-渋谷Ø切断-② 「不感覚コミュニケーション」


 ウチの中で一番古い記憶は、仄暗くて、酒くさい空間での出来事。

 ウチは、よく知らないオッサンの膝の上にいて、ブヨブヨの指で身体をまさぐられている。


 生ぐさい息が顔にかかって、脂汗がヌルヌルして、子供ながらに不愉快に思った。


 でも声をあげると、奥に座っているウチの親父があとで何度も殴ってくるのから、必死に声が出ないよう耐える。そんな毎日が続いた。


 そうしていると、次第に触れられても、息がかかっても、舐められても、何も感じなくなって。自然と耐えられるようになっていった。精神的な原因による不感症だったんだと、今では理解できる。


 「それじゃあ客が満足しない」と言って、親父は理不尽にもまた殴ってきたけれど、その痛みすら感じずに済んだから、得をした気分になった。


 大きくなってから知った話によれば、ウチの親父は特殊な嗜好の持ち主向けの、違法な店を経営するクズだったらしい。


 オカンはそんな外道からウチら子供を守るために、隙を見て通報し、自分は祖父母のいる東京へと逃げたそうだ。


 その辺りの記憶はかなり曖昧。

 ただ、ひとつだけ、ハッキリと覚えていることがある。


 東京の小学校に転向してきたばかりの頃、関西弁が抜けず、無理に東京弁で話そうとしていたウチを、同じクラスのミユキが励ましてくれたことだ。


 学校の休み時間に、ウチは誰にも気にかけられないように、校舎裏の隅で、小さく座り込んでいた。何かを話すと、殴られたり、嫌われたりしそうで、関わるのが怖かったんだ。


 でもミユキは、そんなウチを見つけ出すと、こう言って手を差し出してくれた。


「――イヌミちゃんは、イヌミちゃんのままでいいんだよ」


 その手に自分の手を重ねると、それまで感じられなかった他人の温もりが、久しぶりに感じられて。ずっと灰色がかって見えていた世界に、初めて色が着き始めた。


 そしてミユキと一緒に、ウチは校舎裏の外へと、飛び出すことができたんだ。


 ミユキに話すと、「よく覚えてない」と言う。

 あの子にとっては、きっと何でもない言葉だったんだろう。


 でも、ずっと『商品』を演じさせられていた当時のウチにとって、その言葉は何よりも救いで。

 ようやくクソ親父から解放された気がした。


 それから、ミユキと一緒にたくさんの出来事を経験した。


 今でも親友のナッツ、チョッパーとの出会い。

 親友たちとの、何気なくも特別な時間。

 探偵を名乗るきっかけになった、池袋切断魔事件。

 老師のじっちゃんや、理想探偵との出会い。探偵同盟への加入。


 挙げ始めたら切りがない。


 思い返せば、いつも隣にはミユキがいた。

 これからも、ずっと一緒だと思っていた。

 一緒にいられると信じていた。


 でも――もうミユキはこの世にいない。

 ウチの世界を彩ってくれた存在は、どこにもいない。


 今のウチには、世界が曇天みたいに灰色で、濁って見える。

 誰かに触れても、大好きなものを食べても、何も感じない。


 ミユキを失ったウチに残されているのは――八ツ裂き公への復讐心だけだ。


 『探偵撲滅』前日譚-渋谷切断-②

 「不感覚コミュニケーション」


    ◆


 コツンと、おデコに優しい痛みが走って、目を覚ます。


 まぶたを開けると、そこは行きつけのカフェの店内で。

 目の前には黒髪の大和撫子――夏野なつのくるみの顔があった。


「あ、くるみ……どったの?」


「どったの? じゃないだろ。

 アンタがアタシらをここに呼んだんだろうが」


「あー……そうだったねぇ……ごめん、くるみ。寝落ちしてたわ」


「くるみじゃなくて、『ナッツ』って呼べって昔から言ってるだろ……まーだ寝ぼけてんな、コイツ」


「ワンコ、一人でいる時に寝たら危ないんだぞ? 私も昔、バアバに怒られたんだ!」


 ナッツの黒髪の横からひょっこりと、茶髪のツインテールの童顔が顔を出した。


 七星八千代ななせ やちよ――通称チョッパーは、そのあだ名に違わぬマスコット感あふれる笑顔で続ける。


「それにしても、ワンコと一緒に遊べるなんて、私は嬉しいぞコノヤロー! どこ行くんだ? カラオケか? モロキューで服を見るのか? それとも、――」


「はいはい、がっつくなって。ワンコが困ってるだろ?」


 ナッツがチョッパーの頭を掴んで引き戻して、ウチの向かいの席に二人並んで座る。


 ナッツの顔は普段より険しく、研ぎたての包丁みたいに、ツリ目が鋭い。

 ウチの異変を敏感に感じ取っているんだろう。

 やっぱ、この子は勘がいいなぁ。


「来てくれてありがとね、二人とも。

 まぁ用ってほどでもないんだけどさ、親友らの顔が見たくなったのよ」


「な、何だよぅ。今日のワンコ、やけに素直だな」


「素直すぎてウソくせえ。ワンコ、アタシらの間でウソはなしって取り決めだろ。ちゃんと正直に話せよ」


「……いや、そんな取り決めはしてないっしょ」


「アタシが今決めた。だから話せ。普通にダベるために呼んだ、ってんじゃないだろ?」


 有無を言わさぬとばかりにナッツが語る。

 誤魔化しは無意味そうだから、正攻法で挑むことにしよう。


「……分かっちゃうかぁ」


「何年の付き合いだと思ってんだよ。

 ワンコの異変なら、尿意だって見て分かるわ」


「ナッツ、マジその口の悪さだけは改めな? 顔はいいのに損してるって」


「ほっとけ、男どもが寄ってこなくて得してる」


 普段の調子で茶化そうとしたけれど、ナッツの表情は強張ったままで、緊張の糸は切れない。

 このまま本題に入るしかない、か。


「うん……まぁ、ナッツの言う通りなんだよね。実は今日は、チョッパーの家の力を借りられないかと思って、二人を呼んだの」


「私の家? それくらいなら、もちろん構わないぞ!」


「安請け合いすんな、チョッパー」


 前のめりになりそうなチョッパーの肩を、ナッツが押さえた。

 それから、ウチに明らかな疑念の目を向ける。


「まずは詳しく話を聞くぞ」


 ナッツに促されて、ウチはチョッパーへの頼み事を口にした。


 チョッパーに頼みたいのは、彼女の実家――国内の六大企業グループにも数えられる七星家に頼んで、関連企業『六星むつぼし薬品工業』の社長、中院竜星なかいん りゅうせいと面会すること。


 面会理由は、将来的に就職を検討していて、ぜひ話を聞いてみたいから。

 薬学部志望なのは事実とは言え、我ながら取ってつけた理由。


 友達を利用するみたいで心苦しいけれど、中院は例の精神科医と交流を持っていたことが分かっている。

 どんな手段を使ったとしても、話を聞かないといけない。


「中院? 私はよく知らないけど、ワンコの頼みだし、お父様に頼んでみるぞ!」


「待てよ、チョッパー。ワンコはアタシらに隠し事をしてる」


 ナッツが更に目を鋭くし、ウチを睨みつけた。

 女の子ながら、ベテラン刑事もタジタジなほど、眼力がスゴい。


 以前までのウチなら引いてしまっていたと思う。

 そう、以前までの、ウチなら――


「……してないよ。ウチがずっと薬学部を目指してるの、ナッツも知ってるっしょ?」


「ああ、知ってる。少しでもミユキに近い立場になりたいっていう、切実な気持ちも分かってるよ。だからこそ、おかしいって言ってんだ。夢の支えミユキを失ったこのタイミングで、話を聞きに行くのはな」


 今にも掴みかからんばかりの剣幕のナッツ。


 初めて会った時のことを思い出す。

 ナッツは出会ったばかりの頃、小学生にして、悪名高い不良で。

 ピンチに陥ったこの子を、ミユキが危険も顧みずに助けたことで、仲良くなったんだ。


 ――悪いことをしちゃうヒトにもね、理由があるんだよ。本当に悪いヒトなんて、どこにもいないの。


 そう語るミユキの姿を見て、自分がそばにいて、この純粋な子を守らなきゃって思ったんだっけ。


 今では、何もかも懐かしい。

 あの頃の自分が、懐かしくて、憂わしくて、恨めしい。


「ナッツ、チョッパー。ヒトが変わって見えたなら、ごめんね。

 ウチはさ、ミユキの意志を継いで、誰かを救える大人になりたいの。だから、今までサボってきた勉強も、ちょっち本気で頑張ってるワケよ」


 自分でも驚くほど、スラスラとウソが出てくる。

 きっと、表情も自然な笑みを作れているだろう。

 自分が自分じゃないみたい。


 そんなウチを見るナッツの顔は、訝しげなままだ。

 きっと怪しく見えているよね。分かるよ。


 自分でも、おかしいって分かるんだから。

 きっと、二人には別人みたいに見えてる。

 でも止まらない。止められないの。


 ウチはもう、復讐を止めるワケにはいかないんだ。


「ワ、ワンコは、変わってないぞ……」


 涙声が聞こえて顔を上げた。

 すると、チョッパーが涙も、鼻水も垂れ流しの状態で、ウチを真っ直ぐに見つめていた。


「ワンコは昔からずーーーっと優しいままのワンコだ! 何をしようとしているかは分からないけど、私は味方だぞ……! だから、だからぁ、そんな寂しい顔しないでくれよぉ!」


「チョッパー……」


 チョッパーは勉強こそ苦手だけど、感受性が人一倍強い。

 きっとウチの変化を――近いうちに別れを告げようとしていることを、直感的に察しているんだ。


 昔から変わらない親友の涙に、心が僅かに揺らぐ。

 だけど、それでもウチには、自分を止める術などなかった。


「泣くな、チョッパー。ワンコはもう止められない。アタシらが協力しなかったら、無理して余計にドツボにハマるだろ」


 チョッパーの頭を撫でつつ、ナッツが表情を和らげて、改めてウチの方を見た。


「ワンコ……知っての通り、アタシはアンタらと違って、ごく普通の家庭の出身だ。まぁどんな言葉を語ったって、重みが足りないわな」


「そんなこと、ないって。

 ナッツの言葉は、いつもウチを支えてくれたよ」


「ふふっ、ほーら、“過去形”だ」


「あっ……」


 ウチの失言を言い当てたナッツは、目を細め、深く息をつく。

 その顔は、厳しくも、寂しげで、ウチの真意なんて本当は全部見抜いているんじゃないかとさえ思えた。


 ウチは本当に、いい友達に巡り会えたと思う。

 もし生まれ変わっても、また四人で一緒に居られたらいいなと、心の底から思った。


「何を企んでるかは知らないけどな……大事なことを話す時は、きちんと言葉を選べよ、渋谷探偵。言葉ひとつで、本音なんて曝け出されちまうんだからな」


「……気を付けるね。

 ウチの武器は、コミュニケーション推理だけだしさ」


「アタシやチョッパーだって、お前の武器のつもりだけどな」


 それだけ言うとナッツは、チョッパーの手を握り、テーブルの横の注文用紙を手に取って立ち上がる。


「チョッパーのママさんには、アタシからも頼んどいてやるよ。その代わり、次に会う時はペタマック奢れ。約束だぞ?」


「……うん、約束。またね、ナッツ、チョッパー」


「ま、またな、ワンコ! 次こそ、ちゃんと遊びたいんだぞ!」


 ナッツとチョッパーが去っていって、ウチは一人カフェのテーブルに残された。


 何とか、約束を取り付けることができて、一安心。

 胸を撫で下ろすと同時に、バッグの中に入っているスマホをひとつ取り出して、すぐさま広報探偵に報告する。


 中院竜星に会えても、交渉材料がなければ意味がない。

 何としてでも広報探偵には、紫崎一門について調査してもらわないと――


「調査、根回し、捜査、報告、相談……ああ、身体が足んない……自分がもう一人欲しいぃー……」


 そんな弱音を漏らしていると、スマホ画面へと雨粒が降ってきてドキリとする。


 今は屋内。頭上に雨雲など広がっていないし、雨漏りしている様子もない。

 一体なぜ、雨粒が……?


 不思議に思いつつ、自分の顔に触れてみたところで、気付いた――


「ウチ……泣いてるの?」


 それは、無自覚のうちに目があふれていた涙。

 何も感じられないはずなのに、手についたその雨粒なみだは、とても熱く感じられるのだった。


    ◆


 T都郊外の、ビルの立ち並ぶ典型的なオフィス街。

 そんな穏やかな街の一角に、『六星むつぼし薬品工業』の自社ビルは建っている。


 これといった特徴のないそのビルは8階建てで、開発部から営業部、管理部まで、すべてのスタッフが収められているらしい。


「このビルが丸ごと会社ッスか! やるッスねぇ、六星薬品工業」


 制服姿のウチの隣で、スーツ姿の広報探偵がビルを見上げつつ言った。


「広報ちゃんってスーツ持ってたんだね、しかも結構よさげなヤツ」


「ほら、俺って外部との交渉役もやるじゃないスか。だから一着くらいガチのスーツ持ってろって、社畜先輩に買わされたんスよぉー……」


「正論じゃん。社畜パイセンに感謝だね。まぁガタイといい、顔といい、社会人ってよりその筋のヒトだけど」


「ひっでぇの! まぁ自覚はあるけどさぁ!」


「まぁ制服のウチが隣にいれば、ギリ教師として通るっしょ。さ、入ろ入ろ」


 ひとしきり雑談を終えると、ちょうどアポイントをとった時間になったので、ビルの中へと入って、ロビーで受付を完了。


 すると、1階に秘書のお姉さんが下りてきて、ウチらをエレベーターまで案内してくれた。


 秘書のお姉さんは体型に合った黒のスーツをピシッと着こなしていて、セミロングの黒髪の中の銀縁眼鏡が凛々しい。


 その冷たい美貌はどことなく、理想探偵のようで、大人の女性って感じだ。

 綺麗すぎて、女性のウチでも少しドキドキしてしまう


 エレベーターで最上階の8階の和室に案内されるまでの間、秘書さんから目を離せなかった。


 秘書さんはウチらをテーブルの奥に座るよう促し、温かな緑茶を淹れると、「社長の中院も間もなく訪れますので、お座りになってお待ちください」と言い残して、部屋を去った。


 四畳ほどの小さな和室で、ウチと広報探偵は二人きりとなる。

 横目でちらりと広報探偵を見ると、普段なら緊張とは無縁の彼が、なぜか冷や汗をかき、やけに顔が青い。


「どったの? 広報ちゃん、顔色がブルーハワイじゃん」


「だ、だって、紫崎一門の関係者かもしれない相手に、この密室っすよ……? この高さじゃ逃げ場がないし、相当ヤバいんじゃないかなって……」


「だいじょぶ、だいじょぶ。広報ちゃん、緊張しすぎだって」


 広報探偵に微笑みかけ、リラックスを促す。


 ――危機的な状況だからこそ笑え。

 笑顔は時に相手の焦りを招き、時に相手の油断を誘う。


 震えていた中坊時代のガキのウチらに、老師のじっちゃんが語った言葉だ。


 どうせ、ここは相手の胃袋の中。

 下手に足掻いたって逃げ切ることは難しいんだ。


 なら堂々と、あぐらをかいて乗り切って、その腹の中を暴いてやる。


「やぁやぁ、お待たせしましたね、佐奈さん」


 和室の扉がガラリと開いた。

 入室してきたのは、恰幅のいい小麦色の肌の中年男性。


 お腹が置物の狸のように大きく、話す前から笑顔を浮かべていて、グルメ番組のレポーターが似合いそうだ。


 会社のWEBページ上の写真で見た通りの容姿――中院竜星社長に間違いない。


 広報探偵と共に立ち上がって、深々とお辞儀をする。

 ウチの担任教師という設定の広報探偵は、まだ少々緊張した様子ながらも、ウチより先んじて挨拶をする。


「中院社長、本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。佐奈田の担任を務めております、古田ふるたと申します」


 顔を上げて広報探偵が、紙袋に包まれた土産――箱に盗聴器の仕込まれた饅頭を差し出した。


「こちら、つまらないものですが、よければ皆様で」


「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます。私なんてお飾りの社長で暇していますから、お話の時間くらいならいくらでもとりますよ」


 笑いながら語る中院社長。

 よく声が通り、狭い和室にグワングワン響く。

 こうして話を聞いていても、悪い人に見えない。


 でも彼が、殺された精神科医と不自然に繋がっていたのは紛れもない事実で。何かしら情報を握っているはず。


 ウチらは探偵として、情報を引き出さないといけないんだ。


「中院社長、はじめまして。私が今回ご相談をさせていただいた佐奈田です。本日はよろしくお願いします」


「ふふ、外見が派手なので心配しましたが、礼儀正しい子ですね。安心しましたよ。それで、佐奈田さんはどんな話を聞きたいんですか?」


 それから小一時間ほど、会社に関して様々な質問をした。


 ウチが薬学部志望なのも、業界の実情が知りたいことも事実なので、不自然な話はなかったと思う。


 話している中で、気になった情報はふたつ――


「では、御社は新薬の開発に注力されているんですね」


「ええ。と言っても、他の会社も同じですけどね。ひとつでも新薬を開発できれば、世界中で利用され、莫大な利益が得られる業界です。新薬の開発に予算がかけられやすいんですよ」


「あ、参考書で読みました。新薬の開発って平気で十年とか二十年とかかかるから、とにかくお金がかかるんですよね」


「十年二十年!? マジすか!?」


「先生、素が出てる」


「っとと、ごめんごめん」


「ははは、知らないヒトは驚くよねぇ。ウチの会社も、年間予算の三割は研究開発に当てているよ。と言っても、なかなか成果は上がらないけどねぇ……」


「三割……他の会社と比べても高い割合ですね。経営的に、苦しくはないんですか?」


「目ざといお嬢さんだねぇ、優秀だなぁ。その辺りは大丈夫だよ。なんせ親会社が、六大企業グループ『七星』の所属だからね。何かと理由をつけて、お金を出してくれる」


「ほぉ、親が子に甘いのは、どこのご家庭も同じっすねぇ」


「そういうことですなぁ」


「……そうとも限らないですけどね」


 笑い合う広報探偵と中院に聞こえないようぼやきつつ、一人思案する。


 ――年間予算の三割が新薬開発。

 さらりと話題に出たけど、明らかに過剰だ。

 この六星薬品工業は新薬開発の実績がないし、いくら親会社が大きくても、ストップをかけられてしまう方が自然。


 つまり、そうならないだけの理由がある。

 例えば、そもそも新薬開発のために存続されているなり、親会社に目をつけられない業績をあげているなり、メリットがなければおかしい。


 この予算の違和感が気付いた点のひとつだ。

 そして、もうひとつは――


「正直に申し上げますと、私は他業界からの出身でしてね、製薬業界については疎いんですよ」


「へぇ~! それで社長として立派にやってるんスから、中院社長ってパないっすねぇ~!」


「いやいや、それほどでも」


「いやいや、パないっすよ~!」


「先生、先生。素、出まくりだから。気をつけて、マジで」


 この中院竜星という人物は、一言で言うとダメダメだということだ。


 恐らく、薬学分野の知識は学生のウチ以下だろう。

 ウソをついている様子もない。


 ただ、広報探偵とすぐに仲良くなっている辺り、コミュニケーション能力と適応能力の高さはガチ。

 恐らく、優秀な社員に支えられているタイプの社長なのだと思う。


 存外、こういった社員を信じて責任だけ取るタイプの方が、上には向いているとか聞いたことがあるけど、その類なのかな。


 取り敢えず、この六星薬品工業は怪しいにしても、社長は信頼してもよさそうだ。


 だから、いっそ駆け引き抜きで、単刀直入に聞いてみることにした。


「中院社長、私から最後に質問いいですか?」


「ええ、もちろんです。何でも聞いてください」


「実は、私の友達がお世話になっていた精神科医の四崎しざきさんが、中院社長のことをご存知だったらしくて。どういう繋がりだったんですか?」


 訊ねると同時に表情を見つめる。


 ナッツに忠告された通り――言葉に気をつけて質問をした。

 精神科医が殺された事実を語らず、虚偽の情報も織り交ぜた問い。


 相手が正直に答えても、ウソをつこうとしても、読み取れる塩梅にしたつもりだ。


 さぁ、どう答える――?


 中院は迷わずにこう答えた。


「懐かしい名前がでしたねぇ。四崎先生は過去に、弊社の治験コーディネーターを兼任してくださったことがあるんですよ」


「治験? コーディネーター? なんスか、それ?」


「先生、無知すぎ。治験は新薬が人体に有害でないか試すこと。治験コーディネーターは、そのサポートをするヒトのことだよ」


「へぇ~! 精神科医が務めるもんなんスねぇ!」


「いや、資格とかはいらない仕事だから務まるっちゃ務まるけど、普通は薬剤師とか看護師とかがやるかな。だいぶ特殊な例だと思う」


「よく勉強していますねぇ。その通りですよ。私も部下の申請を承認しただけなので、なぜ四崎先生が選ばれたのかは、詳しく知らないんです」


「では、誰が選んですか?」


「誰だったかなぁ……すみません、随分と昔のことなので、記憶が曖昧で」


 困った様子で語る中院社長。

 ようやく、話が見えてきた。


 精神科医と組んだ黒幕は、このポンコツ社長本人じゃない。

 社長を言いくるめて予算を引き出し、精神科医と組んで、不当な実験に及んだ人物が、六星薬品工業内にいるんだ。


 その人物を暴き出せば、事件は大いに進展する――


「中院社長、実は四崎先生がお亡くなりになったそうで……私が知る情報を直接伝えたいので、当時の担当者さんが分かったら、連絡をいただけますか?」


「何だって!? それは大変だ! もちろんお伝えしますよ、わざわざありがとうございます!」


「こちらこそ、貴重な話の数々をありがとうございました。御社に入社できるのを楽しみにしています」


「佐奈田さんなら顔パスで入社させちゃいますよぉ~! 就活が始まったら、すぐに連絡してくださいねぇ」


 このオジサン、マジでチョロい。

 こうしてウチらは、情報提供の約束を取り付けて、六星薬品工業をあとにするのだった。


    ◆


 六星薬品工業から駅までの帰り道。

 人通りの少ないオフィス街の通りを歩きつつ、広報探偵とウチは成功を喜び合っていた。


「流石は渋谷ちゃん! あの状況で踏み込んだ質問ができるなんて、パないっすよ~!」


「広報ちゃんが中院社長と打ち解けてくれたおかげだって。ぶっちゃけ賭けだったし。あの社長の性格が掴めなかったら、とてもじゃないけど踏み込めなかったよ」


「いやぁ、担任教師っぽい演技できてなかったから、ヤバかったッスけどねぇ。相手がいいヒトでよかったっす」


「それはそう。正直、ヒヤヒヤしすぎてヒヤシンスだった」


「許してヒヤシンス!」


「なつかしっ!」


 気が抜けて二人で笑い合う。


 相手は平気で病人に薬物を与えるような連中だ。

 今回は上手く歯車が噛み合ったってだけで、命懸けだったのは間違いない。


 改めて、『探偵』という仕事の怖さを実感する。

 ただ、胸が痛くなるほどのドキドキと、達成感は、感覚が薄れた身体には心地よくて。


 ミユキを失ってから、とても久しぶりに、自分が生きている実感を与えてくれた。


「あ、渋谷ちゃん。その先、通行止めみたいッス。こっちの裏道から行きましょう」


「えー? 来る時は工事なんてなかったのに。変なの」


 駅に続く歩道に通行止めのバリケードが置かれていたので、ビルとビルの間を抜ける狭い裏道へと入った。


 もう日は沈みかけで、暗がりの裏道に茜色の日差しが差し込んでいる。


 目が痛いほど赤くて、まるで止まらなくなった血みたいだ。


 自然と脳裏に、ミユキの顔が思い浮かんだ。

 あの子の殺害現場は、血と、内臓でグチャグチャで、あまりにも痛々しかったから。


「……ねぇ、広報ちゃんはさ、何で探偵やってんの?」


 気を紛らわしたくて声を出した。

 隣を歩く広報探偵は、ウチの唐突な質問に目を丸くしつつ、笑顔で答える。


「超カッコいい探偵に、命を救われたからっす」


「命を救われた?」


「ほら、俺って先走りやすいっしょ? 学生時代に大学の近くて通り魔事件が起きた際に、自分で捕まえてやろうと出しゃばったんスよ。そしたら……犯人はガチのヤベー奴で。右目をえぐられて、マジで殺される寸前になったんス」


「その傷……そんな事情があったんだ」


「はは、ヤバいッスよね。しかもコレ、素手でやられたんすよ? そんな時に駆けつけてくれたのが、社畜先輩ッス。あのヒト、その前からちょくちょく夜に大学で聞き込みしてて。やけに腰が低くて、髪もボッソボサで怪しかったから通報されてたんスよ」


「なにそれ、ウケるね」


「そうっしょ? まぁそんなワケで、俺も正直ナメてたんスよね。『ヤバいから逃げろよ!』って怒鳴りつけました。でも、そんな俺に社畜先輩はこう言ったんスよ」


 広報探偵は右手を顔に当てて、変なポーズを決め、社畜探偵の声真似をしつつ続ける。


「――探偵が犯人に背を向けたら、一体誰が立ち向かうんだい? って」


「ヤッバぁ! 超キマってじゃん! 普段のヨレヨレなオジサン姿からは想像つかないんですけど」


「オ、オジサン姿は勘弁して欲しいなぁ……私、まだ二十代だからね?」


「声真似ウマすぎだって」


 雑談を続けつつ、路地裏を進んでいたその時――


 違和感に気付いた。

 足音がウチら以外にもうひとつ、三人分聞こえるのだ。


 本当にかすかだけど、ウチらの後方10メートル以内に、誰かがいるのは間違いない。


「渋谷ちゃん?」


 広報探偵の手を取って、足を止めた。

 すると示し合わせたように、もうひとつの足音も途絶える。


 唐突に足を止めて尾行を確認する。

 老師探偵に教わった、数少ない技術のひとつだ。

 これで、後方にいる何者かの目的が、ウチらの尾行なのは間違いない。


 そして、尾行なんてして意味がある人物は、ごく限られる――。


「広報ちゃん、後ろから誰かが付いてきてる。たぶん紫崎関連。何とかできる?」


「……うっす。まかせてください。俺も、目をえぐられた時のまんまじゃないッスから」


 足を止めたまま振り向かず、周囲に神経を集中させる。

 後方にいる何者かもこちらの異変を察知してか、敵意を隠さなくなった。


 交戦は避けられない。


「渋谷ちゃん、悪いニュースがふたつあるんスけど、どうします?」


「いいニュースがないパターン初めてなんですけど。いいから、早く教えて」


「ひとつは、さっきの通行止めがフェイクだったことが分かったッス。俺たちの前方にはワイヤーの罠が張られてて、このまま通ってたら首が飛んでました」


「あー、おかしいと思ったんだよね……で、もうひとつは?」


「後ろにいるのは、俺たちが出会ったことのある人物ッス」


 言われて振り返ると、ウチらの後方に立っていた人物は確かに――先ほど会ったばかりの人物だった。


 体型にフィットしたスーツに、セミロングの黒髪。

 そして夕日で輝く銀縁眼鏡。


 社長室へ案内してくれた社長秘書さんが、ウチらの逃げ道を塞ぐように、両手を広げて立っている。


「……ウチ、けっこう好みだったんけどなぁ、秘書さん」


「あら? そうは言いつつ、疑っていたのでしょう? せっかく出した毒入りのお茶がどちらも減ってないなんて、お姉さんショックだったわ」


「ウチの師匠が言ってんだよねぇ……美女を疑うのは、探偵の基本だってさ」


「あ、渋谷ちゃんが俺にお茶を飲むのを止めたのって、そういうワケだったんスね」


 お気楽な発言をしつつも、広報探偵は拳を構え、戦闘態勢に入っていた。


 後方はワイヤーの罠で、前方は怪しい美女。

 どこにも逃げ場はない。そして、逃げる気もない。

 武術の心得なんてないけど、戦う覚悟なら持っている。


 それに何より――


「今ウチ、最っ高に生きてるって感じだわ」


 制服の懐に腕を忍ばせて、心臓の高鳴りを直に感じながら、真っ直ぐに秘書さんと相対した。


「秘書さん、あなたが何者なのかは知らないけど、とりま捕まえて全部吐いてもらうんで。よろしく~」


「それはこちらのセリフよ、佐奈さん。すぐに泣いて謝らせてあげるわ……『紫崎沙夜』の名に懸けてね」


 言い終えると同時に、秘書さんがウチに向かって突っ込んできた。


 そして次の瞬間、夕日の中に真っ赤な血しぶきが混ざり込んだ。



 ⇒渋谷Ø切断③「広報探偵・古見遊ふるみ ゆうの理想」へ続く。


    ◆

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