あまのじゃくが見ている風景
竹中凡太
オリンピックに物申す
東京オリンピック2020で日本は過去最高の数のメダルを獲得した。
かく言う私も、ソフトボール、野球、サッカー、柔道、レスリング、普段滅多に見ないバスケットボールなどなど大変堪能させていただいた。
テレビの前で、日本選手の活躍にいちいち歓声を上げる私を、家族はさぞあきれ顔で見ていたことだろう。
結果を残せた選手も、残念な結果となった選手も、一様に競技に懸命に向かい合う姿には日本中の人々が心を動かされたに違いない。
大いに敬意を表すべきで、この点について異議を唱える人は決して多くないだろうと思う。この点を最初に強調しておきたい。
やはり、残念だったのは今大会がコロナ禍で開催されたことだろう。
政府や都知事は、皆がテレビで観戦したから人流は抑制された、と胸を張るが、何を素っ頓狂なことを言っているのか、と思わずテレビに向かって怒鳴りたくなる。というか、怒鳴っている。
選手が懸命に競技と向かい合う姿を、目の前で見て、ナマで感じることができるからこそ、地元で開催される、ということに意味があるのではないのか。テレビで見ればよい、というのであれば、どこか名前も知らない遠い外国でやっているのと全く変わらない。さらに言えば、人流が抑制されたのは無観客開催となったうえ、過剰なまでの交通規制の結果でもある。決して国民がコロナ対策に前向きに取り組んだからではない。
無観客と言えば、日本国民はもちろんのこと、海外から観戦にくることもできなくなった。致し方ないとはいえ、これも残念な話である。本来オリンピックというのは単なる競技大会ではなく、多くの国の人々が政治・信条を飛び越えて友好的に文化交流を行うお祭り騒ぎであるところに最も大きな存在意義がある。その中で、観客たちは、自国の選手がどれだけ頑張ってくれるか、自国の選手がどれほど誇れるのか、を良い意味で自慢しあい、お互いの健闘をたたえあうわけだ。こうした文化交流の機会は当然なくなり、そればかりか、選手団と選手団を受け入れた自治体の住民との交流すら中止になってしまった。これでは、各競技団体が主催する一般的な競技大会となにも変わらない。
何はともあれ本来の姿を考えれば、オリンピックを開催する、ということは世界最大級のお祭りを開催するということに他ならない。ところが、だ。こんなお祭りを開催する一方で、日本国民は外出を控えておとなしくしてろ、と行動を著しく制限されることとなった。しかも、IOCの関係者なる不要不急な観客が外国から多数押し寄せて、コロナの感染が広がる日本国民とは隔離されたバブルの中の特等席で観戦をしていったわけだ。この評価は、少々意地が悪くて極論にすぎることは承知しているが、それでもそう言いたくなろう、というものだ。実際、IOCの関係者として来日した人間のうち、本当に競技の実施に必要不可欠だった要人が何名いたのか、と思うのだ。最たる例がトーマス・バッハ氏で、彼が来日せずとも競技の実施にはなにも支障がでなかったことだろう。開会式と閉会式で挨拶をしていたようだが、それこそ、リモートでやればそれで十分だった。むしろ、リモートでやって開催国の国民の心情に配慮する程度の知恵は持っていてほしかった。結局、彼にとって日本は自分の母国から遠く離れた極東の島国であり、その国でコロナがどうなるか、なんてことはどうでもよいことだったのだろう。これについては、全く極論であるとは思わない。その証拠に、彼はオリンピック終了後に銀ブラを楽しんでいた。選手でさえ、選手村から外へ出ることを事実上、禁止されていたというのに。一体、自分を何様だと思っているのだろう。
バカなトップの愚かな行動はひとまず脇によけておき、コロナ禍におけるオリンピック開催の最大の罪は何かと言えば、日本国民のコロナ対策に取り組む心を完全にへし折ってしまったことにあるのではないかと思う。ここまでに述べたように、オリンピックとは単なるスポーツの祭典ではない。良い意味での国を挙げたお祭り騒ぎ、というのがその本来の姿だ。その一方で、政府は緊急事態宣言を発令、まん延防止等重点措置の対象地域をも拡大することとなった。シンプルにわかりやすく言えば、政府は、お祭りはやるけれどもお前たち(国民)は家でおとなしくしてろ、とこう言い切ったわけだ。これは、長期間コロナ対策として行動を自粛してきた国民の心をへし折るには十分だった。エネルギーが有り余っているやんちゃな若者たちが公園にたむろして、集団で酒を呑んでマスクなしで騒いだとしても、そりゃ、強く取り締まることはできないだろう、と妙なところで納得してしまった。8月に入ってコロナ感染者数が爆発的に増えた。その一因として、デルタ株の影響がかなり大きいことは否定できないだろう。その一方で、政府が国民の心をへし折ってしまったことも決して引けを取らないほど大きな影響を与えているとも思うのだ。政府の罪はきわめて重い。飲食店の営業を厳しく制限しているくせに、自分たちは料亭で飯食って、打合せだ、としれっと言ってのける連中のやることだ。もはや、政府の言うことを真剣に聞き、受けとめる者など誰一人としていないことは疑う余地もないだろう。政権政党である自民党と公明党には早々に政治の舞台から退散願いたいものである。
さて、少々話がそれた。
今回はオリンピックに物申す回なので、話をオリンピックに戻そう。
では、コロナ禍でさえなかったらオリンピックは歓迎すべきものなのか、と言われると、へそ曲がりな私としてはそれも素直に肯定できない。オリンピックの大義名分は立派なもので、これについては私も首肯するしかない。というよりも、旗印どおりに開催されるなら喜んで歓迎する。
今回の東京オリンピックでは、酷暑が問題になった。急遽、マラソンや競歩の会場が東京から北海道に変更になったりもした。東京はマラソンや競歩の競技を行うには暑すぎるからだという。アスリートファーストだ、会場の変更は英断だった、というそういう論調をテレビや新聞でよく見かけた気がする。でも、多くの人はこれに違和感を感じたのではなかろうか。北海道なら競技に適した温度だったのか、と言えば、決してそうではないのは誰の目にも明らかだった。実際、今年の北海道は東京に負けず劣らず暑かった。マラソンに至っては、106名参加したうち、30名が棄権となった。東京から北海道に会場を変更したところで実際には何の効果もなかったわけだ。では、なぜIOCは躍起になってそんなことをJOCにさせたのか。理由は簡単で、IOCはアスリートファーストだというポーズをとって見せなければならなかったからだ。
本当にアスリートファーストだと言うのなら秋にやればよい。なぜ、一番スポーツをやるのに向かない酷暑の季節にやらねばならないのか。世界でTV放映されるスポーツ競技が最も少ない時期が夏だから、というのがその理由だ。なんてことはない。アスリートファーストではなく、スポンサーファースト、放映権料ファーストなだけだ。英国のBBCでも同様の解説がニュースとして報道されている。ぜひ、ググってみていただきたい。決して、個人のうがった見方ではないのだ。これを誤魔化そうとして行われたのが、マラソン・競歩の開催場所を東京から北海道に変更することだったわけだ。そのために、どれだけの経費がかかり、どれだけの人の労力を浪費したのだろう。
もう一つ。なぜ開会式があんなに夜の遅い時間に設定されていたのか、って話もある。菅総理が自分の幼少期の話を持ち出してオリンピックの決行を力説したのは記憶に新しいが、小さい子どもにも見てほしいなら、なぜそんな遅い時間に開会式をやるのか。入場だけで2時間もかかるような開会式を夜の8時からやったって、小さい子どもが見ていられるわけがない。昼間、家族が揃って見られる時間にやるべきではなかったのか。
これも開催国やアスリートには全く関係ない事情がある。開会式を楽しみにしていた人は多いだろう。これはどの国の国民も同じ。でも、開催国と時差が大きい国の国民がこれを見ようと思えば、どうしたって真夜中だったり早朝だったりになってしまう。これを嫌がる人がいる。それは放映権をもっているテレビ局だ。開催国のテレビ局が放映権を持っているのならばこうした問題は起こらない。でも、開催国と違う国のテレビ局が放映権を持っているとそういうわけにはいかなくなる。放映権を持っているTV局がある国の国民が見やすい時間でなければせっかく放映権を買っても視聴率が稼げなくて、広告収入を得にくくなる。
ちなみに、東京オリンピックの放映権はアメリカのNBCユニバーサルが持っていた。そりゃ、日本国民にとってはありがたくない時間に開会式が行われる道理、というわけ。
なんだか、オリンピックってでっかい飴で、おこぼれに預かりたい蟻がその飴にたくさん群がっているようにしか思えない。こんな代物のために、多額の税金をつぎ込んだだけではなく、国民の生命・財産までをもリスクにさらしたのかと思うと、溜息しか出てこない。
いっそ、オリンピックなんてやめちゃったらいいんじゃないか、と思う今日この頃なのである。
2021年8月某日 自宅にて
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