『姓』は個人識別のための名称ではないと思う

 姓という単語にまつわる、最近のホットな話題と言えば、選択式夫婦別姓制度、である。というわけで、今回はそのお話。

 選択式夫婦別姓制度の話をするからには、『姓』とは何か、というところに触れないわけにはいかないだろう。広辞苑を調べてみると「一族。家すじ。氏。苗字。」と出てくる。今の場合だと「苗字」がもっとも当てはまりそうだ。そこで「苗字」を見ると「名字に同じ」とある。「名字」はというと「その家の名。姓。家名。」と出てくる。「姓」に戻ってしまうあたり、辞書でよくみかける『あるある』ではあるが、どうやら『家』を識別するための名前であると理解してよさそうだ。

 では『家』とはなんだろうか。広辞苑ではいくつかの意味が見つかるが、この場合に一番適当なのは「同じ家に住む人々の集合体」という意味だろう。さらにそこから派生した意味がいくつか記載されており、そのひとつに「家庭。家族全体によって形作られる集団。」というものがある。生活を共にしている家族を集団として識別するために用いられる名前、それが『姓』というものであると考えて間違いなさそうだ。平たく簡単に言えば、お父さん、お母さん、そしてその子供たち、という集団を指し示す名称ということになるのだろう。

 これは辞書上の意味に過ぎないが、辞書に書かれている意味というものはその時代に生きている人たちがその言葉をどう理解しているか、を客観的に記しているものであり、その言葉が持つ本質を理解する上でバカにできない。


 もう一つ。選択式夫婦別姓制度を考える上で避けて通れないのは『結婚』とはどういう意味を持つ行為なのか、ということだ。またまた広辞苑を調べていくと「婚姻」という言葉にたどりつく。「一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係」らしい。まあ、確かにその通りだとは思うが、もう少ししっくりくる意義的な定義はないものか。少々不本意ではあったが、Wikipediaを見てみると果たしてこれに突きあたった。「社会的に承認された夫と妻の結合」( 平凡社『世界大百科事典』vol.10からの引用らしい)という定義である。これは、なるほど、と思えるところがある。単に「一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合」というだけであれば、いわゆる結婚などということをしなくとも、十分その関係性は成立する。では、なぜわざわざ「結婚」という行為をするのか。周囲の人々や自分たちの生活の拠点となっている社会という仕組みから、夫婦となり家族となった、ということを認めてもらいたいからなわけだ。

「結婚」とは当人達がお互いに生活共同体である家族になるという自覚を持つということに加えて、周囲からもこれについて承認を得たい、あるいは、そう認識してもらいたいという欲求を充足させるための行為だったわけだ。そう思うと、いろいろ納得がいく。結婚式、披露宴然り。結婚式や披露宴はしません、という場合でも「結婚しました」ハガキで周囲に結婚したことを知らせることは多いだろう。


 ここまでで、筆者にはもう「夫婦別姓」という単語が、非常にいびつでアンビバレンツな言葉に見えてくる。結婚するということは、周囲に家族になったことを承認してもらいたいという欲求があることを意味しているわけだが、その一方で、同じ家族であることを示す名前を使うのは嫌だ、と言っているわけだ。新手のツンデレか、というのは軽口が過ぎるかもしれないが、この矛盾は少々理解に苦しむところがあるのは否定できない。乱暴に思われるかもしれないが、同じ家族であることを示す名前を使うのが嫌だ、というのであればそもそも結婚という行為をしなければよいと言うこともできると思うのだ。

 実際、夫婦が同姓を名乗ることに対する否定的な意見というのは決して多数派ではない。日本の国民を対象としたこの手の調査はいろいろなところで行われているようだが、自分達が実際に別姓を名乗りたいかというと、実はそうでもないという結果が出ているのを散見する。一方で、自分と無関係の夫婦が別姓を名乗ることをやめるべきだと思っているかというと、それに対しては別に反対はしないよ、というのが多くの人のスタンスのようだ。それはそうだろう、と思う。だって、自分とは関係ないんだもの。選択式夫婦別姓制度に国民の多くが賛成している、という論調をよく見かけるが、これは決して選択式夫婦別姓制度が優れた制度でぜひ導入するべきだと思っている人が多いわけではなく、自分たちは別姓を名乗るつもりはないけれども反対する理由もないしそのエネルギーも持ち合わせてないなぁ、という「反対はしないだけ」という人が多数いるってことを表しているに過ぎない。ググっていただくと、簡単にこうした記事にたどりつける。興味がある方は調べてみてほしい。

 にもかかわらず、現実にはこの難解な制度を実現化しようという動きがあり、その圧力は日々高まっているように思われる。それは一体なぜなんだろうか。


 今、世の中では選択式夫婦別姓制度に反対すると「あいつは女性蔑視主義者だ」というレッテルを張りつけられる。今年(2021年)の2月21日のBBC News JAPANでは、男女共同参画担当大臣である丸川珠代氏が、選択的夫婦別姓に反対するよう地方議員などに呼びかける書状に名前を連ねていたことがニュースになっている。文面としては一応中立っぽい書き方をしてはいるものの、男女共同参画大臣が選択的夫婦別姓に反対するなんて矛盾しているじゃないか、という野党の質問を引用するなど批判的な論調の記事に仕上がっている。私は自民党は大嫌いだし、丸川珠代氏も全く支持しないがこの記事に関して丸川珠代氏に同情する。マスコミの論調は「選択式夫婦別姓制度に反対するやつは男女平等に反している」というもので、この図式に疑問を呈する記事や放送はとんと見かけない。この姿勢から透けて見えるのは、現行制度が男女平等になっていないから男女平等な制度を作るべきだ、という主旨だと理解することができる。そうでなければ、選択式夫婦別姓制度の導入=男女平等の実現、という図式が成立しないからだ。

 さて、では現行の法律を確認してみる。夫婦の氏、として民法750条に次のように定められている。

「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」

 つまり、どちらかに決めなければならないものの、夫婦は夫の姓を名乗ってもいいし、妻の姓を名乗ってもいいわけだ。もちろん、夫の姓を名乗らなければならないなんて書いてないし、夫の姓を名乗るのが望ましい、とも書いてない。そういうバイアスは一切なしで、どちらかに決めなさいとだけ書いてある。制度としては現行法でも男性と女性の間に不公平はない。平等な法律と言ってもよい。オイオイ、である。制度の問題じゃないじゃん、である。


 では、実際に夫の姓を名乗るケースと妻の姓を名乗るケースではどちらが多いだろうか。厚生労働省の「平成28年度人口動態統計特殊報告『婚姻に関する統計』の概況」によると、平成27年における婚姻のうち、実に96%が夫の姓を選択しているそうだ。夫の姓でも妻の姓でもどちらでも自由に名乗ってよい、という制度なのにこの割合が不自然に偏っているというのは誰の目にも明らかだ。でも、確かに自分自身の意識の中にも、結婚したら女性は男性の姓を名乗るということがアタリマエ、という感覚がある。ふうむ。どうやら、この慣習的な(あるいは文化的な)認識が問題の根源であるように思える。

 夫婦別姓を主張する人達からは、雑駁ざっぱくに言うと「結婚で姓を変えると手続きが多くて大変。面倒。」「長年使ってきた姓を変えるのは納得できない」「男性に従属しているみたいなのが嫌」などの意見が聞こえてくる。一見、いろんな理由があるように見えるが、実はこれらは根っこでつながっていると筆者は思う。「手続きが多くて大変。面倒」もその後に「なのに、なぜ女性だけがこの苦労をしなければならないの」が続くのであり、「長年使ってきた姓を変えたくない」もその後に「のに、なんで女性だけが変えなくちゃならないの」と続くのではないかと思うのだ。そういう視点で見ると「男性に従属しているみたいなのが嫌」はもっともストレートな意見である。要は男ばっかり「ズルイ」じゃないか、というわけだ。この「ズルイ」という感情こそがこの問題のキーワードで、軽視したり放置したりしてはならないクリティカルな意識ではないだろうか。

 前段で、夫婦が同姓を名乗ることに対する否定的な意見は多数派ではないと述べた。これらの人も、同姓を名乗ることに対しては否定的ではないにしても、女性が一方的に姓を変えなくてはならない現状には疑問を持っている可能性が高いだろうと想像できる。そして、それはきっと事実に近いだろう。


 ようやく、この問題の本質が見えてきた。この「ズルイ」を解消することが必要なわけだ。そうであるとするならば「夫婦別姓制度」は、問題の解決になにも寄与しないのではないかと思われる。現在の民法750条もさほど不平等な造りにはなっていなかった。にもかかわらず、現実は96%もの夫婦が夫の姓を名乗るという不平等な結果となっている。の制度をどれだけ整えてみても、実際にはその制度が長年の慣習を駆逐することがないことはすでに証明済みなのだ。しかも、冒頭で検討してみたように「夫婦別姓」という概念そのものもいびつで不自然であるように思われる。それでも、この制度をゴリ押ししようとするのは、従来の夫婦同姓の慣習に対して強い不満を持つ人に溜飲を下げてもらうための苦肉の策に過ぎないように筆者は思うのだ。他にいい手がないんだから、しょうがないじゃん、というわけだ。


 そこで、筆者は提案したい。

 結婚という行為は男性と女性が同一の生活共同体をつくったことを周囲から承認してもらうという欲求に基づいた慣習であり、これによって生じた「家族」が単一の集団としての名前、つまりは姓を持つというのは極めて自然なことだと思われる。したがって、夫婦が同姓を名乗ることを義務付けることは何ら問題がある制度ではない。問題はどちらかの姓を名乗らなければならないことによって、片方は姓を変えずに済み、もう一方は姓を変えなくてはならないという不公平が発生することにある。これは姓を変えることになるのが男性になっても女性になっても同じことだ。現在の民法の規定では、常に婚姻する人のうち50%が不公平を感じる決まりになってしまっていると言っても過言ではない。ならば、だ。どちらも姓を変えなくてはならないことにするのだ。夫の姓でもない、妻の姓でもない、まったく新しい姓を名乗ることにするのだ。しかも選択式ではなく、全夫婦に対してこれを義務とする。

「素っ頓狂な筆者が、突拍子もない暴論を持ち出したぞ」そう思われた読者は冷静に考えていただきたい。

 結婚によって夫婦は新しい生活をスタートさせる。それまで育っていた家族と袂を別ちあって新たな家族をつくるわけだ。男性、女性の双方が姓を変えるのに十分な理由になる。しかも、双方にとって「ズルイ」は存在しない。きわめて平等だ。将来、増えるであろうことが期待される子どもたちも含めて家族みんなが同じ姓を共有できる。夫婦別姓制度でよく取り上げられる子どもの姓はどうするんだ、という問題は全く発生しない。確かに、今までは一人だけで済んでいた名義を変える面倒な手続きが二人分発生してしまうデメリットはある。しかしながら、結婚する人が全員そうした手続きに直面するということになれば、社会の方が名義変更の手続きに対して、今より最適化を図るようになる可能性も期待できようというものだ。自画自賛するわけではないが、「選択式夫婦別姓制度」なんて言う小細工よりもはるかに本質的なのではないかと思うのだ。

 それでも姓を変えるのは嫌だ、という方は結婚という制度を利用しなければよいというだけだと思う。現在でも事実婚と称される形態をとられている方はいらっしゃる。ただ、その場合、結婚という承認行為を経なければ享受することができなかったさまざまな法的な優遇制度のうち、結婚(ここでは周囲から家族を構成することになったことを承認、認識してもらうことを意味する)という行為に依存しないものについては結婚をせずとも享受できるようにする法改正は必要になるだろう。ぱっと思いつくのは子育てに関する優遇だ。これは結婚という行為とは無関係な社会への大きな貢献だ。結婚という法的手続きとは関係なく法的メリットを享受できなくてはならないと思う。

 冷たいことを言っているように聞こえるかもしれないが、現在「ズルイ」に反発して事実婚を選択している方の多くはこの「ズルイ」が解消されれば結婚して同姓となることを受け入れてくれるのではないだろうか。そうでない方は、結婚という法的手続きに依存していた法的メリットが、その手続きを踏まずとも享受できるとなれば、結婚という単なる手続きにはなんの未練も持たないのではないだろうか、と筆者は思うのだ。


 完全に蛇足だが、「選択的夫婦別姓制度」の議論を見ていると諸外国ではみんなこれを取り入れているのに日本だけジェンダー平等に乗り遅れている、という論調を見かける。筆者としては、大変恐縮ながらこうしたヨウチな理論は、論評に値しない、というスタンスを採らせていただいている。そこには「選択的夫婦別姓制度」に対する自身の見解というものは存在しておらず、その価値判断を他人(外国)に依存しているだけの姿しか見えない。小学校低学年くらいによく見かける「みんな○○を持っているんだよ。私にも買ってよー」というあれと本質的に同等である。クダラナイ、と思ってしまうのはやはりへそまがりなのであろうか。










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