第9話
金曜日の午後はとても忙しかった。ショッピングセンターでの買い物帰りの人、幼稚園に迎えに行った帰りの子連れの主婦軍団、学校帰りの女学生達、会社帰りのOLなどがコーヒーブレイクに寄るのだ。ケーキとコーヒーで際限なく続くおしゃべりには何か意味があるのだろうか。
二時半から五時半まで働くと、休憩が三十分ほどある。休憩には入れたてのコーヒーか紅茶を飲んでもいい事になっているし、藤堂や林の作った試作品というケーキやクッキーがいくらでもあるのでそれを食べてもよいと言われている。美里はチョコレート以外は食べないので、コーヒーをブラックで飲み、自腹で買ったチョコを一個だけ食べることにしている。休憩所で休んでいたら、ドアが開いて藤堂が入って来た。
藤堂はコック帽を脱いではあっと大きく息をした。
乱暴にパイプ椅子に座ると、腕をぐるぐると大きく回した。
「お疲れさまです」
「今日、暇じゃない?」
と突然に藤堂が言った。
「はあ?」
「店が終わったら、食事でもどう?」
「え……」
今日は笹本シェフにるりかの目玉デザートを献上すると言ってたではないか。人肉料理店での晩餐なんて冗談じゃない。
「いえ……結構です」
「はははっ」と藤堂が笑った。
「心配しなくても、普通の食事を出してもらうよ」
「でも笹本さんの所でしょう?」
「笹本さんに連れておいでって言われてるんだ。あの食材がどんな料理になるか興味ない?」
「いえ、別に」
「ふーん、そんなもんかな」
「デザートを届けるんですか?」
「そう」
と藤堂がうなずいた。
「デザートはうまく出来た。笹本さんのとこのお客さんは結構うるさくてね。今夜は市長夫妻が来る予定だから、笹本さんもがんばってるんじゃないかな。新鮮な食材が間に合って助かったって笹本さんが言ってたよ」
「はあ……っていうか、市長夫妻が食べるんですか?!」
美里は少し胸が苦しくなってしまった。
「そう。常連さん」
「……」
あまりに美里が目をまん丸くして藤堂を見ているので、
「そんな顔するけどさ、西条さんもどうなのって人種だろ」
と言った。
「初めてじゃないだろ?」
「……」
「去年、S百貨店でスイーツフェアをやった時に、うちの店も出したんだけど」
その時の美里の顔はまったく馬鹿面を下げていただろうと思う。
ぽかんと口を開けて、藤堂の顔を見上げていた。
「ああいう場所でやるのはどうかな。迷惑を被った人も結構いたんだろう?」
クスクスと笑う藤堂の目は猫の目のようで、意地の悪い光をたたえていた。
「あれは……」
去年の冬にS百貨店のお歳暮コーナーでバイトをしていた時の事だ。
バイトの受注の作業は秋頃に集められたアルバイトの人員でほぼまかなわれる。間に社員が数人入るだけで後はバイトばかりだ。だが何年もお中元、お歳暮と言う時節のバイトをしている、いわゆるベテランなバイトもいる。主婦だったり、大学生だったり、年齢はばらばらだがいわゆる経験ありな人達だ。たいていは初心者のバイトに対して親切に教えてくれたり、失敗に対してはフォローしてくれたり、とバイト間で仲間意識が生まれてくる。アルバイトでまかなえるほどの作業なのだから、真剣にやればそう難しい仕事ではない。分からない事は聞けばいいし、落ち着いてやるとそうそう失敗はない。失敗したとしても取り返しのつかないほどではないのだ。
美里も短期のアルバイトでそこにいた。
土日は食事の時間が夕方になるほど忙しいのだが、平日はまあまあだ。バイトの数も少ないし、割り当てられた社員の姿が見えない時もある。客がくるまでぼーっと受付の椅子に座っているのだ。
そのとき、美里の横にはベテランバイトが座っていた。彼女の第一印象は「幸の薄そうな人」だった。本当は白のはずが黄ばんでベージュに見えるシャツに黒いスカートはよく見れば裾に毛玉がたくさんある。髪の毛を黒ゴムで一つにひっつめている。
顔の皮膚までが薄く、首の辺りも手先も細い貧相な体つきだった。
百貨店での初めてのバイトだったので、美里も少々緊張していたのだが、ベテランの彼女は優しく丁寧に対応を教えてくれた。
「いいわね、それ」が彼女の口癖だった。彼女、瀬川幸美は三十五歳で独身だった。
毎年お中元とお歳暮は必ずバイトに入っているらしかった。普段は夜にスナックで働いているらしいのだが、昼間のいいバイトがあれば働いていると言った。
「昼も夜も働くって大変じゃないですか?」
「うん、でももう慣れたわ」
「働き者ですね。私なんか去年会社勤めをやめてからもうずっとぶらぶらフリーター」
「いいわね、それ、フリーターっていうの。なんか格好いい」
「そうですか?」
「うん、若いからいろんなバイト出来ていいわね。私なんか年齢で限られてくるから」
「まだ大丈夫でしょう?」
大丈夫でしょうとは言いながら、見た目のオーラからして覇気がない幸美は何か少し不利なような気がした。
そのお歳暮のバイトの後期に一人の男が新たに入ってきた。浦見といい、三十手前くらいでこざっぱりはしているが、ふにゃっとした男だというのが第一印象だった。やけに人懐こく、すぐにバイト仲間に馴染んだ。男前ではなかったが話が上手なので好感を持ってバイト仲間は接していたと思う。美里が少し距離を置いたのは、人柄関係なく三十間近でバイトって……と思うからだ。大きなお世話かもしれないが、いい年をしてバイトのみの男は信用できない。あきらかに仕事の合間のバイトではないし、噂によるとベテランバイトらしく、毎年来ているそうだ。かといって幸美のように夜に働いているわけでもない。いったんそう感じてしまうと、人懐こい姿勢も馴れ馴れしいだけのように思うし、バイト仲間で飲み会を仕切るもの、いい年をして若い者に混じって、と思ってしまうのだ。浦見はやけに馴れ馴れしく女の子のバイトを軽い口調で口説き、気軽にランチに行ったりしていた。美里も何度か声をかけられたがもちろん断っている。
何故か幸美には声をかけないばかりかよそよそしい感じさえすると思っていたら、ある日バイト仲間の女の子から聞いた情報が、
「浦見さんて瀬川さんの彼氏ですよ」だった。
「え? まじで?」
「ええ、もう長いって言ってましたけど」
「え~、でも浦見さんてバイトの女の子片っ端から口説いてない?」
「あははは。いつもの事ですよ。瀬川さんが何も言わないみたいだし。でも浦見さんに瀬川さんの彼氏でしょって聞いても否定しますよ。馬鹿ですよね。あの男」
「本当に?」
「ええ、瀬川さん、煙草吸わないのに、いつもバッグにラークの箱はいってるでしょ? あれ浦見さんの為にですよ。電話一本で届けるって」
百貨店で働く人には店内で持ち歩くバッグが指定される。透明のバッグに私物を入れて持ち歩かねばならない。バッグは人事部で三百円で買わされる。それ以外は持ち込めないが、透明バッグに入れれば私物と見なされる。
「ああ、そうなんだ」
「ええ、バイトの帰りにお弁当買って部屋まで届けたりしてますよ。でも届けるだけなんだって、遊ぶとかデートとかなし」
「それって……」
「ええ、いい足にされてんじゃないですかね」
「ふううん。どこがいいのかしら?」
「さあ、瀬川さんは腐れ縁よって言ってましたけど。まあ、他に出会いもなさそうだし。瀬川さんがしがみついてるって感じですよ。あたしならお断りだけどなぁ。婚活すればもうちょっとましな男もいると思うけど」
「確かに」
浦見に対する好感度は一気にゼロになった。
ところが浦見は意地のように美里に誘いをかける。
しつこい人間は嫌いだった。
ある日持ち帰りギフトの仕分けにかり出され、薄暗いバックヤードで仕事をしていたら急に後ろから抱きつかれた。生暖かい息が首筋にかかり、ささやき声で浦見だと分かった。浦見はなにやら言い訳のようにぶつぶつとつぶやいていた。彼の生来の性格からして、美里が騒ぎたてても、冗談だよと笑ってすますだろう。そして周囲にはそれが通るような気がする。美里がセクハラだと叫んでもきっと大げさだと言われるだけだろう。バイト同士のいざこざなど上は関知しないだろう。ベテランバイトで口がうまい浦見は上手にそうやってやってきたに違いない。
浦見がデートしてくれなきゃ離してあげないよ、とか言いだした。
美里は浦見の目が嫌いだった。何故かやけに澄んだ瞳だったからだ。
本人は全然澄んだ感じじゃなく、真っ黒。
目は口ほどに物を言うなんて嘘だ。
美里は浦見にうまい言い訳をし、彼から離れた。
笑って退社後のデートの約束をしたのだ。
浦見が満足そうに美里に背を向けたので、美里はその頭を金槌で殴った。
女の力でも殺意を込めて思い切り殴れば気を失わせるのは出来る。金槌も釘もバックヤードにあった。催事の時の棚を作ったり、電気の配線をしたりと、何かと使うのだ。浦見はうなり声を上げて倒れた。気を失った浦見を段ボールの箱の間に押し込んで、頭のてっぺんに五寸釘を打ち込んだ。釘は一瞬に浦見浦見の頭に中に入り込み、何の引っかかりもなかった。アパートの壁に釘をうつのと同じくらい簡単だった。堅いのは最初だけで、中は柔らかい。そのまま金槌で滅多打ちにしたかったけど、血と脳みそを飛び散らせるのは考えものだった。
打ち込んだ瞬間に浦見の体はびくっとなり、そして呼吸すらしなくなった。この男が将来どこかでのたれ死ぬどんな場面よりも安らかにしてやれたと美里は思った。
あの時、誰かに見られていたとは思わない。仕事をしていたのはバックヤードの一番隅っこで奥まった場所だった。薄暗く、節電とやらで明かりの半分は消されていたからだ。だから浦見も平気でセクハラしてきたのだ。
浦見の死体が発見されたのは二、三日たってからだった。段ボールをかぶせて見えないようにしていたし、忙しい歳末の時期に浦見を探す人もいなかった。幸美でさえ、連絡が一ヶ月ないなんてざらだし、一時期のバイトが無断欠勤したからといって百貨店側は大騒ぎするほどでもない。
新聞には大きく載ったし、百貨店には迷惑だっただろう。
幸美は浦見の訃報を聞いた時にその場でぼろぼろと涙をこぼした。しゃがみこんで泣きわめいてどうしようもなかった。その姿に涙を誘われた者もいたが、美里は少し引いてしまった。そんなに好きならもっとやりようがあっただろう。あんな男を野放しにしておいた幸美も悪いと思う。
その後、バイトをやめてから彼女との交流はなく、浦見と縁が切れて少しは幸が濃くなればいいなと思う。
美里はそこまで思い返してから、あの時の事を藤堂が見たはずはないと思った。確かにお歳暮の催事場の反対のブースで真冬のスイーツコレクションをやっていたのは知っている。その場に藤堂が出店していたとしても、あの現場を見られたのはあり得ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます