと告げられてからの僕だった。二人が変わらなかったからこそ、僕は段々と気付きはじめた。

 旭灯に「好き」だと告げられて以来、僕は彼女のことを一人の人間として分析して見るようになっていた。言い換えるならば、無礼も適当も許せるような“ただの幼馴染”だとは感じられなくなっていた。

 彼女は僕の両親のことも含め、大人のことを大層馬鹿にしていた。自分、あるいは子供が優れていると思う点を羅列し、論理的に大人を下に見るということをよくしていた。しかも、質の悪いことにそういった振る舞いは僕たち子供たちの中だけで止め、大人たち本人の前では“大人に好かれる子供”を演じきっていた。僕自身も含め、彼女のアンチ大人論は子供たちに大好評だった。反抗心が宿り始めた僕たちにとって、そういった考え方はまさに魅力的そのものだった。もしも僕たちの中でヒーローは誰だったかと問われれば、それは間違いなく「旭灯」に違いなかった。

 しかし、彼女を幼馴染の度量で量れなくなった僕は、そういったスタンスを段々と醜いものだと感じるようになっていった。手持ちのどの型にはめても、彼女だけがどうやっても少しはみ出すようになってしまったのだ。

 辺鄙なところに住んでいると、新しい人間と関わることも無く、自分をとりまく環境が変わるということはそうそう起きない。ただ、自分だけはたまたま幼馴染から「好き」だと告げられたばかりに、皮肉にも新しい価値観を持ってしまった。彼女を“やんちゃな幼馴染”ではなく“常識の無い無礼な女”として捉えるようになっていった、なっていってしまったのだ。

 徐々に変わってしまった価値観は無理矢理元のそれに修正することは、なかなかに叶わない。彼女が段々と自分の中で醜い存在になっていくことが、僕はたまらなく辛かった。


 対して、まひるは僕の中でずっと変わらなかった。初めて彼を彼と認識した時から、まひるは変わらずまひるだった。彼はやはり良くも悪くも普通で、端的に言うなれば人間味の塊だった。

 まひるのお見舞いへ行った時、僕は彼がやけに大人しい理由がよく理解できなかった。もちろん熱に浮かされて本領が発揮できていないのは重々理解していた。でも、彼はそんな時でもから元気でやり過ごすような人間だと、そう思っていた。しばらくして、僕が高熱にやられる番になった時、僕は途端に理解した。まひると旭灯がお見舞いに来ていると母に告げられた瞬間、僕はなるべく弱くあろうとした。心配をされようとしたのだ。

 僕は今まで人に弱い部分を見せようとしなかった。基が弱かったとしても、なるべく強くあろうとした。しかし、自分が弱っている時に虚栄を張るのは実のところ意味が無い。なるべく弱くある方が、他者から恵まれ、他者から愛しいと思ってもらえるのだ。そうだ。まひるは旭灯が来た時、なるべく自分を弱く見せようとしていたのではないか。そうすることで旭灯に心配されようとした、愛しいと思ってもらいたかったのではないか。自分がそうしたことで思いがけず彼の思惑に気付いたのだ。

 お見舞いに来たまひるは、大層僕のことを心配してくれた。この前は先に旭灯が帰ったことで、きっといじけていただろう。思えば彼女が帰った後も大人しかったのは、もしかすると対応の差を出すまいと心がけていたのかもしれない。しかし、そんなことはお構いなしに彼は僕を気遣った。横で涙を流す旭灯よりも、ただ適当に今日あったことを話すまひるの方が何故だか僕はとても優しく感じた。



 この前、旭灯と二人で下校している時に彼女が突然こう話した。


「多分さ、まひるって私のこと好きだよね」


 彼女は首元にかけたくすんだ色のタオルを片手で触りながら、冷えかけた土道を蹴っていた。確かにまひるは旭灯に対してどうやら好意を寄せているだろう節があった。その日も彼は知的な男性が好きだと話す旭灯を見て、学校に自ら居残り担任から居残り講習を受けていたくらいだ。しかし、それを本人が、何よりもあの旭灯が言及するというのが僕は不気味でたまらなかった。


「そうなのかな」

「なんかそんな気がするんだよね最近」

「へえ」


 とても複雑な気分だった。僕はまひるに特別な感情を抱き続けている。そんなまひるが彼女に想いを馳せているのは確信は無いにしろ、なんとなく気付いていた。そしてそれを彼女自身が自覚してしまったのである。きっとまだ僕に好意を抱いてくれているであろう彼女が、僕の想い人からの気持ちを──。重い沈黙を孕みながら一歩、一歩と土埃を立てる度、僕はどんどんと吐き気が増していった。

 幼馴染というものをこの時初めて憎んだ。関係というものは繋がるものであると同時に切れるものである。自分に都合の悪い関係であれば、早々に切ってしまえばいい。しかし、幼馴染は別だ。僕たちはこの先大人になる。大人なって村を出たとしても、きっと変わらず幼馴染のままだろう。自分一人で切ろうにも、きっともっと上の大人たちが僕たちを引き合わせるのだ。考えを巡らせれば巡らせるほど底無し沼に落ちていくような感覚で、首の真ん中が苦しくなった。


「旭灯は僕のこと、好き?」

「えぇ、何なのさ急に」


 僕はそんな言葉が口をついて出てしまったことを、たいへん恐怖した。自分はこの状況をどうしてしまいたいのかよく理解できなかった。

 旭灯はもじもじとした後、照れながらにこう答えた。


「……今、一番好きかも」

「まひるがもし、旭灯のことを本気で好きだったらどう思う?」


 焦りながら、息の数を倍にしながら、僕は続けてそう尋ねた。荒れた唇からは血の味がした。


「えー、そうだなぁ」


 彼女はいつもの調子のまま体を揺らしながら歩いていた。焼いた畑の匂いが鼻をつき、しかし彼女の返答をじっと待った。足元の小石を蹴りながら彼女はこう答えた。


「それって結構気持ち悪いかも。あんまり考えたくないなぁ」



「ちょっと話があるんだ」と、僕は旭灯を夜の学校へと呼び出した。その日に至るまでの二週間とちょっと、僕は彼女にそれとないアピールを繰り返し、ボディタッチを増やし、二人の時間を増やした。まひるの想いに気付けるような今の旭灯であれば、僕のこれらは間違いなく『好意』であると、そう伝わると思った。

 彼女の両親はとても厳格な人で、夜間の外出は到底許していなかった。だから僕は彼らが寝静まる正午0時頃を集合の時間に指定した。彼女はたいへん嬉しそうにそれを了承してくれた。

 僕は屋上への行き方は知っていた。まひるがごっこの中で見つけた屋上の鍵で施錠を解くと、生ぬるい風が僕を出迎えた。錆び付いた柵に張り巡らされた蜘蛛の糸には名前も知らない虫が絡まっていた。僕は指でそいつを救出すると足元で力強く生える雑草の束へと放した。

 少し遅れて来た彼女は、柄にもなく白いワンピースを身に纏っていた。




 確かに僕たちの村ではたまに小さな事件が起きる。事件といってもそんな大層なものでなく、強風によって広川さん家のカカシが倒れたり、飼い猫が他所の飼い猫と盛っていたり、そういう日常の延長線上にあるものばかりだ。

 たまに大きな事件が起きると彼は途端に色めき立つ。事件を解決せねばと義務感のようなものに駆られるのである。


「まひる、どうしたの」


 恐らく僕のゴールテープはそこそこ近くまで来ているであろう。しかし、間違いなく僕のスタートは今日、あの瞬間から切られたのだろうと、そう思うのである。

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