第6話
翌日、美里はチョコレート・ハウスの初出勤だったのだが、時間通りにロッカールームで着替えをしていると、すでにるりかの噂で持ちきりだった。美奈子のシフトが九時から三時まで、美里は昼の二時から八時までなので、先に来た美奈子がすでに昨夜の騒ぎを事細かく報告していたらしい。
人の不幸は楽しい、そんなもんだ。るりかの標的になった美里に皆が興味津々った。自己紹介から始まって、るりか攻略方まで、よくまあ仕事の合間にこんなにしゃべれるなと思うほどに情報が行き交う。
仕事自体はそう難しくなかった。ケーキの販売は名前と値段を完璧に覚える時間が必要なので、喫茶部のウエイトレスからだった。注文されたケーキとコーヒーを運ぶだけなので簡単だった。立ちっぱなしで足がむくむのと、メイドの制服が似合わないのが少々問題だが。
オーナーの藤堂はるりかの事は何も言わなかった。我関せず、という感じだったが、あのるりかにあんなに執着されているのは気の毒だと思う。泣いてわめいた顔を思い出すと恐ろしくなる。
チョコレート・ハウスで働く女性達は美奈子を含めて主婦ばかりだった。子供がいる人もいる。そういう人が望む勤務時間は朝から昼までか、長くても夕方四時くらいが限度だった。確かに子供が学校から帰る時間には母親は家にいたほうがいい。なので独身で身軽な美里は閉店までの勤務を藤堂から希望された。なので勤務時間は二時半から八時半まで。掃除とか片付け、レジ締めなどがある。
バイト初日、久しぶりに働いたのでくたくただった。簡単な仕事ではあるが、慣れるまでは大変そうだ。以前はデパートで勤めたこともあったので、立ちっぱなしは慣れていると思っていたが、久しぶりすぎて足がぱんぱんだ。
片付けを終えて、タイムカードを押す。その時間には事務所には藤堂と自分しかいなかった。
「お疲れ様、仕事どう?」
と声をかけられたので、
「みなさん、いい人ばかりで楽しいです」
と答えた。
「そう、よかった」
藤堂はデスクに向かって帳簿をつけだしたので、美里はその背中に、
「お疲れ様でした」と声をかけた。
「ああ、お疲れさん……西条さんて、以前、S百貨店にいたんじゃなかった?」
と振り向きもせずに言った。
美里の心臓がどくんとなった。
「え……」
肯定すべきか否定すべきか、と一瞬悩んだが、
「ええ、そうです。勤めてました」
と素直に言った。
そこで藤堂は振り返って、
「履歴書にそれは載ってなかったけど?」
と言った。
「すみません、期間が短かったんで省きました」
「ふーん」
と藤堂が言ったが、心臓はどくどくと鳴っている。落ち着け、自分。
「まあ、いいや。また明日、よろしく」
と言って藤堂がにやっと笑った。
「お先に失礼します」
最後まで平静を崩さずに応対できたと思う。ショッピングセンターの社員用通用口から出て、駐輪場までとぼとぼと歩く。
何も落ち度はないはずなのに美里の足は重かった。
自転車を押して歩きながら、店の前を通りかかった時、ウインドウの前にるりかの姿を見つけてしまった。時計は九時に近く、ショッピングセンターの駐車場ももう車も人影も見えない。まだ中には従業員が多数残っているだろうが、外灯も一斉に消えた駐車場は薄暗くなっていた。
「あんた……」
とるりかが美里を素早く見つけて走ってきた。すぐにきびすを返して逃げようとしたが、巨体の割に素早い動作でるりかは美里の肩をつかんだ。自転車ががしゃんと倒れた。
「やめてください。八つ当たりも迷惑です」
「何がよ!」
「あなたが店で雇ってもらえないのはあなたの問題でしょ。私がバイトするのと関係ないでしょう」
「うるさい! うるさーい!」
批判は耳に入らないらしく、るりかは子供のように耳をふさいだ。ぎゅっと目をつぶって、頭を振った。長いばさばさの髪の毛がおおきく揺れて、獅子舞のように宙を舞った。
美里は倒れた自転車を起こそうとしたのだが、るりかが車体を足で踏んづけた。
「やめてください!」
この町へ来て買ったばかりのぴかぴかの自転車だ。美里はるりかの体を突き飛ばそうとしたが、巨体はびくともせず、逆に腕をとられて引っ張られた。体勢が狂って足がもつれ、自転車の上に倒れ込んだ。手が車輪の間に落ち込みひねってしまったし、膝をコンクリートで打ち付けた。
「痛っ」
るりかは美里を見て笑った。そして太い足で車輪の間に落ち込んだ美里の手を何度も踏んづけた。慌てて手を引っこ抜いた。るりかの足はやむことがなく、美里の自転車をがんがんと蹴り続ける。
「あ」
後輪のスポークが一本折れた。確かにショッピングセンターで売り出された時に買った自転車なので高価な物ではない。
だが、逆恨みで人の物を足蹴にするなんて許される事ではない。
「ここでずっとバイトするって言うなら、あんたの体もこうしてやるわ! あたしはこの町じゃ何しても許されるんだから!」
美里ははねて飛んだスポークを拾うと、るりかを見た。
るりかは鼻でふふんと笑った。
「あ、藤堂オーナー」
と美里がるりかの背後に視線を外すと、るりかは慌てて後ろを向いた。
その瞬間。
美里は握りしめたスポークをるりかのうなじに突き立てた。
ずぶずぶずぶと肉肉しい食感が手を伝った。
脂肪のかたまりのような体だが思ったよりも簡単にるりかの肉に突き刺さった。
るりかは声も出さずにその場へ倒れ込んだ。
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