努力は誰にでもできるか?
随分長いこと週刊少年ジャンプの編集方針には、友情・努力・勝利が掲げられているものだと信じてきた。ところが、2020年秋ごろ、集英社が公式運営している少年ジャンプ漫画賞の質問箱(Peing)に寄せられた質問への回答にはびっくりさせられた。
質問「ジャンプの漫画賞に応募したいのですが、友情・努力・勝利がないのは厳しいですか?」
編集部の回答「あってもなくてもどちらでもいいです。少年ジャンプ編集部が公式に三原則として掲げたことは一度もないので。」
なんと!ホントに!?てっきり、編集部の方針なんだとばかり。。。
ジャンプに限らず、少年漫画雑誌に連載されてきた人気作品を思い返すと、この三要素は多くの作品で踏襲されてきたように思える。要は、読者がそれを求めていたということなのだろう。読者である少年たちがあこがれる姿。それを鏡のように映したのがこれら人気作品であった、というわけだ。「友情」「努力」が美徳としてとらえられていて、これらが「勝利」という結果に結びつく。いわゆる黄金パターンであり、水戸黄門でいうところの印籠であり、おそらくは日本人ばかりでなく、人類が共通して好む不動のスタイルなのだ。
「努力」を辞書で調べてみると「ある目的のために力を尽くして励むこと」とある。つまり、「努力」と言った場合には必ずしも結果を出すことは求められていない。結果が出なくともよいので、その結果の達成を目指して励めさえすれば努力したと言えるわけだ。多くの人は、努力は誰でもできる、努力しないのは単なる怠慢に過ぎず批判されてしかるべき、という感度を持っているように見受けられる。
果たして、その通りなのだろうか?というわけで、ようやくマクラを終えて、本題に入って行きたいと思う。
野球選手のイチロー氏はこう言ったそうだ。
「努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。」
非常にストイックな方だと思うし、自分を厳しく律して想像を絶する努力を重ねられたに違いない。そこに疑問をさしはさむ人はいないことと思う。筆者ももちろんその中の一人である。でも。ひねくれものの筆者はこうも思ったりする。それではイチロー氏には、将棋界で藤井聡太二冠のような強い棋士となるための努力をする、ということはできるであろうか?
突拍子もない仮定であることは筆者も承知している。しかしながら、その突拍子もない仮定の中に「努力ができるとはどういうことなのか」という問いに対するヒントがあるような気がするのだ。イチロー氏が将棋の世界で努力をすることができたかという仮定の問いに対する答えは「ノー」だと筆者は想像する。もちろんイチロー氏は努力することができない人間ではない。これは先に述べたように彼の実績と、それを彼自身がどう評しているか、というエピソードからも明らかだ。誰よりも努力をし、誰よりも努力とはどういうものかを知り尽くしている。それでも、その舞台が将棋となれば、努力することはできないだろう。「ナニ、イチャモンツケテンダ、コノヤロー」というイチロー氏のファンの罵声が聞こえてくるようだ。そう、まさにこれはイチャモンなのである。イチロー氏はプロ野球選手なのであって、棋士ではない。野球選手として高い
全ては筆者の
しかしながら、読者諸君には筆者が何を言わんとしているか、うすぼんやりと見えてきたのではないだろうか。そう、努力という行為を成立させるには、その対象となるモノに対する
では、この要件さえ満たせば人は努力をすることができるのだろうかというと、事はそうシンプルではない。努力をするためには、何らかの行動が必要であり、その行動に関する能力を持っている必要もある。では、その努力に必要となる行動とはどんなものなのか。インターネット上でよく見かける努力に言及した議論というのは、この観点に立っているものが多いように思う。筆者としても、その議論を否定するつもりはなく、本稿で改めてこれについて論じるのは控えようと思う。ただ、確信を持てないながらも一つ触れておきたいのは、コツコツと地道に取り組む能力、これが努力に必要か、という疑問である。コツコツと地道に取り組む能力がなくとも、努力に成果がついてくれば、更なる努力をする意欲を形成しうるということもあり得るのではなかろうか。これについては、更なる考察を要するところだろう。
最後にもう一つ努力という行為を成立させるために必要な要素がある。それは、意欲、という要因である。ある目的のために力を尽くして励みたい、という欲求を掻き立てるモノが必要になってくる。それは、おそらくは、本人の内的要因ではなく、外的要因に依存することが多いのではないだろうか。例えば、親が野球経験者でその親の意向で少年野球をやりはじめたらこれが面白くなってきた、とか。友達から絵がうまいと言われて絵を描くのが好きになった、とか。最初は宿題でいやいや書いていた作文だったが、いつのまにかそれに没頭している自分がいた、みたいなことだってあるに違いない。些細なことかも知れないし、そんなことが?と思うような事も多いだろう。それがどんなことかは、おそらく本人すらも知りえない。これは、一期一会、なのだ。誤解をおそれなければ、運、と言ってもよいだろう。
努力には3つの要素が必要だ、というのが筆者の考えだ。
1.努力の対象となる行為に関する潜在能力
2.努力そのものを行うことができる能力
3.その対象のために努力をしようとする意欲
そんなに必要な要素があるんじゃ、努力なんてできるわけないじゃん。しかも、潜在能力が必要なんて、そんなもの誰でも持ってるものでもないし。自分が努力できないのは仕方がないことで、自分が悪いわけじゃなかったのね。よかった。
そう思ったあなた。ちょっと待ってほしい。潜在能力が必要だ、と言ってもなにもイチロー氏のような世界トップレベルになれるような潜在能力が必要なわけではない。0か、1か、じゃない。日本で一番になれるくらい、県で一番になれるくらい、普通の人よりちょっと上になれるくらい、普通くらい、普通よりちょっと下くらい、そしてさらにずっと下がってようやく潜在能力がない、ということになるわけだ。確かに世界でトップになれるわけではないかもしれないが、そのレベルの若干の高い、低い、はあるかもしれないが、普通よりちょっと上くらいの潜在能力があれば、なんかしらの努力の成果を感じることはできるだろう。しかも、その潜在能力がどの程度のものなのか、ということをあらかじめ知ることはほとんどの人にはできない。見当がつくのは自分より潜在能力が低い他人がどの程度まで能力を発揮できそうか、ということくらいだろう。
と、なれば。努力してどの程度までその能力を伸ばすことができるかわからないのならば、できるところまで、自分がもうダメだ、と感じるところまで努力してみる一手しかないと思うのだ。そうでなければ、人並外れた高い潜在能力を持っているにもかかわらず、努力を無駄だと思い、みすみすその能力を発揮するチャンスを逃すようなことにもなりかねない。そして、実際にそういう人は少なくないだろう。世の中の多くの人がそのことを直感的に感じているからこそ、努力をする、という行為が美徳とされ、漫画のみならず様々なメディアの物語で語られることになっているのだろうと筆者は思うのだ。
一方で、自分が誰かに努力することを促す立場になったら、その努力を本当にさせてよいのかを慎重に考えなくてはならない。人は、他人のことに関しては実に無頓着になれる。それは、たとえ相手が自分に近しい血縁であったとしても本質的には変わらない。ひょっとしたら、その努力は相手にとっては、単なる苦痛に過ぎず、何の成果ももたらさないかもしれないのだ。相手に、その人の潜在能力を超える努力を要求していないか、そのことを常に自問自答するべきだろう。
さて、本稿の命題である「努力は誰にでもできるか?」に対する筆者の答えを述べよう。
努力は誰にでもできるとは限らない。しかし、してみる価値はあるに違いない。
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