第10話 とある日常に起きた変化

「ありがとうございました。またお越し下さいませ」


 退店するお客さんに深々とお辞儀をしてから、くるりときびすを返してカウンターにいるマスターへ声を掛ける。


「ノーゲストです」

「お疲れ様もり君。裏に食器片してテーブル拭き終えたら、今日はもう上がっていいよ」

「分かりました」


 マスターの布里夏ふりなつさんに言われた通り、俺は最後のお客さんが使用していたテーブルへと向かっていき、トレンチの上に食器をまとめてかたしていく。

 ここは、俺がアルバイトしている喫茶店『布里夏ふりなつ』。

 上京したての頃、ふと足を踏み入れた時に、こぢんまりとしたシックな雰囲気にあこがれ、即面接を受けた。

 マスターの布里夏さんと奥さんの二人で経営しており、夜は子育てがある奥さんに変わって、こうして俺がアルバイトに入っているのである。

 布里夏夫妻はとても穏やかで優しい人で、いつも何か悩み事などがあれば相談に乗ってくれる間柄。

 そんなえんもあり、専門学校へ入学した当初から今日こんにちまでお世話になっている。

 食器をキッチンへと運んで、アルコールと布巾を使ってテーブルを拭き終えたところで、本日の仕事を終えた。


「ありがとう。あとは俺がやっておくから、着替えて上がっていいよ」

「ありがとうございます。お疲れ様です」

「あっ、そうそう森君」

 

 俺が更衣室へと着替えに行こうとしたところで、マスターに呼び止められる。


「どうしました?」

「来月からお店をハロウィン仕様に飾りつけしようと思ってるんだけど、少しアドバイスが欲しいんだよね」

「はい、俺なんかで良ければ……」

「ありがとう。助かるよ」


 布里夏マスターに手招きされてカウンターの方へ向かうと、そこにはハロウィン仕様にスケッチされた店内がえがかれており、とてもあたたかみと活気かっきあふれていた。


「凄いですねこのスケッチ」

「はるちゃんにお願いしたら描いてくれたんだよ」

「あーそっか。はるさん美大生でしたもんね」

 

 はるさんとは、キッチンでアルバイトをしている美大生。

 おしとやかで優しい性格のため、こうして温もりの感じる絵が描けるのだろう。


「それで、ここの飾り付けなんだけど、基本いろどろうと思ってるんだけど――」

「ぐふっ!」


 すると、俺は無意識にんで、胸のあたりをおさえてしまう。


「んっ、大丈夫?」

「は、はい……大丈夫です。咳き込んだだけなので……。それで、飾り付けがどうかしたんですか?」

「あぁ……それで飾りつけを――」

「マスター!」


 すると、布里夏さんの話をさえぎるようにして、キッチンの方から透き通るような声が聞こえてきた。

 そしてキッチンの入り口から、焦げ茶色の髪をしたミディアムヘアの女性がホールへと現れる。


「キッチンのが切れちゃったんですけど、替えってあります?」

 

 キッチンで後片付けをしていたはるさんが、手に長い蛍光灯を持ってこちらへ近寄ってくる。


「うっ……」

「ん、森君何してるの?」


 そして、俺はカウンターに腹ばいになり、ぐったりと項垂うなだれていた。


「なっ、なんでもないです。大丈夫です」

「なんか息苦しそうな声してるけど本当に大丈夫?」

「はい、問題ないです」


 俺はお相撲さんのような野太い声を出しながらサムズアップして見せる。


「替えならそっちの棚に入ってるはずだから、取り替えてくれるー?」

「分かりましたー。こっちの切れちゃった方は粗大そだいごみに出せばいいですか?」

「うん、それでよろしく頼むよ」

「はーい」


 そう言って、はるさんは軽やかな足取りで物置の方へ向かっていく。


「ふぅ……」

「すまない森君、唐突で悪いんだけど、を持ってたりするかな?」

「ぐはぁっ⁉」

 

 ようやく立ち上がれたと思いきや、そのまま膝から崩れ落ちてうつ伏せに倒れてしまう。


「森君⁉」


 いきなり倒れた俺を心配して、マスターが慌ててこちらへ駆け寄ってくる。


「心配かけてすいませんマスター。本当に平気なので……」

「森君、さっきから様子がおかしいじゃないか。本当に大丈夫なのかい⁉ なにか薬草とか変なもの食べたりしてない?」

「だ……大丈夫です。俺が食べれないのはパクチーだけなので」


 そんな訳の分からないことを言いつつ、俺はゆっくりと立ち上がる。


「筆記用具の中に入ってたと思うんで、今から取ってきますね。何色がいいとかありますか?」

「できればがあれば嬉しいかな」

「うぐっ……わ、分かりました……行ってきます」


 今度は腹痛を抑えるようにうずくまり、俺はロッカールームへと一旦避難するのであった。

 その後、布里夏さんに何か変な病気にでもかかっているのではないかと滅茶苦茶心配されたのは、言うまでもないことである。

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