第7話
もちろん、失敗だった。まさかこんな場所でこんな巨体を相手にするとは思ってなかった。どうしてこう短気なんだろう。壊れた自転車でこの巨体を運ぶなんて無理だし、るりかをこのままにして一刻も早く逃げるしかない。
周囲に視線を走らせる。多分、誰も見ていない。そう信じるしかない。どこのお店もシャッターが降りてるし、と思ったら、チョコレート・ハウスと茶色い文字で書かれた目の前のガラスのドアが開いた。
「困るな、店の前で。西条さん」
と藤堂が言った。
「すみません」
藤堂は素早くるりかの体を店の中に引きずり込んだ。
「入って」
仕方なく美里も店内に入った。
藤堂はガラス戸を施錠して、ブラインドを下ろした。
隙間から入ってくる月の明かりがるりかの死体に一筋の光をあてた。藤堂が死体をひっくり返すと、るりかは目を見開いたままの表情だった。
「ずいぶんと大胆な犯行だね」
と藤堂が笑いながら言った。藤堂は一日中、笑顔もなく、無口な感じだったのでその笑顔に驚いた。美里は藤堂を見上げた。自分が背負ったリュックの中身を考えたが、美里よりも三十センチは高いこの男を仕留めるほどの獲物は持っていなかった。油断している相手ならともかく、美里の犯行を見て警戒はしているだろう。
藤堂が携帯電話を出してどこかへかけだした。
警察へ通報しているのは間違いない。
一瞬にして目の前が真っ暗になり、美里はその場へしゃがみ込んでしまった。
「もしもし、ああ、藤堂です。どうも、ちょっと今から出られます? ええ、新鮮なのが手に入りそうなんで……まあ、値段の交渉はまだです。新鮮ですけど、そんなにいい素材じゃないですけど……ええ。よろしく」
どこかの業者への連絡だったらしく、明日の材料の事かもしれない。でも美里は二度とこの店でケーキを運ぶ事もなく、それどころか、ケーキやチョコレートを食べることすら許されない場所へ追いやられるのだ。
藤堂の隙をついて逃げようか、と思った。床にしゃがんだままい藤堂を見上げた。かちっと音がして、藤堂が煙草に火をつけていた。
「煙草、吸うんですか」
「え? ああ、普段はあんまり吸わないんだけどね。やっぱり、興奮するとさ、落ち着く為に吸いたくなるだろ?」
「え……はあ、そうですか」
ポケットから携帯灰皿を出して、灰を落とす。暗い店内に煙草の火と差し込む月明かりがやけに赤く見えた。
「まいってたんだ」
と藤堂が言った。
「え?」
「こいつ」
藤堂はるりかの死体をこつんと蹴飛ばした。肉がぶるんと揺れた。背後から突き刺したスポークがのどを突き通って前に飛び出していた。
「まじで、店をたたもうかと思うくらい、しつこくてさ。何百回断っても来るんだ。毎晩店の前で待ち伏せされたしね、話が通じないどころじゃなくて。この町で店を出した事を後悔しない日はなかったよ」
と言ってまた笑った。
だったら見逃してくれないかな、と思った。
「君、決断早くていいね」
「……」
どんどんどんとガラス戸をたたく音がした。美里の心臓がまた跳ね上がる。警察が来たのだ。ついに捕まるんだ。年貢の納め時っていう言い回しは古いか、と美里はそんな事を考えた。逃げてもいいが、追い回されてみっともなく捕まるのは嫌だ。どうせなら正々堂々していようと、瞬時に思った。いつでもどんな時でも、美里は自分の犯した犯罪の贖罪は償わなければならないと思っているからだ。
藤堂が鍵を外しドアを開けると、二人の男が入ってきた。すぐにるりかの死体に気がつき、しゃがみ込んで死体を調べ始めた。
「こいつは大物だな」
と年配の男が言った。夏なのに、長袖のジャケットを着て、皮の手袋をしている。
この年配の男は初めて見たが、次の男は見た事がある。ショッピングセンターの国道を挟んだ向かいにある交番のお巡りさんだ。交番の前の交差点で信号待ちをしていると交番の前で立っているのをよく見かける。まだ若そうだ。
「なるほど新鮮だ。素晴らしい仕留め方だね。プロのハンターかな。あんまり上等の素材じゃないというのも的確だよ、藤堂君」
と年配の男が言った。
「でしょう。笹本さんの創作意欲がわくかどうかは分からないですけど」
と言って藤堂が笑った。
「私はいつだって創作に燃えているよ。予約もたまっているしね。で、彼女は?」
笹本と呼ばれた男が美里を見た。
「彼女が提供者、値段の交渉は彼女とお願いします」
「なるほど、なるほど」
笹本は揉み手をしながら美里に近づいてきた。
「ようこそ、ようこそ。私達の町へ。我々は君のような腕のいいハンターを待ち焦がれていたんだよ。もうずっとね」
と笹本が言った。
「はあ?」
「私はシェフ。三十万出そう。それでこの素材を売っていただきたい」
「?」
美里は藤堂を見た。
「いいんじゃないか? 笹本さんはけちじゃない。相応の値段だと思うけど?」
「はあ?」
「決まりだな、もちろん即金で払おう」
笹本はそう言って胸ポケットから分厚い財布を出した。十万円づつの束を三つ抜いて、カウンターの上に置いた。
「これで取引は成立。また、頼むよ」
美里は笹本を凝視していた。何を言っているのかが分からなかった。ふと視線をるりかにやると、
「オーナー!」
藤堂がかがみ込んでいると思ったら、スプーンでるりかの大きなぎょろ目をくりぬいている所だった。
「藤堂君、デザートは頼めるのかな?」
「ええ、ディナーはいつ出ます?」
「三日後に予約が入ってるんだ。正直、助かったよ。肉の在庫も残り少なくてね」
「では、三日後にお届けしますよ」
「頼む。じゃあ、行こうか」
その間、お巡りさんは一言も言葉を発しなかった。だが、笹本の言葉で動き出した。お巡りさんは店の前に止めたトラックにるりかの死体を乗せてから、藤堂に向かって敬礼をした。
そして彼らは去って行った。
藤堂はまたガラス戸に鍵をかけてから、カウンターの上の札束を美里の手に握らせた。
「お疲れさん」
「あの……一体……どういう」
美里は札束を握りしめたまま聞いた。
「笹本さんは三丁目で料理店をしているフレンチのシェフさ。もちろんブランドの牛肉や豚、鳥、魚をふんだんに使ってね。笹本さんの料理は素晴らしくうまい。評価も抜群だ」
「はあ」
「でもまあ、中には変わった物を食べたがる客もいる。笹本さんは変わった食材で料理するのも好きでね。この町にはシェフがいる。パティシエもいる。客もいる。だが、調達できるハンターがいなかった。だから、君は歓迎される。君も小遣い稼ぎにもなる」
変わった食材とは、やはり人肉の事だろうか、と美里はぼんやりと考えた。
「オーナーも食べるんですか?」
「残念ながら俺は作る専門。試した事もあるけど口には合わない。笹本さんのあの料理は高いしね。一年前から予約がいるし」
「そうですか」
美里は藤堂の手を見た。ガラスのコップの中に入った二個のまんまるな眼球。
「それ、どうするんですか?」
「これ? 俺はパティシエだから、デザートを作る。試食する?」
美里はぶんぶんと頭を振った。
「そうだな。こいつだけは食う気にならないな。脂肪ばかりでまずそうだ。だけど笹本さんならどんな安い食材でもうまくやっつけるから」
いやいや、そういう意味じゃない。
人間を食べるだなんて、この人達は頭がおかしいに違いないわ。
「あの……帰ってもいいですか?」
「送っていくよ」
「いえ……大丈夫です!」
美里は逃げるように外へ飛び出した。店の前でまだ倒れたままのスポークがひしゃげた自転車を起こして、急ぎ足でショッピングセンターの駐車場から飛び出した。
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