第52話

 誰かがずっと自分の名前を呼んでいるような気がしていた。

 だが美里は眠くて眠くてそれに答える気力がなかった。

 目を開けるのも、その声に耳を傾けるのもつらかった。

 どうしてこんなに眠いのだろう、それにどうして誰かが自分に何かを命令しているのだろう。その命令する声は不快だった。

 藤堂じゃないのは確かだった。彼はそんな爬虫類みたいな話し方をしない。

 あら、爬虫類ってしゃべったかしら。

 でもこの不快な声は爬虫類の姿から聞こえる。

 人間の服を着ているけど、爬虫類みたいだ。

 何を言っているのかしら?

 耳を澄ましたけど、やはり何を言ってるのか分からなかった。

 だけど、時々は分かった。

「起きなさい」「笑いなさい」「ベッドから降りなさい」くらいの英語は美里も分かる。

 分かる、と思った瞬間に身体が動いた。

 まだ眠っていたかったのに。

 

 懐かしい武器があった。藤堂が取り上げた美里の釘打ち機だ。

 それを手に取ると、ずしっと重みがきた。

 外国で出会った、外国製の釘打ち機のくせにそれは美里の手にぴったりだった。

 爬虫類が「殺しなさい」と言った。

 美里に。

 誰かを殺せと言った。

 嫌だわ、と美里は思った。

 どうして、誰かに命令されて殺さなきゃならないのだろう。

 どうして爬虫類が自分に向かって偉そうなのだろう。

 そんな楽しくない事、やりたくない。

 自分でやればいい。

 だが美里の身体はまた美里を裏切った。

 美里は誰かに向かって釘打ち機を撃った。


 何かが美里の中にいて、美里を気持ちとは全然別の方向に連れて行く。

 美里は笑う事も、怒る事も、泣くことも出来ない。

 すべての表情を顔に表すことが出来なかった。

 不愉快な爬虫類が命令する時だけ、美里の身体は動く。

 釘打ち機が重い。

 日本へ帰ったら、もう少しコンパクトな物を買いに行こう、と思った。

 

 チョコレートと言ったの? 

 食べなさいと言われて、口を開くと、素晴らしく甘いチョコレートが口に放り込まれた。 これは、藤堂の作ったおいしいチョコレートね。

 甘くて、甘くて、おいしくて、生まれ変わったらチョコレートになりたい。

 藤堂はどこにいるのかしら。

 もっとチョコレートを食べさせて。

 チョコレートがあんまり甘いので、腕の力が抜けて、釘打ち機を落としてしまった。

 藤堂に会いたい、と思った。

 自分でも思ってるよりずっと美里は藤堂の事が好きなのかもしれない。

 あの人の腕の中でチョコレートを食べたいわ、と思った。


急に身体を引っ張られて、誰かの腕に捕まった。

 そして顔をがつんっと殴られた。

 痛いわ。何故、殴るの。

 殺すわよ。

 

 今度は誰も何も言わなかったのに、口に強引にチョコレートが入ってきた。

 ああ、でもおいしい、藤堂のチョコレート。

 もっともっと欲しいわ。

 一日中、チョコレートを食べていたいわ。


 殴られた顔が痛い、ような気がした。少し顎を動かしてみると、動いた。

 顔を左右に動かしてみる。動く。動く、と思った瞬間に視界が広がった。

 見える。部屋の中が見える。

 すぐそばに人の気配がするのでそちらへ顔を向ける。

 見たような顔だけど、思い出せない。でも、そんな事はどうでもよかった。


 そいつは美里のチョコレートを自分の口に放り込んだのだ。


 それは私のチョコレートだわ、と美里は思った。

 藤堂が言ったはずだ。

「俺の作るチョコレートはすべて君の物だ」と。

 だから藤堂のチョコレートは全部美里が食べるはずだ。

 美里は男に対して、決意を表明した。

「わ、たしの、チョコレート、ぬすんだ、コロス」

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