-渋谷Ø切断-③「広報探偵・古見遊の理想」


 ビルとビルの間を抜けた、月明かりが僅かにしか届かない暗がりの路地。

 空き缶やビニール袋が散乱したその道で、俺はビルの壁面に背中を預け、スマホを片手に座り込んでいた。


 目的は、今話題の通り魔を捕まえること。

 件の通り魔は、この道で襲いかかるパターンが多いという。

 俺の通っている大学への近道だから、終電ギリギリまで遊ぶような連中は、暗くて不気味なことを知りつつも通るヤツが少なくない。


 通り魔にとって、これほど都合のいい道はないというワケだ。


 この情報は警察も知っているはずだけど、特に警戒する様子はない。

 死者までは出ていないため、本腰を入れるには早い段階だと思っているんだろう。


 だから、もう俺が個人的に警備することにした。

 自慢じゃないけど、人並み以上に身体は鍛えている。

 特に腕力は、登山サークルの猛者たちの中でもナンバーワン。


 正直、コソコソと弱い者いじめに励む卑怯者になんて、相手が刃物を持っていたとしても負ける気がしなかった。


 カラン――と何かが転がる音が聞こえた。


 素早く音のした方を見ると、そこにいたのは赤ら顔のスーツの女性。

 相当酔っている様子で、千鳥足になっている。

 スーツはおろしたてみたいにピカピカだけど、肩まで伸びた髪はくるくるの天然パーマで、四方八方を向いた毛先が特徴的だ。


 この辺りはガラスの破片も散乱しているから、倒れて怪我をしてしまわないかと、ヒヤヒヤしてしまう。


「あの、大丈夫スか!? 飲みすぎっすよ!」


 思うが早いか、女性に肩を貸そうと駆け寄った。

 俺が触れた途端、女性の力がふっと抜けて、俺の胸へともたれかかった。


「ちょ!? どうしたんスか!? 眠ったんスか? もしもーし!」


 女性にしては固い身体をしているなぁなんて思いつつも、少しドキドキしつつ呼びかける。


 返事はない。

 完全に眠ってしまったようだ。

 サークルの先輩とかに話したら、下品な方向に話が向かう状態で、ちょっと気まずい。


 こう見えても硬派な俺は、ここで下手に起こして女性に恥ずかしい想いをさせてはなるものかと、慎重に路地の外まで運び出そうとした。


 その時――


「意外とピュアなんだね」


 胸の中から女性の声がした。

 次の瞬間、何かが俺の右目を覆う――と同時に、顔の右側がカッと熱くなった。


 反射的に女性の手を払い除けてしまって、女性が転んでしまっていないか確認しようとした。


 でも、手を払い除けたはずなのに、視界の右側がいつまで明るくならない。チョロチョロと、水道の蛇口を流しっぱなしにしたみたいな音と、右頬に何か液体が伝っている音がした。


 それに、右目が熱い。それに痛い。ジンジンして、ズキズキして、まるでタバスコの瓶口を眼球に直で突っ込まれたみたいだ。


 ――触るな。触っちゃダメだ!

 右目に触れようとした自分の手に、脳が警告する。


 でも止められない。

 俺は震える手で、まるで熱が引かない右目に、触れようとした。


 そこには――穴がぽっかり空いているばかりで、眼球など存在しないのであった。


「ひ――!? お、俺の目……!? 目、どこ……!?」


 情けない悲鳴が漏れ出した。

 そしてジワジワ感じていた右目の痛みが、一気に火の手が広がるみたいに、顔の右半分に広がっていく。


 痛い痛い痛い。痛い以外に考えられない。

 骨折くらいなら無理やり笑顔を浮かべられたけど、これは無理。

 死ぬ。死んでしまう。こんなにも痛いなら、死んだ方がいいくらいだ。


「いい声で哭いてくれるわねぇ~、期待通りだわぁ」


 呻き声を堪えきれない俺を嘲笑いながら、前方の女性が近寄ってくる。

 その左手は、俺の血でべったりと濡れていた。


「サプラ~イズ♪ 眼球消失マジックは楽しんでくれた? 古見遊ふるみ ゆうくん」


「な、な、んで、おへの、名前……?」


 上手く言葉を発せられない中、必死に訊ねかけると、女性は両手で自らの頬に触れつつ、恍惚な様子で語る。


「殺したかったからに決まってるでしょ~? キミが私を探し当てようと頑張っていることは知ってたからね。時間をかけて、二人きりで会える機会を演出してあげたってワケ」


 血まみれの左手をおいしそうに舐めつつ、女性は笑った。

 その目は充血したみたいに真っ赤で、赤ら顔に見えていた顔が、一層赤らんでいる。


「思った通り、若者らしいトロトロの血。私の血は、濃くて黒くて、ドロドロだから、羨ましいなぁ。あなたも一度飲んでみる?」


 今更ながら全身の血の気が引いていくのを感じた。


 この女は、ヤバい。ヤバすぎる。

 素手で簡単に人間の顔を引き裂くなんて。

 おいしそうに血を飲んで、感想を語るなんて。

 俺みたいな奴とは、住む世界が完全に違う人種だ。


 どうすれば逃げ切れるのか――と必死に思考を巡らせるけれど、痛みと足の痙攣で立っているだけで精いっぱい。


 このままでは、殺されてしまう。


「助けてぇ……! 誰かぁ! 殺されるぅ!」


 必死に女性を振り払って、情けないくらい必死に叫んだ。


 この裏路地は利用者がたびたびいるんだ。

 これだけ叫べば、一人くらいは駆けつけてくれるはず。


 この通り魔だって逃げ出したくなる。その、はずなんだ。

 なのに――


「安心して、古見くん」


 女性は慌てる素振りひとつ見せずに、両手をポキポキと鳴らした。


「二人きりのディナーを邪魔されたくないから、人払いを済ませておいたの。5分は邪魔されないよ」


 絶望的な言葉。

 懸命に足を動かそうとするけれど、動かない。


 動け。動け。動け! 逃げろ逃げろ逃げろ!!

 いくら自分の身体に言い聞かせても、ピクリとも動かない。

 俺の前まで来て、女性が俺の首筋へと手のひらを向ける。


 まるで凶暴な獣の口だ。

 この口に噛まれたら、俺は――


「じゃあ……いただきます」


 女性の手のひらが俺の首筋へと触れた、その刹那――


「『いただきます』は手を合わせてから、と。学校で習わなかったのかい?」


 女性の手首を誰かが掴んだ。

 その掴んだ何者かが、瞬時に女性の懐へと飛び込んでいく。


 女性は後方へと吹き飛び、よろめきつつも着地。

 その顔から余裕の笑みは消え、敵意に満ちた目を、俺の前に現れた何者かへと向ける。


「あなた何者? 普通のヒトなら、ここに来ないはずだけど」


「通りすがりの探偵サラリーマンだよ」


 ようやく多少冷静さを取り戻し、目の前に立つ命の恩人の姿を認識する。


 ボサボサの長髪に、ワインレッドのベスト姿、横顔から見える深い目のくま。

 驚くべきことに、その姿には見覚えがあった。


「ア、アンタ、この前大学にいた不審者……!?」


「おっと、あの時の学生くんかい? その説はごめんよ。まぁこんな怪しい男が学内にいたら、怪しんで当然だよね」


 たははと苦笑するベストの男。

 このオーラゼロの情けない笑顔。間違いない。


 以前、大学で見かけた怪しいオッサンだ。

 その時は咄嗟にタックルをかまし、取り押さえてしまった。

 でも、今俺の前に立っている男の姿は、弱々しさなど一切感じさせない。


「実は、通り魔事件の捜査の依頼を受けていてね。キミの通う大学の生徒が狙われる傾向にあったから、調査していたんだよ」


「……勘違いしてマジで申し訳ないッス。でも、どうして助けに来れたんスか? 誰も来ないようにしたって言われて、絶望してたんスけど」


「ああ、人払いのトリックか。よくある手だから簡単に見抜けたよ。犯行現場から少し離れた場所で、ボヤ騒ぎを起こす。そちらに注目が向いた隙に、犯行を終えるって寸法さ」


 俺の質問に答えつつ、探偵のオッサンは通り魔の女性と向かい合った。


「普通のヒトなら注意がそちらに向くが、探偵わたしはその逆を行く。キミの考えはすべてお見通しだよ、通り魔さん」


「偉そうに語らないでもらえるかなぁ? むしろ、邪魔者が私の狩猟場に来てくれて、好都合だよ」


 女性がカマキリみたいに、両手を顔の前で構えた。

 脱力した両手は、ゆるく開いた状態で、ブラブラと静かに揺れている。


「私の『手作りの襲獲物ハンディング・ハンティング』は、防ぐことなんてできない。あなたの血は不健康でマズそうだけど、古見くんメインの前の前菜として味わってあげるね」


「き、気をつけてください! その女のヒトの握力、マジでやべぇッス! 俺、右目を素手でえぐられました!


「握力か。忠告ありがとう……えっと、」


「古見っす!」


「古見くん、助かったよ。早く一緒に、病院へ行こうね」


 恐ろしい殺人鬼と相対しながら、横顔をちらりと向けて微笑みかける余裕がある。

 相当、場馴れしていることが、佇まいからも察せられた。


「来ないのかい? 先行を譲ろうレディーファーストと考えていたけれど、余計な気遣いだったかな」


「……ほざけよ、中年。あなた、見るからに罠を張るタイプでしょ? 闇雲に自分から仕掛けるドジなんて踏まないよ」


「流石は腐っても紫崎一門、と言ったところか」


 男性が右手の腕時計らしき腕輪に触れると、女性の周囲に何か細いワイヤーのようなものが現れ、音もなく震え始めた。


「そのワイヤーに触れてくれれば、楽だったんだけどね」


「……なるほど。あなたも、側だったんだ」


「いいや。今はしがない、探偵が趣味のサラリーマンだよ」


 男性は続いて、腕輪をはめた手を指揮者のように横へ振った。

 すると、震えていた糸がキュッと絞まって、通り魔の女へと襲いかかる。


 糸に包囲された女性に逃げ場はない――と思いきや、女性はなんと上に跳び上がった。


 更に、片方の壁に手のひらをつけた状態で、落下せずに宙ぶらりんの状態で静止。

 まるで壁に貼りついた虫みたいに、女性の身体が安定する。


「たたた、探偵さん!? あのヒト、宙に浮いて!」


「壁の僅かな凹凸を掴んでいるだけだよ。驚くほどの技じゃない」


 そう軽く流し、探偵さんは懐から黒い棒を取り出した。

 それを力強く振ると、棒はカシャッと勢いよく伸びて、50cmほどの警棒に変化。


 探偵さんが俺の肩に触れて、後ろに下がるよう促しつつ、警棒を前に構える。


「手に触れさえしなければ安全無害。弱点が分かりやすくて、戦いやすい相手だね」


 探偵さんの言葉が癪に障ったのか、片手で壁面に貼りついたままの女性は、眉をひそめた。


 それだけで、俺は空っぽの右目が痛んで、悲鳴をあげそうになる。

 相手は素手で肉をえぐり、握力で壁に貼りつく怪物だ。

 なのに戦いやすい相手って、そんな馬鹿な。


 俺の驚きをよそに、探偵さんは警棒を構えていない側で手招きし、冷たく笑った。


「いつまでゴキブリみたいに貼りついているんだい? ワイヤーは解除してみせたのに、何を怖がる必要がある? かかってきなよ、握力自慢」」


「……この、中年! 後悔させてやるよ!」


 壁に貼りついていた女性が、壁を蹴るようにして飛び掛かってきた。


 探偵さんが迎え撃とうと、警棒を盾のようにして構える。

 衝突は避けられない――と思いきや、次の刹那、女性の軌道に変化が生じた。


 両手で壁を掴んで勢いを止め、もう一度壁を蹴ることで、探偵さんの頭上を飛び越えたんだ。


 そしてその先にいるのは――探偵さんにかばわれていた俺。


「あ――」


「ひゃひゃひゃ! 古見くんさえ殺せれば今日はよしとするよ!」


 女性が叫びながら俺に飛びかかる。

 完全に不意を突かれて、身動きひとつとれない。

 ただ、女性の手が俺の身体に触れるのを、見守ることしかできなかった。


 俺の胸に、女性の手が、触れる――


終業時刻タイム・オーバーだよ、お疲れ様」


 俺の胸に触れた瞬間、女性の身体が同極同士重なった磁石みたいに、勢いよく弾け飛んだ。


 その後ろに立つ探偵さんが、腕輪をはめた腕を横薙ぎに一振り。

 腕の動きに連動するみたいに、女性は壁に勢いよく叩きつけられ、鼻血を噴き出し、壁にもたれかかった。


 まるで、アニメのエスパーが超能力を使ったみたいな光景だ。


「た、探偵さん、今のは、一体……? まさか、念力使いだったんスか!?」


「はは、念力なんて持っていないさ。巻きつけたワイヤーを引っ張っただけだよ」


 よく観てみると、女性の身体には先ほども見えた細いワイヤーが、幾重にも巻き付いている。

 ワイヤーなんて、いつの間に?


「ど、どういう、ことなの……!? 宙にワイヤーの罠はなかったはず……!」


 女性が手でワイヤーをほどこうと足掻く。

 でも、まったくほどけるどころか、余計に絡みつくばかりだ。


 探偵さんが腕輪のついた手を強めに振り下ろすと、女性はたまらず地面に転がってしまう。

 これでは抵抗などしようがない。


「追い込まれたキミが私ではなく、古見くんを狙うのは分かり切っていた。だから、先ほど古見くんに触れた際に、罠を仕込んでおいたんだよ」


 さっき探偵さんが俺の肩に触れたことを思い出し、あっと声を出す。


 あの時に、罠を?

 仕掛けられた俺自身さえ気付かないなんて、恐ろしい神業だ。

 洞察力も、演技力も、完全に探偵さんの方が上をいっている。


「早く降参してくれないかな? 今晩は早めに帰ると、約束しているんだよ」


「ナ、ナメるなよ、中年……! 私を誰だと思ってる! 紫崎手羅しざき しゅらだぞ……!? まだまだ、この手で、殺して、殺して、殺しまくるんだ! 邪魔をするなぁぁぁ!」


「やはり紫崎か。この時期は落第者が暴走しやすいからね……わざわざ私が来て正解だったよ」


「違う……! 私は、落第者じゃあない! 私が後継者だ! 私だって、紫崎沙夜なんだ!!」


 地面に転がっていた女性が両手を地面に叩きつけ、探偵さんに向かって跳び上がった。


 凄まじいまでのパワー。

 普通の人間なら、腕力だけで飛び上がるなんて不可能だ。

 なのに探偵さんは顔色ひとつ変えずに、女性の首を掴んで、動きを止める。


「が……!? くぁ……!」


「……最後に、先輩としてのアドバイスだ。いい特技を持ってはいるが、それだけじゃ通じない。素質はあるのだから、細かな技術を、しっかりと磨くといい」


 数秒後には、紫崎手羅を名乗った女性は、探偵さんに首を掴まれたまま、魂が抜けたみたいに脱力した。

 一瞬でも目を離していたら、エスパーにしか見えなかったことだろう。


「こ、殺したんスか……?」


「いや、頸動脈の血流を止めて失神させただけだよ。クセになるから、あまり女性相手に使いたくなかったんだけどね」


 そう語る探偵さんは涼しい顔をしていて、汗すら流していない。

 失神した女性を優しく地面に寝かせる様子は、以前に大学で出会った時の情けない様子は何だったのかと訊ねたくなるほど、最高にカッコよかった。


「……古見くん。改めて、救助が間に合わなかったことを謝罪するよ。本当にすまなかった。私の所属する組織が責任を持って、キミの傷は治療する」


 そんなカッコいい探偵さんが俺に向き直って、深々と頭を下げた。


 探偵さんが駆けつけてきてくれなかったら、俺は確実に死んでいたのに。

 右目を潰された時よりも鋭い痛みが、胸に襲ってくる。


「あ、頭を上げてくださいよ! こんな傷、自業自得ッス……! 俺が勝手に、通り魔を捕まえようって、出しゃばっただけッスから!」


「何を言うんだ。勇気を持って犯人と戦おうとしたキミを、私は尊敬する。たとえ無謀であろうとも、悪に立ち向かったキミは、間違いなく正しいよ」


「あ、あはは、は……」


 無事な左目から、自然と涙があふれてくる。

 安堵感からなのか、褒められて嬉しいからなのか、何もできなかった悔しさからなのか、涙の理由は分からない。


 ただ間違いないのは、今の俺が最高にダセーってことだけだった。


「探偵さん……俺、何もないんスよ。ヒトより身体が強いことくらいしか、自慢できることがなくて。そんな俺でも、アンタみたいにカッコよくなれるッスかね?」


「私みたいな地味な社畜になら簡単になれるさ。サビ残や連勤に耐えられる、強い身体があるんだからね」


 苦笑しながら言って、探偵さんが俺の頭をポンポンと軽く叩いた。

 よく見ると、その手には細かな傷がびっしりとついていて、どれほど厳しい世界で生きてきたのか、窺い知ることができた。


 決して甘い世界ではない。

 だけど、それでも俺は、この探偵さんの背中を追いかけていきたいと思った。


「探偵さん、名前はなんて言うんスか? 命の恩人ですし、名前くらい教えてください」


「ごめんよ。本名を教えるのは組織のルールで禁止されているんだ。組織の中では、『社畜探偵』で通ってる」


「見たまんまっすね」


「うっ……気にしているんだから、言わないでくれよ」


 困ったように笑う社畜探偵。

 先ほどまでのカッコよさから打って変わって、どこにでもいる苦労人のサラリーマンのようだ。


 敵にすら情けをかけて、俺みたいな若造にも頭を下げるこのヒトを、きっと笑うヒトもいるだろう。


 だけど俺は笑わない。心から尊敬する。

 ただ何となく生きてきた俺に、進みたいと思える道を、示してくれたヒトだから――


「社畜探偵さん。お願いがあるんスけど――」


 こうしてこの俺――古見遊ふるみ ゆうは、探偵を志し始めた。


 『探偵撲滅』前日譚-渋谷切断-③

 「広報探偵・古見遊ふるみ ゆうの理想」


    ◆


 夕日の差し込む路地裏に、血が飛び散った。


 それはこの俺、広報探偵の血。

 渋谷ちゃんに向かって飛び込んできた秘書さんのナイフの刃先を、正面から手のひらで受け止めたんだ。


 刃が手を貫通し、大量に出血する。

 でもその代わり、ナイフごと秘書さんの手を掴み、身動きを封じることができた。


 普段の俺なら反応すらできない一瞬の出来事。

 秘書さんがナイフを取り出すのを見て、咄嗟に身体が動いてくれたんだ。


 社畜先輩の指導の、賜物だろう。


「渋谷ちゃん、今ッス!」


「ナイス! 広報ちゃん!」


「ちっ……!」


 秘書さんが俺を引き剥がそうと、ヒールで俺を思い切り蹴りつけた。


 腹にヒールの踵が刺さって、吐きそうになる。でも離さない。あの日、社畜先輩に救われてからコレまで、唯一の取り柄である身体の頑丈さだけは磨き続けた。


 取り柄などない馬鹿な俺が今――探偵としてできる唯一の仕事はこれしかない。


「離しなさい、このガキ!」


「ガキじゃないッス……! 俺だって、もう、探偵なんスよ!」


「広報ちゃん、目ぇつぶってて」


 渋谷ちゃんが懐から手のひら大のボトルを取り出し、女性の顔にパッと液体を振りかけた。


 女性は咄嗟に目をつぶったけど、すぐに顔面が苦悶に歪み始める。

 そしてたまらず、ナイフを手放して地面を転げ回り、呻き声をあげ始めた。


「初めてヒトに使ったんだけど、どう? ウチお手製の催涙液の味は」


 楽しげに笑う渋谷ちゃん。

 対して秘書さんは、そんな声など届いていない様子で、顔を押さえ、呻き続けている。


 先ほどまでの凛々しさやクールなど皆無なほどに、情けない姿だ。


「し、渋谷ちゃん……秘書さん、尋常じゃない顔になってるけど、あの液体、何が入ってるんスか?」


「それは企業秘密だねぇ~。まぁ、薬学部志望には手を出すな、ってことで」


 普通の薬学部志望はこんなの作らないよ――と内心ツッコミを入れつつ、俺は手に刺さったナイフを抜き、スーツのベルトを使って女性を後ろ手に縛った。


 それから救急車の手配を済ませたあと、路地裏に座り込み、渋谷ちゃんに応急処置をしてもらった。


 薬学部志望だからか、応急処置も手慣れたもので。

 渋谷ちゃんはあっという間に俺の手の傷を消毒し、包帯を巻いていく。


「うん。指は問題なく動くみたいだし、大事な神経は傷つけてないっぽいね。よかった、よかった」


「えっ……もしかして、ここに穴が開くのってヤバかったりするんスか? 漫画だとよく穴開くのに」


「いや漫画の読みすぎ。指を動かす筋肉や神経が集まってんだから当然っしょ。当たりどころがヤバかったら、一生動かせない指ができてたよ」


「え~~~!? っぶねぇ~~~~、セーーーフ!!」


「いや、怪我した時点でアウトだから。ま、おかげで殺されずに済んだから感謝してるけどね……ありがと、広報ちゃん」


 そう言って、はにかんでみせる渋谷ちゃん。

 その少女らしい表情は、今しがた秘書さんに見せた、冷酷にすら思える容赦のなさとは対照的で。


 彼女の中でまぜこぜとなっている、光と闇を垣間見たような気がした。


「広報ちゃん、さっき秘書さん、紫崎沙夜って名乗ったよね」


「そうッスね。確か、紫崎一門の長の名前だったはず。話が聞ける状態になったら、問い詰めてみるッスよ」


「……その前に、広報ちゃんは病院だけどね。老師のじっちゃんも呼んであるし、あとはウチらにまかせといてよ」


「め、面目ないッス。治療が済んだら、すぐに合流するんで」


 話しながら、ふと社畜先輩に出会ったあの日のことを思い出す。


 そう言えば、俺を襲ってきた通り魔の名は、紫崎手羅だった。

 それに、当時は意味不明だったけど、「私が紫崎沙夜だ」とか何とか、言っていたような……。


「あ、そうだ、そうだ。このワイヤーの罠、危ないから切っとかないとね。広報ちゃん、ナイフ貸して~」


「ああ、そうッスね。誰かが怪我したら、大変だ――」


 ――ワイヤーの罠?


 ゾクリとした。

 どうして紫崎沙夜が、社畜先輩と似た技を使ったんだ?


 胸の鼓動がうるさい。

 偶然の一致だと思いたい気持ちと、流石に気になる点が多すぎるという想いがぶつかり合う。


 ――偶然、だよな?

 俺は、社畜先輩のことを尊敬しているし、よく一緒にいる。

 でもその実、過去や親はおろか、本名だって知らない。


 もしかしたら、自分はまだ本当の先輩を、全然知らないんじゃないか――と猛烈な不安がこみ上げてきた。


「広報ちゃん? ボーッとして、どったの?」


 渋谷ちゃんが俺の顔を覗き込む。

 既にワイヤーの罠は解除済みのようで、手に持ったワイヤーをプラプラと揺らしてみせた。


 いけない。

 足りない頭で、余計なことを考えすぎた。

 大切な仲間であり、師匠とも言うべき先輩を疑ってどうする。


 俺の脳みそでいくら考えたって仕方がないし、この話は後日、頭のいい被虐探偵ひ~くんにでも相談してみよう。

 あの子なら、俺じゃ気付けない真実だって、解き明かしてくれるだろうし。


「ボーッとしてごめんね。何でもないッスよ」


「何でもないってことはないっしょ~。もしかして、さっきの手の傷の話でビビってるとか?」


「……それもあるッス」


「脅すようなこと言ってマジごめんねぇ。まぁ広報ちゃんって殺しても死ななそうだし、大丈夫だって~」


「何言ってんスか。殺されたら死にますって」


「マジレス草。モノの例えだっつーの」


 渋谷ちゃんにつられて、一緒に笑ってしまう。

 俺の不安を察して声をかけてくれたんだろうな。


 本当に優しい子だ。

 こんな子から親友を奪った八ツ裂き公は、探偵として、許せない。

 探偵同盟の仲間として、少しでも彼女のチカラになってあげたいと思う。


「渋谷ちゃん。俺、全力でキミを助けるッスから。苦しい時には、いつでも声をかけてくださいね」


「……てんきゅ。その時は、よろしくね」


 そう語る渋谷ちゃんの顔は寂しげで。

 何となく気になったけれど、これ以上は聞けなかった。


 そこで救急車の音が聞こえてきた。

 救急隊員に犯人を見られると話がややこしくなるので、渋谷ちゃんは俺に、一人で路地裏から出て、救急車に乗せてもらうよう促す。


「いやいや! 殺し屋と二人きりになんてさせられないっしょ! 老師探偵が来てくれるまで、一緒にいるッスよ!」


「その傷で何言ってんだっつーの。ウチ特性の催涙液を浴びたら一時間は悶絶しっぱなしだし、平気だって。いいから治療してきなよ」


 有無を言わさない剣幕の渋谷ちゃん。

 危険な犯人と二人きりにさせてしまうのは避けたかったけれど、もうすぐ老師探偵が到着すると言うので、仕方なく了承した。


 路地裏から出ていく間際、つい気になって渋谷ちゃんの方を振り返ってしまった。


 闇に呑まれた路地裏の中の渋谷ちゃんは、何だか魔界の淵にでも立っているように見えて、胸の奥がゾワリとした。


 でも、俺の語彙力じゃこの感情を言語化できなくて、何も言えない。

 自分のネガティブな直感が外れることを願うばかりだ。


「あ、そだ。言い忘れてた」


 先手を打つように、渋谷ちゃんが口を開いた。


「さっきの広報ちゃん、マジでイケてたよ。また一緒に捜査に来ようね」


「……ざっす。まだまだッスけど、精進できるよう、がんばるッス」


 「じゃね」と言って、夕闇の奥へ消えていく渋谷ちゃんに、俺は何もしてあげられない。

 社畜先輩のような頼り甲斐のある先輩とは、違うんだ。


 ただ、力不足を痛感する一方で、成長も実感できた。

 昔は震えて突っ立っていることしかできなかったダセー俺でも、少しはカッコよくなれたような、気が、しなくもない。


「渋谷ちゃん……待っててくださいね。一人のままにはさせないッスから」


 もっと強くなって、社畜先輩のような、誰からも頼られる探偵になりたい――と。

 俺は改めて、自分の理想を再認識するのだった。


    ◆


 日の沈んだ真っ暗な路地裏で、ウチは地面に倒れるスーツの女――自称・紫崎沙夜を見下ろしていた。


 未だに催涙液の効果はてきめんらしくて、呻き声をあげ続けている。

 事前に通りだけど、殺し屋すらこのザマなんて、自分の才能がコワい。


 探偵としてヒトを救うよりも、ヒトを壊す方に才能があることを、ウチは自覚しつつあった。


「そろそろ、口くらいは利けるっしょ? ウチの質問に答えてもらうよ、紫崎沙夜さん」


「ぅぅ……む、り……痛、くて、何も……」


「え? 話せてんじゃん? まさか、ウチのことナメてんの?」


 女の指をパンプスの踵で踏みつけた。

 悲鳴をあげそうになった女の口を手で押さえて、耳元で囁く。


「ウチの指には、さっきの催涙液がついてるよ。舌についたら地獄だから、口、閉じな?」


 女は一瞬で口を閉じた。

 よし。完全に、ウチに屈服している。

 これなら、このあとの展開もやりやすい。


 この女がミユキの死に関わっていることは明らかなんだ。


 警察になんて頼ってられない。

 他の探偵にだって、まかせられない。

 ウチ自身の手で、何をしてでも、真実を聞き出してみせる。


「アンタがウチらの誘導に使った小細工は、もう取っ払ったから、ここには誰も来ないよ。それと、他の探偵を呼んだってのも、ウソ。アンタはね、ウチが満足するまで、ここから出られないの」


 女の身体が震え始める。

 ぬるっとした脂汗が肌に浮かび始めた。

 ようやく、自分の置かれた状況のヤバさを、理解できたらしい。


「アンタさぁ、殺す気で来たのに、殺される覚悟はなかったワケ……? 他のヒトのことも、そんな軽さで殺してきたの? だとしたら、絶対に、許さないから」


 こうして命を狙われてみて、やっと理解できた。

 本気で殺人鬼と戦いなら、容赦なんてしちゃダメだ。

 復讐を望むなら、相手を尊重なんてする余裕ないんだ。


 皮肉な話だけど、殺人鬼と相対したことで、ウチはやっと本当の意味で、復讐の覚悟を固められた。


「今からウチが質問することに、正直に答えて。もしウソくさかったり、答えるのをためらったりしたら、催涙液を目に擦り込む。大声を出しても擦り込むし、抵抗しても擦り込む。分かった?」


「……ひゃ、ぃ」


「分かったか……って聞いてんだけど?」


「わ、わかり、ました」


 情けない声で女は鳴いた。

 つい数時間前まで、あんなに凛としていたのに。

 絶対的な脅威の前では、これほどブザマになるのか。


 本来なら催涙液でヒリついているはずの指からは、依然として、何も感じない。


 でも、この女と対峙した瞬間から高鳴り始めた胸は、壊れそうなくらいに痛くて、燃え尽きそうなほど熱くて。


 ウチに生の実感を与えてくれる。


 もっとこの心地に浸っていたいと、思わずにはいられなかった。


「んじゃ、楽しい楽しいコミュニケーションを、始めよっか」


 そしてウチは、女への尋問コミュニケーションを始めるのだった――。


 ⇒渋谷Ø切断④「切断」へ続く。


    ◆

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