第三話 ソウルメイト(ツインソウル)の実践

一年と半年なんて、長いようで、実は本当にあっという間だ。


 僕はやがて、教職に就いて一年になろうとしていた。


 そしてその日、三月十五日は、紬の合格発表の日だった。


 僕自身も卒業大学の県の教員採用試験に合格し、公立高校の教員になり、自分が受け持つ受験生が居る訳だが、そんなことよりも紬の合否の方が気になるのが正直なところだった。


 学校ではまだ一、二年生の授業は残っているが、三年生が居ない分、その分のコマ割りは各教師とも少なくなっており、受け持ち授業の無い時間帯の教師は、職員室で卒業生からの合否報告を待つことになっていた。


 その日の僕のコマ割りは、午前中に一限目と四限目、午後は六限目のみの授業だった為、午前中の二時間と、午後からの昼休みを含めた二時間が、職員室での電話番だった。


 特に午前中に電話は集中し、僕が職員室に詰めていた十一時過ぎまでに凡そ九十件、そして僕が四限目の授業を終えて職員室に戻った時には、既に百十件を超える合否報告を受けていた。


 まだ新任一年目の僕は担任のクラスは持っていなかったが、それでも教育学部国語科や文学部国文学科を受験する生徒に対しては、教科担任として、科目の受験指導は行っていた。


「今村先生、先生の担当されてた生徒は、全員、報告有りましたか?」


 中堅の世界史教師に訊ねられ、僕は一応確認の為、手元の名簿を確認してから答える。


「ええ、私の担当の国語科、国文学科系の受験生からは、全員報告入っています。残念ながら、全員合格とはいきませんでしたけど・・・」


「そりゃ、そうですよ。全員合格なんて、そんな事が起こったら、奇跡ですよ」


 奇跡・・・か・・・。


 僕は一年半前に紬に言った「奇跡が起こらない限り・・・」という言葉を思い出した。


 紬からの連絡はまだ無い。


 ジャケットの内ポケットに忍ばせた携帯電話が、やけに気になった。


「あと、報告待ちは何人ですか?」


 教頭の声が職員室に響き渡る。


 少し室内がざわついた後、三年の学年主任がそれに答えた。


「あと八人の報告待ちです」


 更に教頭が問い質す。


「内、合格者は何人ですか?」


 少し間をおいて、学年主任が「三十三人、ですね」、そう答えたが、少しばかり気おくれ気味の声に聞こえた。


 また職員室内がざわつき始める。


 そちらこちらで「三割強かぁ・・・」とか、「残り八人が上手くいっても・・・」などと、どちらかというと悲観した言葉が飛び交っていた。


 僕にとっては教師としての初めての受験シーズンのことで、その数字にあまりピンと来ないのが実際のところなのだが、それでも僕が担当した教科受験生は、十人中七人が合格の報告をしてきていたので、少しだけ安心感を覚えた。


 そんなことよりも、僕は紬からの連絡が入らないことにヤキモキするのだが、午後一時を過ぎても、未だ連絡は来ない。僕は何度も席を立ち、如何わしいくらいに教職員用トイレに行っては携帯の着信メールを確かめるのだが、それも一向に更新されることは無かった。


 恐らくこの一時間で五度目のトイレに向かおうとした時、教頭と学年主任が会話をしている脇を通りがかり、その会話が聞こえた。


「主任、もうこちらから残りの八人に連絡してみてはどうかね?連絡すること自体を忘れているかも知れないし」


「いえ、教頭、それは止しておきましょう。本人達の気持ちの問題もあるでしょうし・・・。その残りの八人全員が合格していれば問題も無いでしょうけど、そうでない場合は、やはり、報告する本人達にも・・・」


「・・・そうですか・・・。そうですね・・・」


 僕は内ポケットから取り出し掛けていた携帯電話をそっと元に戻し、トイレに行くのも止めにして、自分の席へと戻った。




 六限目の授業でも、僕は今にでも携帯電話が振動するのではないかと、気が気ではなかったが、結局は携帯電話はピクリとも動かず、そのまま授業を終えることになった。


 職員室に戻る前に、やはり職員用トイレに立ちより、携帯電話のアンテナを確かめる。


 四本確りと立っていることを確認し、少しガッカリしながら職員室に戻った。


 職員室に戻ると、この一時間で、残り八人中五人が報告をしてきたようで、内四人が合格していたとのことだった。


 先ほど僕が職員室を出て行った時よりも、幾分か室内の雰囲気が和んでいるように感じたが、教頭の席の前で立ったまま話し込む教頭と学年主任だけは、二人して難しい顔をしていた。


 時間も午後四時を回り、各部活を受け持つ教師たちは、各々の担当に向かい、職員室はそれ以外の少数の人間だけになって、随分と寂しい雰囲気だ。


 紬からの連絡を待ちわびる僕にとって、先ほどまでのざわついた室内の方が幾分でも気が紛れていたのだが、こうも静かになってしまうと、やるべきことにも手が付かず、時間は遅々として進まない。


 紬は今頃、何処で何をしているのだろうか?


 連絡を寄越さないということは、不合格だったということなのだろうか?


 いや、そんなことは無いはず・・・。




 この一年半、紬と僕は、二人で約束した通り、直接会うこともしなければ、電話も一度を除いてしてはいない。


 紬は健気にも、SMS、メールさえ使わずに、本当に郵便を使って手紙を書いてきた。それも、多くを書くと受験の妨げになるからと、月に一度だけ、便箋に三枚程度の手紙を書いてくるのだった。


 僕もそれに対して同じくらいの分量の手紙を返すのだが、お互いに内容は至ってシンプルで、紬は受験勉強の進捗状況を中心にその一ヶ月で起こった少し面白い話を書いてきたし、僕はその返信に、少しばかりの受験のテクニックや僕が受験生時代に実践していた勉強方法を書き足して送った。


 一度だけの電話は昨年の暮れの手紙で、紬が「どうしても、『あけましておめでとう』だけは、直接、言葉で言いたい」、そう書いてきたので、その返信に、「君に約束を違えさせる訳にはいかないから」「別に願を掛けている訳でもないけど、万が一受験で失敗した時に、そのことを後悔して欲しくないから」、そう書いて、「僕の方から、年明け0時に電話をします」と返事を送った。


 そして本当に、僕からの電話で二人は『あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します』と、それだけで電話を切った。


 しかし、寧ろ、それだけで充分だった。


 携帯電話の通話ボタンを切った時、僕も紬も心にそこはかとない幸せを感じたのだから・・・。


 そしてここ最近の最後のやり取りは、SMSだった。


 三月二日の国立B日程の試験が終了した後、紬から送られて来たショートメールには、ピースサインと『多分、大丈夫』『でも、合格発表まで連絡しない。最後の願掛け。(笑)』と、記してあった。


 僕もそれに納得し、『分かった。ごくろうさま、よく頑張ったね』とだけ返信をし、この約二週間を、それほど心配もせずに過ごしていたのだった。


 ところがどうだ?実際に発表当日、夕刻になっても連絡が来ないではないか。


 もうここまで来ると、午前中のちょっとした焦りとは比べ物にならないほどの、焦燥感と不安感で、僕の胸は張り裂けそうなのだ。


 然も遅々として進まない時間は、本気で終業時間まで耐えることが出来ずに、胸が押しつぶされて、呼吸困難で倒れてしまうんじゃないかと思えるくらい、精神的にも酷い状態に陥っていた。


 全く心のゆとりは無いのだが、それでも心の中で苦笑、いや、自嘲気味に、『まったく、僕は紬と出会って以来、すっかり弱くなってしまったもんだ』と、自分を落ち着かせようとした。


 そのこと自体は、嫌なことではなく、実は僕の中での喜びなのだ。確実に僕はそれ以前の僕ではなくなっていたし、そんな自分が好きになっていることにも気付いていたから・・・。


 腕時計を確かめると、ようやく午後四時五十五分、終業五分前だ。


 僕はもう我慢の限界で、取り敢えず、机の上の明日以降使用する授業の資料や、持ち帰るべき書類を、片っ端から鞄に詰め込み始める。


 そんな僕の様子を見ていた隣の席の世界史教師が、「あれ、今村先生、今日は何か用事ですか?ひょっとして、デートとか?」などと冗談めかして訊いてくるのに、「ええ、まぁ」とだけ素っ気なく答えてから、勢いよく席を立った。


「お疲れ様でしたっ。本日はお先に帰らさせて頂きます」


 僕はそう叫ぶように言って、職員室を飛び出したのだった。




 学校を飛び出したは良いものの、一年前、就職と同時に借り始めた独り暮らしのアパートに帰るでもなく、僕は気付くと自宅駅から六つも離れた喫茶『琥珀』の入り口前に立っていた。


 辺りはすっかり暗くなり、腕時計を確認すると、時計の針は既に午後六時を少し回っていた。


 確か、最後に来たのは半年くらい前、昨年の秋頃だったか。


 僕は扉を押し開け、店に入る。


 夕刻よりお酒の提供の方が多くなる店内は、薄暗い照明で、少し怪しげな雰囲気さえ漂う。


 Tomyさんに挨拶をしようと、カウンターの中を覗いたが、この時間は外しているようで、その姿はそこに無かった。


 カウンターには年齢の若そうな女性が一人座っていたが、勿論知らない人・・・、いや、


 そう思った瞬間、その女性が振り返り、少しもブレることなく、一発で僕に視線を合わせて来た。


 紬っ。


 声に出したつもりが、全く声は出なかった。


「待ってたよ。先生の視線、直ぐに気付いた。だって、痛いんだもん」


 そう言って笑う紬に、僕は何て答えれば良いのか分からずに、唯々、両の目から涙が溢れて来た。


 すると紬は、今度は本当に済まなそうな顔をして、「ごめんなさい、そんなにまでって、思わなくって・・・。ちょっとだけ、驚かそうと思って・・・。本当にごめんなさい」、そう言いながら席を立ち、僕に駆け寄ってくる。


「良かった。本当に良かった。大丈夫だったんだね。うん、本当に良かった」


 僕が自分ではどうしようもなく止められない涙を、紬が彼女の親指でなぞるように拭いてくれる。


 あと半月はまだ高校生の女の子に、涙を拭いて貰う高校教師・・・。


 二年前の僕には恐らく耐えられなかったであろうこのシチュエーションも、今の僕には余りにも自然過ぎて、不思議な気分だ。


 すると、誰かがパチパチと手を叩き始め、それが店全体に居る七、八人のお客皆が釣られて手を叩きだす。


 何なのだろう、この照れくさく、恥ずかしいのに、何故か温かい感じは。


 そんな事を思っていると、ひと通り拍手が止み、何処からともなくカウンターの中に戻っていたTomyさんが、お客さん達に声を掛けた。


「今日は、ここに居る紬ちゃんの、大学合格祝いです。私から、皆さんに、ビールを一杯ずつサービスしますので、皆でお祝いしてあげてください。紬ちゃんはまだ未成年だから、チョコレートパフェで良いかな?」


 紬は嬉しそうに「はい」と微笑む。


「あ、それから、もうひとり、ここに居る彼氏の今村くんにも、これから頑張れって、応援してあげてください。ま、そっちは皆さんの気分に任せますけど」


 誰かが「ピューっ」と、指笛を鳴らし、店内には「おめでとう」の声が響き渡る。


 ご丁寧に『彼氏』と紹介された僕は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしいのだが、嬉しさと涙で、顔はもうぐちゃぐちゃだった。





「じゃあ、約束通り、僕の生い立ちの話をしよう・・・」


 喫茶『琥珀』を出て、近くの公園のベンチに二人、腰掛けて、僕は話し始めた。


 僕の話を聞きながら紬は、所々で、強烈な感情の動きを僕に見せて来た。


 それは、悲しみや同情、苦しみに対しての共感、そういった類の、どちらかというと『負』の感情が多かった。


 僕はそれを感じ取ると、都度、「でも、もう大丈夫だから」、そう紬に言い聞かせるのだった。


 紬に出会うまでの話をひと通りし終わると、少しぐったりした様子の彼女だったが、それは恐らく、僕に紬の感情の動きが見えた以上に、紬には、僕の話の時々の感情が、直接的に彼女の心の中に流れ込んでしまったからだろう。


「先生、辛かったんだね・・・」


「いいや、そんなことは無いさ」


「ううん。そんなことあるよ・・・。でもね、もう心配しなくて良いの。私が居るから・・・」


 女子高校生に涙を拭いて貰い、慰められる高校教師は、案外に悪いものでもない。


「そうだね。橘さんに出会えて良かったよ」


 僕のその言葉に、紬は少しだけ眉間に皺を寄せた。


「先生、その『橘さん』って、もう止めにしませんか?『紬』って呼んでくれた方が・・・」


「ああ、そうか、きっとそうだね。じゃあ、そうするよ。それじゃあ・・・」


 言いかけたところで、紬が被せるように「貴史さん」と言う。


 二人で目を合わせたまま、クスクスと笑い合った。


「ところでさ、紬」


「なに、貴史さん」


「これで『ソウルメイト』の検証と証明は終わりかい?」


「いいえ、これからが始りなんじゃないかしら?」


「だと思った。じゃあ、次のハードルはどうする?作る?」


 紬は少し考えてから、僕の表情を覗き込むようにして、ニコリを笑う。


「そんなの、無理、でしょ?私も、無理。だって、あんなに会いたくても会えない時間を過ごすのなんて、もう二度と経験したくないもの」


「確かに」


 まだ酷く寒いはずの三月の夜の空気も、二人にはこれっぽっちも冷たくは感じなかった・・・。





 それから三年半が経った。


教員採用試験で小学校教職員としての合格採用が決まった紬は、実家の両親に了承を得て、独り暮らしを始めることになった。


 まぁ実際のところ、独り暮らしというのは建前で、僕の住むアパートの隣が空き部屋になったところに紬が越してくるという、言ってみれば半同棲みたいなものだった。


 しかしそれは不思議なことに、紬が独り暮らしを始めたいから物件を探すと言い出した翌日に、その隣の部屋は空き部屋になった。


 冷静に考えると、二人にとって有り得ないくらい好都合なのだけれど、もうその頃の僕等にとっては、そういったことは大いに通常運転の範疇だった。


 少し怖いくらいの予定調和・・・。


 勿論、そんなことは紬の両親は知る由もない。抑々そもそも、僕等が交際していることさえ紬の両親は知らないでいたのだ。


 紬と出会ってからというもの、他人との距離感、それに付き合い方を徐々に覚えていった僕にとって、紬の両親と会って挨拶をすることに、何の引け目も感じなくなっていたのだが、問題はそこではなかったらしい。


 紬は父親の実子ではあるが、母親は父親の再婚相手だった。家族は他に半分だけ血の繋がった歳の六つ離れた弟が居たが、紬が中学に上がる頃から、両親は喧嘩ばかりしていたのだと紬は言う。


「前の奥さんと、そう、私の本当のお母さんね、別れてまで、新しい女の人と結婚したのに、あの人たちはどうして毎日喧嘩ばかりしてるんだろう?って。そんな時にあの『ソウルメイト』の話に興味持っちゃって・・・。ううん、決して二人のことを嫌いな訳じゃないの。それぞれに父親も母親も良い人たちで、弟だってとっても良い子なんだよ。でもね、私の中では、私は絶対に、私のもう片割れを探し出さなきゃって・・・」


「そこに僕が現れたってことだね?」


「そう。でね、そのことなんだけど、これって、もう、奇跡と呼べるくらい凄いことなの。だって、『ソウルメイト』って、お互い日本人だって限らないし、世界中の何処に居るかも分からないの。そんな相手がある日突然ひょっこり近くに現れるなんてこと、実際には起こり得ない確率なのよ」


「でも、現れた」


「そうなの。だから奇跡なの。そう考えると、私が大学に合格できたのなんて、実は奇跡でも何でもなくて、私の努力がちょっとだけ凄かったってこと」


 紬は「えへっ」とワザとらしい笑みを浮かべる。


「そうなんだね。それは偉かったね」


「もっと褒めてくれてもいいのよ」


「偉い偉い」


「あー、何かその言い方、ちょっとバカにしてるぅ」


 そんな他愛もない会話で盛り上がる二人なのだけれど、紬がいつも何処かしらに不安めいた感情を押し殺していることも僕には分かっていた。


 そして、そのことがあるが故に、紬の両親に会うことを拒んでいたのは僕ではなく、紬の方が頑なにそれを回避しようとしていたのだ。


「ねぇ、貴史さん。私たちの関係って、やっぱり、ずっと一緒に居られる関係なのかな?ううん、答えなくてもいいわ。あなたがそう思っているのは分かるから・・・。でもね、うちの父親と母親、そう、母親は二人ね。それだって、別れたり喧嘩したりするのが分かっていて一緒になった訳じゃないと思うの・・・。私の言ってること、間違ってるかな?」


「いいや、そんなことは無いと思うよ。それに、君のご両親は君のご両親で、僕等は僕等、全く違うんだと思うよ。僕は何も気にしていないし、心配もしていないから、大丈夫だよ」


「ありがとう・・・。でもホントはね、私、私の家庭が、私が思うくらい良い家庭だったら、貴史さん、あなたにも直ぐに紹介したいって、そう思っていたと思うの・・・。貴史さんにも家族を作ってあげれるかもって・・・。でも・・・今のうちの両親を見て、あなたがガッカリするんじゃないかと思うと、何だかそれも・・・ね・・・」


「大丈夫だよ。そんなこと、気にしなくって」


 僕は本心からそう思う。僕には紬さえ居てくれれば、それで充分で、紬とだったら、新しい、そして僕にとって初めての家族になれるし、そうなって欲しい、と思った。





 紬が新任教師として県内の小学校に赴任し、初めて迎えた夏休み、僕等は二人別々だったアパートの部屋を引き払い、2LDKの賃貸マンションに引っ越した。


 引っ越しが終わったその日の午後、僕等は市役所に赴き、婚姻届けを提出し(証人は僕の養護施設の施設長と保護司の先生にお願いした。二人とも大変に喜んでくださった)、その足で紬の実家に報告に向かった。


 招かれざる客の突然の訪問と報告に、紬の父親は目を白黒させて顔を強ばらせていたが、特に怒鳴りつけられることも無く、僕は緊張し、しどろもどろになりながらも、どうにか報告をやり切った。


 そこにきて紬の母親はというと、終始ニコニコして、所々で会話に詰まる僕のことをおっとりと見守っている風だった。


 報告が済むと、母親の「今日は一緒にお夕飯でもどぉ?」という誘いをあっさりと断った紬に促されるままに、僕と紬は彼女の実家を後にした。


 僕等が実家から新しい二人の住処に帰る道すがら、紬が言う。


「あの人たちね、今頃大喧嘩してるわ、きっと。それを考えるとひろゆき(弟)はちょっと可哀想かな。変なとばっちり受けなきゃいいけど・・・。多分ね、父親が母親に向かって『何でお前はずっと笑っていられるんだっ』『お前はこの事、知っていたのかっ』って怒鳴り散らして、母親は母親で『知る訳ないじゃない』『もう子供じゃないあの子に、何をどう言うっていうのよっ』って、遣り合ってるのよ、ちょうど今頃・・・」


 そんな紬の横顔を見詰めながら、僕は思う。


 僕とは違うのだけれど、君もやっぱり辛かったんだね・・・。


 僕は君との出会いに感謝している。


 あの時、君が僕に話し掛けてくれなかったとしたら、今頃僕はどうしていたのだろう?


 そして、君のことが本当に、好きだ。


「ん?どうかした?」


「いや、何でもない」


 僕は慌てて視線を前に向ける。何故かドギマギしてしまう自分に苦笑しながら、「今日の夕飯、何にしようか?」と、誤魔化す。


 紬は少し考えてから、「鰻屋さんに行きましょうよ」と言った。


「うん、僕も今、鰻を食べたいって、そう思ってた。確か、昨日が土用丑の日だったような気がするなぁ」


「うん、そうだった気がする」


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