日本をダメにした犯人探し その2

 さて、前回、自民党は共犯者ではあっても主犯ではないと申し上げた。察しのよい読者諸氏にはすでに筆者が思うところを見抜かれている方も大勢いるに違いない。そこで先に結論を申し上げる。日本をダメにした主犯は、そう、我々国民なのだ。

 ナンダ、ドコニデモアリソウナ、ケツロンダナ。

 ありきたりな結論で申し訳ない。しかしながら、これをバカにして軽く受け流しているうちは、われわれは罪深き政治家達の手のひらで転がされ続け、仮面の裏で大衆はブタだとあざけっている政権政党の幹部達へ血税を貢ぎ続けることになる。

 アタリマエの事実として、政治家を政治家たらしめているのは選挙における国民の投票である。政治家は国民に票を投じてもらえなければ、議員として議会に立つことはできないわけであって、それゆえに政治家は国民の意志を尊重し、その代弁者として議論を戦わせる、というのが建前だ。その一方、全ての議員が国会の場でひとりひとり持論を述べることができるわけではない、ということもまた事実だ。国会は国全体のことを考える場であり、論ずるべき問題は数多く、ゆえに時間の制約も出てくる。本来、政党がその存在意義を発揮するのはこうした問題に対してこそではないかというのが筆者の考えだ。一般的には、議会で主張を通すためには多数の同意見の人を集めることが必要で、そのために組織されているのが政党である、と解説される。もちろん目に見える主だった目的はそうなのであろうが、理想的に言えばそれよりも重要な役目があるのではなかろうか。国会という大きな議会では一人一人の議員全員がそれぞれの意見を述べることは事実上不可能であるが、それよりも小さい組織である政党内であればこれは可能となる。国会内でも委員会という小規模な議事進行の場が設けられているが、こちらは数多くの議題をいかに効率的に検討を進められるか、という観点に基づく仕組みであり少々性質が異なる。理想的なのは政党内で一人一人の議員が意見を戦わせて、議論を煮詰め、上位の議会である国会の場でその代表者たちが意見を述べる。こうした構造を持つことで多数いる議員全員の意見を吸い上げ、議論が熟成され、最終的な意思決定へとつながっていくことになる。政党とは、そういう役割を担わなければならないと思うのだ。

 で、現実はどうなっているかと言うと、政党は単なる集票のための組織にしかなっていない。それも結構悪質だ。例えば、2人の候補がいて1人が当選するというシチュエーションを考えてみよう。話を分かりやすくするために投票する人は100人だと仮定する。単純に考えれば半数以上の票を得ればよいわけなので51票とれば当選するわけだ。この時点だけでも49票は無視されることになるわけなので、それはそれで考えてしまうものもあるが、話の筋かられていってしまうのでここではあえて考えないことにする。

 しかしながら、候補者が3人になると少々事情が異なってくる。候補Aは26名、候補Bは25名、候補Cは49名の支持をそれぞれ得ていたとしよう。単純にいけば候補Cが当選ということになるわけだが、ここで主張が似通っていた候補Aと候補Bが政党を作って政党の代表を候補者とすることになった。この政党内で事前投票が行われた結果、26名の支持を集めていた候補Aが政党の代表となった。そして全体の投票では、候補Bの支持者は同じ政党の候補Aへ投票したため候補Aは51票を獲得して、めでたく当選を果たすことになった。

 アレアレ?全体で一番支持を集めていたのは候補Cだったはずなのに・・・

 政党という仕組みが絡んでくると、たとえ個人としては多くの支持者がいたとしても決して選挙で当選するとは限らなくなってくるのだ。ましてや、自民党の場合は政党の中にさらに派閥という組織が存在する。政党内の多数ではなく派閥内の多数さえ押さえればよい、大雑把に言えばそういう理屈になるわけだ。政党内のしかも派閥内の多数なんて、全体における多数を押さえることを考えればはるかにそのハードルは低くなるのがお分かりいただけるだろう。

 さて、ここまでは票を持っている人が100%投票する前提の話だったが、実際の選挙においては100%の投票率は実現したことがないと言っていいだろう。仮に、先の事例で投票率が60%だったとしよう。有効票数は60票であるから31票を取れば当選確実となる。やはり3人の候補者が出てそのうちの2人が政党を組んだ場合、16票あれば全体の当選者となることができる計算になる。なんと100人いるうちのたった16人の支持を得られれば良いことになってしまうのだ。16人の有権者に強力な利益誘導を約束して、必ず選挙に行かせるように仕向ければよいわけなので、有権者全体のことを考える必要なんて全くない。これを露骨にやって見せているの現在の自民党、ということになる。

 総務省の集計によれば、前回の衆院議員選挙は平成29年10月に実施されているがこの時の投票率は53.68%だった。前々回は平成26年に実施されていて52.66%だった。実に半数近くの人が選挙に行かない、つまり棄権していると言うことがわかる。国政選挙を棄権する、というのはどういう行為なのか。これは、我々国民一人一人が出し合っている国を運営するための予算、つまりは税金をどう使うかについて意見を表明する権利を棄てた、ということを意味する。税金がどう使われようと全く気にしないから好きに使っていいよ。全部お任せしますよ。平たく言えば、こう言っていることになるわけだ。国会というところは国の政策を議論して決めていく場であるのだが、こうした政策の実行にお金がかからないというわけではない。国の施策とは言え、その実行にはお金がかかり、そのお金は税金で賄われる。そう考えると、国の政策を決定する議会の議員を選ぶという行為は、税金の使われ方に対して意見を述べるという行為に等しいと言っても決して過言ではないだろう。選挙を棄権するということはこの税金の使われ方に対する自分の意志を表明する権利を放棄するということなわけで、税金がどう使われようと文句は言いませんよ、という意思表明をすることと同義になる、というわけ。

 朝日新聞は2019年7月19日に選挙で投票をしなかった人達にその理由を聞いた調査結果を報道している。対象は2016年に実施された参議院選挙だ。この選挙の投票率は54.70%なので、棄権した人は45.30%、この中の500名ほどに複数回答可のアンケート調査を行ったものだ。その結果は、回答の多い順に「選挙にあまり関心がなかったから」(27・1%)、「仕事があったから」(25・0%)、「政党の政策や候補者の人物像など、違いがよくわからなかったから」(24・6%)、「適当な候補者も政党もなかったから」(22・9%)というのがその結果だ。まあ、ひどい結果だと言わざるを得ないだろう。この人達は、投票を棄権している間は、日本では誰も何も決めず、税金も使われることはない、とでも思っているのだろうか。当たり前だが、国際社会において国は日本だけではない。常に、周囲の国から様々な働きかけがあり、それにどうレスポンスしていくか、という意思決定に迫られる。ビジネス場面においてもその対象が国内にとどまる企業はむしろ少数になってきているのではないかと思われるが、そんな中、日本企業が国際的な市場において不当に不利な立場に立たされることがないよう、国として諸外国に対して常に働きかけを行っていかなければならないことだってあるだろう。常にが国を代表した意思決定を行わなければならず、その代表を選んでいるのがなのだ。現在、巷を騒がせている新型コロナの問題にしても然り。異常気象による多数の災害、こうした突発事態への緊急対応も然り。投票を棄権した人達は、こうした問題への対処をも白紙委任していることになる。だって、代表者が誰でも良い、どんな行動方針を持った人が国のことを決めても良い、そういうことに口を出す権利は放棄する、とそう意志表示したわけだから。

 コロナ禍において、酒類の販売をともなう飲食店がやり玉に挙がっていることがしきりに取り上げられている。その取引先も大きな打撃を受けており、悲痛な声が報道される日々だ。そんな中、筆者は時折、この人たちはちゃんと投票に行っているのだろうか?と思ってしまうのだ。もし、投票を棄権していたとしたら、どんなに理不尽な政策を国が決め、実行したとしても、それに対して文句を口にできる権利は全くない、ということになる。筆者としては、きちんと投票に行ってくれていることを祈るばかりだ。

 いつぞや、「保育園落ちた日本死ね!!」とブログに書きこんだお母さんがいた。彼女は果たして選挙にはちゃんと行ってくれているんだろうか・・・。全ては、投票で選ばれた議員が施策を決め、議員の中から選ばれた総理大臣が組織した政府が主体となって施策を実行しているのだ。自分に不利益な施策を実行されたからと言って、あるいは、施策を打ってくれなかったからと言って、投票を棄権した人間、つまりは、政策に関する白紙委任状を提出してしまった人間に文句をいう権利なんてないのだ。

 こういう理屈を展開すると「だって、私一人が投票したって何も変わらないじゃない」という、屁理屈をこねる人が必ず出てくる。幼稚園児がだだをこねているかのような理屈だと思う。その言いわけ事態は非常に稚拙であり、まったく論評に値しない。しかしながら、投票に行かない人から出てくるこうした発言は見方を変えると「現状には変わってほしいけれども、私一人の投票行為だけではそうならないじゃない」という意識が見えてくる。つまり、投票を棄権した人の中には「現状には変わってほしい」と思っているが、何もせずに諦めてしまっている人が相当数いる、ということだ。こうした人が諦めずに行動したらどうなるか。低い投票率であるということは、政権政党の支持者は有権者全数に比して見れば非常に少ない。事によると、棄権している有権者全数よりも少ない可能性すらある。必ずしも棄権している有権者全員が政権政党に反発的ではないにしても、政権政党を簡単に政権から引きずり下ろす力は持っていると考えることができるだろう。かつて、自民党政権が政権を失って民主党政権が誕生した。そのときには、こうした投票行動が間違いなく発生していた。だからこそ、政権交代が実現したのだ。決して不可能な話ではないのだ。個人の意識の問題だ。

 また、「投票できる候補者が全くいない」という意見。こちらは前述の諦めきった人達よりはいくらかましだが、やはり、投票行為というものを誤解していると言わざるを得ない。たとえ、その通りだとしても、のだ。そして、のだ。確かに候補者には恵まれていないかもしれない。でもその中で、誰が一番なのか、有権者はその意思決定をしなければならないのだ。

 冒頭の結論を少々訂正させていただく。いや、もう少し厳密に述べさせていただく。日本をダメにした主犯は我々国民なのは間違いない。しかし、国民全員では決してない。選挙への投票を棄権した、無責任極まりない有権者こそが日本をダメにした主犯なのである。

 だが、この主犯たちには情状酌量の余地があると筆者は思っている。この罪を強力に幇助ほうじょしている存在があるからだ。この幇助犯については次回の話で申し上げようと思う。

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