遠い世界
増田朋美
遠い世界
今日はなんだか朝は晴れていたけれど、昼は曇ってきて雨が降っている嫌な日であった。おまけに理由はわからないけれど、若い女性の自殺率が格段にアップしたというニュースで持ちきりになっている。よくわからないけれど、そういうニュースが多いということは日本も荒れてしまったということになる。
その日、杉ちゃんと蘭は用事があって、三島駅近くにでかけて、昼前に富士駅に帰ってきたところだった。二人で駅員に手伝ってもらって、電車を降り、タクシー乗り場へ向かおうとしたその時。車椅子専用乗降場と書いてあるところに、一台の軽自動車が止まっているのが見えた。
「おい、あの不思議なところになんで車が止まっているのかな?」
杉ちゃんは、変な顔をしていった。しばらくそこで、車がどくのを待っていたがいつまでも動こうとはしない。
「困るなあ、そこをどいてもらわないと、僕たち、タクシーに乗れないんだけど。」
と、蘭が言うと、杉ちゃんのほうが、その車の方へ近づいて、
「おい!ここは車椅子のやつがタクシーを待つところだ。ここに駐車されてもらっちゃ困る。すぐにどいてくれないか!」
と、でかい声で言った。車の中を覗いてみると、運転席には女性が、助手席には男性が座って目をつぶっている。昼寝をしているわけではないらしい。その女性の足元には、しちりんが置いてあったので、杉ちゃんは、何も考えないまま肘で窓ガラスを叩き割り、
「こら!馬鹿なことをするもんではない!さっさとでろ!」
と、でかい声で呼びかけた。女性の方が、それに気がついたようで、直ぐに飛び上がって逃げようとしたが、シートベルトをしていたためそれはできなかった。男性の方は、何も言わないまま目をパチクリさせているだけである。
「お前さんたち、自殺しようと思っていたのか!それは行けないぜ、何があったかしらないが、この世から、自らさようならをしてはいけないよ!」
と、杉ちゃんが言うと、
「そういう宗教的なことは言わないでもらえませんか!あたしたちだって、何回も苦しみました。それでもだめだから、こうしようとしたんじゃありませんか!」
と、女性の方が金切り声で叫ぶ。
「バカ。チビリガマの集団自決やっているのと違うぞ。そうじゃなくて、国家の命令でもなんでもなく、自分からこの世とさようならしようというのはどこか行けないんじゃないかなあ。今は沖縄戦じゃないんだからな。」
杉ちゃんがそう言うと同時に、蘭は、直ぐに助手席のドアを開けてしまった。男性のほうが何も言わないで、黙っているのが気になった。
「そういうことなら、一回車からでろ。それで、今から腹をいっぱいにしてくれるとことろに連れて行ってあげるから。そこで事情を話して、ちゃんと僕たちを納得させてから逝け。」
杉ちゃんは、二人を連れて移動を始めてしまった。蘭も、悪いようにはしないからと言って、二人に連れ立って車椅子で移動していった。移動していったのはタクシー乗り場。そこで四人で車いす用のタクシーに乗り込む。杉ちゃんの指示でタクシーは、イシュメイルラーメンという小さな店の前で止まった。とてもラーメン屋という感じではなくて、小さなカフェのような店であったが、壁に貼ってあるメニューを見ると、ラーメンとかチャーシュー麺とか色々書いてあって、ちゃんとラーメン屋だと言うことがわかる。
「はい、いらっしゃいませ。どこでも好きなところに座って。」
店主である、鈴木イシュメイルさんことぱくちゃんは、四人に向かってそういったのだが、杉ちゃんと蘭、そして女性はわかってくれたようだ。しかし、男性だけが、何を言っているのかわからないという顔をしている。
「おい、好きな椅子に座っていいんだと言っているんだぜ。それでは、どこかに座ろうよ。」
と、杉ちゃんがいうが、この男性の方は、理解ができないようであった。
「はああ、なるほど。」
杉ちゃんがすぐ言う。
「お前さんは、全聾なんだな。」
蘭は、杉ちゃんはすぐそういうことを平気でいうと思ったが、彼がそういうことを言っているの聞き取れていないというのは、やっぱりそうなんだなと思った。急いで、何年か前に習った手話を思い出して、こちらへ来てくれというが、それもよくわからない様子だった。蘭は、メモ用紙を取り出して、こちらに来てくださいと書くと、男性はやっとわかってくれたようだ。
「手話、できるんですか?」
連れ立っていた女性の方が、そういうことを言う。
「はい、昨年、難聴の女性に刺青を入れたことがあって、その時、習いました。」
と、蘭は急いでいった。
「だから、僕は偏見もありませんし、ここにいる杉ちゃんも、この店の店主さんも、偏見は全くありませんので、安心してラーメンを食べていってください。」
そう言われて、二人の男女はやっと席に座ってくれた。ぱくちゃんがご注文はなんですかと聞くと、杉ちゃんと蘭はチャーシュー麺を、女性はパーコー麺を注文した。男性の方は、蘭にメモ用紙を渡されて、やっと醤油ラーメンと意思表示してくれた。
「お前さんは、本当に、全聾なの?どうして全聾になった?」
と、杉ちゃんが聞いても男性は答えなかった。女性の方が、
「ええ、彼は、子供の頃の髄膜炎が原因だそうです。よくある流行性髄膜炎というものだそうです。」
と、答える。
「はああ、そうですか。でも、流行性髄膜炎というのは今では抗生物質でなんとかなるはずで、後遺症が残ることはほとんどないのでは?」
と、蘭が言うと、
「バカ、それを言っちゃいけないよ。何か事情があったのかもしれないじゃないか。確かに、髄膜炎の後遺症で、全聾というのはよくあることだと言ってやるべきだよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「でも、子供の頃から、そういう症状があったのであれば、ろう学校に行って、手話とか、補聴器の使い方とか、習うんじゃないですかね?」
と、蘭は、メモ用紙に、ろう学校のような場所に行かなかったのかと書いた。男性は、蘭の質問に下手くそな字でなにか書きはじめる。それは読めるか読めないかわからない字で、なんとかひらがなの形をしているような文字だった。それによると彼は、ろう学校は中等部まで進んだが、高等部へ進学することはできなかったと答えた。
「はあ、そうなのか。ですが、こういう人こそ、教育というものが必要ではありますね。失礼ですけど、お名前はなんですか?」
蘭が、お名前はなんですかと書き込むと、彼は、河村祐太郎と自分の名を書いた。女性は、菅えり子と名乗った。
「つまり、高校へ行ってないってことか。それはちょっと厳しいよ。今の時代は、高卒の資格を持っていたほうがいい。全聾であっても、通信制の高校とかそういうところ行って、勉強させてもらったほうがいい。それによって自殺なんてしなくてもいいって学ぶことができる可能性もあるからね。それは、やっぱり、生きていくには必要だと思うよ。」
と、杉ちゃんが言った。杉ちゃんの口調は早口で、祐太郎にはよくわからないようだった。えり子さんが、紙に書いて説明してやって、やっと話がわかってくれたようである。
「まあ、筆談という手もないことはないけど、手話を勉強したほうが、いいと思います。そのほうが、僕たちも話しやすくなるし。それができないというのは、ちょっとお辛いのではないでしょうか?」
と、蘭がそう言って、メモ用紙に手話を勉強するほうがいいと書いた。祐太郎は、それには納得できないという顔をした。
「だって、そのほうがよっぽど楽だと思うけどな。なんでお前さんは、高校に行かないんだよ。」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、理由があるんです。」
と、えり子さんが言った。
「彼は、ろう学校に通っていたとき、ひどいいじめにあっていたそうで、それでもう学校というところには二度と行きたくないと。私も、学校でいじめにあってるし、先生にも成績が悪くてバカにされているから、じゃあ二人揃って一緒に死のうということにしたんですよ。」
「はあ、そうなのね。ちなみに車なんか運転してたけど、お前さんは学生さん?」
と、杉ちゃんが聞くとえり子さんは、ええ、大学生ですといった。ちなみに祐太郎さんの方はいくつだと聞くと、彼は、17歳で現在何もしていないという。
「つまり、お前さんたちは、祐太郎さんのほうが年下だったわけか。まあ通りで、おかしいと思ったよ。まあ最近は、年下カップルもいるけどさ。」
と、杉ちゃんは呆れた顔で言った。
「そんなことより、祐太郎さんには、ぜひ手話を覚えて頂いて、もっと円滑にお話ができるようにしてもらいましょう。いくら学校にいってないからって、優遇されることはないんですから。」
と蘭はスマートフォンを動かしながら言った。スマートフォンの画面には、初めての手話の本などとタイトルつけられた本が何冊か写っている。
「そうだねえ。おまえさんの家族だって、そのほうが話しやすいんじゃないの?いちいち紙を持ってきて、どうのこうのなんて、ちょっと面倒だよな。」
杉ちゃんがそう言うと、えり子さんは、
「そうでしょうか?」
と言った。
「確かに、ろう学校にちゃんと通えて、しっかり勉強できた人にはいいかと思うんです。でも、それは、上流階級の人だけに許されることだけですよね。彼のような可愛そうな人には、向かないんじゃないかな。」
「まあ、そうなのかもしれないが、手話を覚えたほうがきっと、話をするのにも楽だと思うがな。そのほうが、お前さんたちだって、楽にやれるんじゃないの?」
と、杉ちゃんがいうと、
「ええ、そうかも知れないですけど、私たちは、信じませんね。そういうことは偉い人たちが、ただ自分の思い通りにさせるために、わざと作った虚構に過ぎないと思うんです。手話とか、点字とか理解する人なんて、ほんの一部しかいないと思うんですが。そのために私達が苦労して覚えなければならないのなら、意味ないなと。」
と、えり子さんがちょっときつい口調で付け加えた。
「でもねえ、学問すれば、救われるという事例はたくさんあるよ。学問は必要だからあるんじゃないの?それで人生ってのはあるんだと思うけど。僕たちが車椅子に乗っているのも、仕方なく乗っているわけじゃないんだぜ。これに乗れば、いろんなところへ行けるじゃんな。それで、楽しみも増えるよ。だから、車椅子に乗っているの。それは、お前さんたちも同じだと思うよ、違うの?」
杉ちゃんが彼女に対抗するようにそう言うと、ラーメンの器を持ってやってきたぱくちゃんが、
「日本人はせっかくの権利を無駄にしているようで嫌だなあ。教育を受ける権利、素晴らしいものじゃないか。僕たちは、ウイグル族であるというだけなのに、学校へ行くことも何もできないんだよ。」
と、言いながら、全員の前に注文したラーメンの器を置いていった。ラーメンは、どれもうまそうで、いい匂いがした。これではまさしく、飯テロという言葉がふさわしく、本当に美味しそうなラーメンだった。杉ちゃんたちは、ラーメンをいただきますと言ってかぶりついた。杉ちゃんと蘭のチャーシュー麺は、肉の油がしっかり乗っていて、甘くて美味しかった。こんないいチャーシューを使っているのが、高級なラーメンと思われるほど美味しかった。
「どうだ、うまいか。」
と、杉ちゃんが聞くと、えり子さんは、ええ美味しいですと言って、焼豚にかぶりついた。
「こんな美味しいラーメン久しぶりに食べました。このお店、ちょっとラーメン屋さんらしくなくて変わっているけど、ラーメンの味はとても美味しいんですね。」
と、いうえり子さんに、
「そうか。そう思えるってことは、お前さんはまだ正常だな。何も異常なところはない。ただ、腹が減っておかしくなっただけだ。それは大丈夫だよ。」
と、杉ちゃんは急いで同調する。蘭は、隣の席で男性が泣いている声が聞こえたので、急いで彼の方を向くと、祐太郎は泣いていた。
「どうしたんですか?なにかありましたか?」
と、蘭がそうきくが、祐太郎は答えが出なかった。蘭の言ったことも聞き取れていないだろう。急いで蘭は、メモ用紙に、なにかありましたかと書く。祐太郎は、返答するのも忘れているようだ。紙を彼の顔の前に持っていっても、何も反応しなかった。ただ、悔しそうな顔をして泣き出すだけだ。
「どうしたの?ぱくちゃんのラーメン、まずかったのかな?ぱくちゃんのラーメンは手打ち麺だぞ。乾麺とはまた一味違うの。それがわかるやつは、かなりのラーメンマニアということだな。」
杉ちゃんが、ラーメンを食べながらそういうことを言うが、祐太郎はまた悲しそうな顔をするのだった。なんだかまるで、声を失った人魚姫が、表現しきれない思いを我慢できなくて泣いているのと同じような感じだった。
「ちょっと、今の気持ちを書いてみてくれませんか?」
と、蘭は、彼に紙と鉛筆を渡した。祐太郎は、鉛筆を持ってただ一言、
「くやしい。」
とだけ書いた。
「じゃあ、具体的になんでそういう気持ちになったのか、ちょっと書いてみてくれよ。」
と、杉ちゃんが付け加えるが、祐太郎は答えない。杉ちゃんが、おい、質問に答えないのは失礼だぞというのだが、それでも反応しなかった。
「はあ、聞こうとしないのかな。」
と、杉ちゃんがつぶやくと、
「いや、そういうことじゃないよね、ただ、えり子さんがやってたような、美味しい気持ちを表現する道具が何もなくて、悔しいんだろう。それは、僕もわかるよ。だって僕も日本語わからなかったときは、そういう気持ちになったことあるからね。でも、それを克服するにはやっぱり教育を受けるしかないんだよ。独学で学ぶにしてもそれは限界があるし。やっぱりさ、こういう感情表現をできるようになるためにも、手話を勉強して、学校にいったらどうなの?そのほうが、きっと君は幸せになれるような気がするんだよな。」
と、ぱくちゃんが、にこやかに笑ってそういった。祐太郎は、ぱくちゃんが何を言っているのかわからないような感じだったので蘭は、感情を表現できる様になるために、学校に行って、手話を勉強したほうがいいと紙に書いた。
「でも、いじめが。」
と、えり子さんがそういう。
「彼は、ひどいいじめにあったんですよ。ろう学校で。そんなところに、彼をもう一度行かせるなんて、死んだほうがマシだと思うんですが?」
「だってお前さんたちは、ちょっとしか生きてないじゃないか。それなら、まだ可能性はあるよ。今生きてきた年代より、これから生きていくほうがずっと長いんじゃないか。それで悟りを開くのは、まだ早すぎるわな。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑った。
「そんなものいりませんよ。あたしたちは、今ある辛さから乗り越えたいだけで。」
と、えり子さんがそう言うと、
「そうかも知れないけどね。それは、きっと学問すれば乗り越えられるんじゃないかな。そうすれば、視点もまた変わるし。世の中に対する思いもまた変わって来るかもしれないじゃないか。」
と、杉ちゃんが言った。蘭は急いで祐太郎のために、学問をすれば、世の中に対する視点も変わってきます、と書いた。
「本当にそうでしょうか?」
とえり子さんが再度いう。
「ああ、もちろんだとも。学校というところは、本当はそういうところなんだから。日本の学校は、変にマンネリ化して、本来学ぶことがずれてるけど、そうなってない学校だって、一つか2つはあると思うんだよね。僕たちみたいな、人間から見たら、日本人は素晴らしい教育システムのもとで教育を受けられて羨ましいなあ。」
と、ぱくちゃんがにこやかに笑って、そういうことを言った。
「でも、彼が、耳が遠いということで、またいじめられたり、勉強についていけなかったりしないでしょうか?」
と、えり子さんが言うと、
「いやあ、最近の通信制高校は、学校に生徒が通うのではなく、先生が家に来て授業をするというシステムもあるようですよ。だから、そのあたりは、心配ないのではないかと。」
と、蘭が言って、祐太郎に最近の通信制高校は、学校の先生が家に来て教えてくれると書いた。このシステムは、祐太郎も知らなかったようで、ちょっと表情が変わった。
「それに、学びたいという意思があれば、通信制高校でなにかしてくれるはずです。大事なのは、学びたいという意思です。」
蘭は、学びたいという意思が何より大切ですと書いた。
「だから、お前さんたちは、そういう権利が保証されているんだから、もう二度と自殺しようなんて思わないでくれよ。教育を受けるのは遠い世界だと思っているようだが、そんなこと、絶対ないんだからな。それは忘れないでいてくれよ。」
と、杉ちゃんがえり子さんと、祐太郎の肩を叩く。
「じゃあ、今日は僕たちでおごりますから、ラーメンを食べてくださいね。」
蘭に言われて、二人はラーメンにかぶりついた。これで本当に美味しいと思ってくれたようだ。こんな美味しいラーメン、なかなか食べれないぞ、と杉ちゃんはカラカラと笑った。
その日は、ラーメンのお代は蘭が出してやって、二人はありがとうございましたと言って家に帰っていった。きっと、ふたりとも考え直してくれるかな、と杉ちゃんたちは、二人の背中を眺めながら、それを見送った。
数日後のことだった。蘭が、お客さんに入れるための鯉の下絵を書いているときのこと。蘭のスマートフォンが音を立ててなった。何だと思ったら、メールが届いたのだ。メールには動画ファイルが付いていて、数十秒くらいの短い動画が入っている。
「先日はありがとうございました。僕は、高校に行くことにしました。」
たったこれだけしか書かれていないメールだけど、蘭は誰が送ってきたのかすぐわかった。短い動画には、まだぎこちない姿ではあるけれど、しっかりと、ありがとうという手話をやっている、祐太郎君の姿が写っていた。多分それを撮ったのは、えり子さんだろう。彼女たちは、きっと目覚ましい勢いで成長していくんだろうなと思いながら、蘭は、スマートフォンのメールアプリを閉じた。
遠い世界 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます