第8話
「聞いたわよ! 美里さん!」
と美奈子が飛びついてきてそう言った。
「へ?」
美里はそのとき、出勤したばかりで、休憩所で着替えていた所だった。美奈子はあと少しでバイトを終えるという時間帯だ。
「オーナーといい雰囲気なんですって? やるじゃない!」
「だ、誰がそんな事を」
「オーナーが言ってた」
「……冗談に決まってるでしょ」
「冗談を言ってるようには見えなかったけど? 理想の女性に巡り会えたとまで言ってたけど?」
理想って……変わった食材を調達させようって魂胆でしょう。
美里はため息をついて制服に着替えた。美奈子はくすくすと笑っている。彼女の機嫌がいい理由は、もちろんるりかが行方不明だからだ。姑や旦那の手前、心配したような顔をしているが、お店ではスキップでもふもうかというほどだ。ふんふんと鼻歌が飛び出る時もあるのだから。彼女は美里に軽口をたたき、浮き上がりそうな足取りで店の中を駆け回る。るりかの行方が分からなくなって三日。お姑さんは真っ青な顔で気落ちし、それを美奈子が心配顔で慰めている。心配してるのは母親だけだった、実弟である美奈子の旦那も父親も、きっとやっかいだった彼女から解放された気分の方が大きいのだろう。
るりかのキチぶりは近所どころかこの町では有名だったらしく、被害を受けていた人間が多大だったらしい。もちろん、一番の被害は粘着されていた藤堂だろうが、藤堂の態度は全然変わらなかった。るりかの存在や失踪にはなんの関心もないと態度が示していた。
「美奈子さん、今日、チョコラセットを買って帰りたいんだけど、取り置きしてもらってもいい?」
「いいわ。進物品??」
「ううん、自分で食べるのよ。密かな贅沢」
「一粒三百円もするのに?」
「うん、ここのチョコレートすごくおいしいわ。奮発してセットにする!」
「いくつ入り?」
「三十個!」
「え~? 一万近くするわよ!」
「うん、いいの。バイト始めたんだから。ご褒美」
「まあ、よそで買うよりは安いもんね」
「そうそう」
従業員割引で二割引で買えるのだ。どうしてもっと早くケーキ屋で働かなかったんだろう、と悔やんだほどだ。
美奈子同様に美里もご機嫌だった。うっかりとやってしまったるりかの事は思わぬ小遣い稼ぎになったし、その後の追求もなさそうだからだ。
あれは完全に失敗だった。美里はもっと慎重だったはずなのに、あの時はいきなりるりかのうなじに突き刺してしまった。頭で考える暇もなかった。体が勝手にやってしまったという感じだった。
「はあ」
とため息とともにロッカーの扉を閉める。
「ねえ、オーナーと進展したら教えてよね」
と美奈子が言った。
「だからそんなのありえないわよ」
「あらあら」
「じゃあ」
美里は美奈子の冷やかしに肩をすくめて、休憩所を出た。
「おはようございます」
と喫茶部に出る前に厨房の横を通るので、誰にともなく挨拶をする。厨房にいるのは藤堂オーナーとあと二名のパティシエ。一人はかなりのベテランだが、人付き合いが苦手らしく、ほとんど口をきかない林という男。年は四十後半くらいだと思う。いつもうつむいて、手先だけが忙しく動いている。もう一人は見習いの新井という若い青年だった。ほとんど素人で藤堂の言いつけをきいて雑用をするだけだった。だが、あまり態度はよくないという噂だ。やる気はなく、注意されるとふてくされる。やめるのも時間の問題だと美奈子が言っていた。午後の出勤でも最初の挨拶は「おはようございます」だ。
「おはよう」
と藤堂が言い、ベテランの林さんはただ頭を少しだけ下げた。見習いの新井は「ちーっす」と言った。
「新井君、冷蔵庫から新しい生クリームの箱出して」
と藤堂が言い、新井が、
「ういーっす」
と言ってから大きな冷蔵庫のドアを開けた。新しい箱を取り出そうとして、
「あれ、これ、新しい作品っすかぁ? オーナー」
と言い、新井がバットに乗せたグラスを指さした。
壁一面ほどの大きな冷蔵庫の中には綺麗なカクテルグラスが並んでいたが、赤い液体の中にぷるぷるとしたゼリーのような物が浮いていた。
「早く閉めて、温度が上がるだろ」
「すんません。これ、試作品っすか?」
新井君はすぐに扉を閉めたが、質問の答えを追求した。
「違う。それは今夜笹本さんのディナーのデザートに依頼されたやつ。閉店後に届ける予定だから、触るな」
と藤堂が言った。
美里は喫茶部のカウンターの横にいた。銀の盆をがたんと床に落としてしまって、皆が美里を見た。
「すみません」
慌てて盆を拾い、ダスターで拭いた。その際、藤堂の方をちらっと見たが、ばっちり視線があった。新井が「なあんだ、試食ラッキーと思ったんすけど」とつぶやいたのだが、美里は遠慮する。
藤堂は少し笑っていたように見えた。
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