第2話

「あの角の横田さんはちょっと、気むずかしいから気をつけた方がいいわよ」

 と大家だと名乗る女が言った。

「はあ」

「ごめんなさいね。入居そうそうにこんな話を耳に入れたくはないんだけど、近所に二、三人は面倒な人がいるから」

「どこに行っても面倒くさい人はいますからね」

 と西条美里が答えると大家はほっとしたような笑顔になった。

 正確には大家宅の息子の嫁らしいのでさしずめ若奥様というところか。 

「そうなの。子供はまだかとか、洗濯物の干し方とかどうでもいいじゃないのねえ」

「過干渉なご近所さんが?」

 若奥さんは唇を尖らせて、目玉をぐるっと回した。

「ご近所っていうか、まあね」

「人に干渉されるのは嫌なもんですよね」

 確かに他人への干渉は美里がもっとも嫌う行為だ。美里は誰にも干渉しないし、されたくない。だから、恋人もいなければ、友達もいない。

「そう! そうなの! 大きなお世話ってんだわ」

 若奥さんはそういって笑った。そして、

「あなたとは気が合いそうだわ。あなた、いい人みたい」と続けた。

「どうも」

 美里は鍵を受け取って、不動産屋を出た。

 不動産屋から新居まではほんの数メートルだ。新居とはいうものの、築二十年の三階建てのアパート。ペット可。階段はひび割れているし、あちこちに蜘蛛の巣がかかっている。 耐震の強度も怪しいくすんだグレーのアパートがこれからは我が城だ。荷物はボストンバッグと背負ったリュックサック。普段からあまり物は持たないようにしているが、引っ越しの時にはかなり物を捨てるようにしている。

 でもそうね、とりあえずカーテンを買わなきゃ。

 三階まであがると息が切れる。美里は二十六歳だ。運動不足を痛感する。一番端の部屋が我が城だ。部屋は四つ並んでいる。どの部屋も表札は出ていない。若奥さん情報だと、女子大生と、OL、一つは空き部屋だと聞いた。ここは女子専門のアパートだが若奥さんが言うには、わざとグレーの壁にして蜘蛛の巣をおいてあるそうだ。洗濯物も男物を一緒に干したほうがいいとも言われた。女子専門というのが分かると目をつけられやすいのだそう。

 自分の部屋の前について、鍵を回していると、隣のドアが開いた。若い女が腕に真っ白のチワワを抱いて出てきた。犬は美里を見て、キャンキャンと吠えた。女は美里をじろっと見てからふんっと言った感じで背中を向けた。某キャラクターの健康サンダルで、小汚いジャージを引きずって歩いている。髪の毛は金髪で、もっさりとしている。

 彼女が女子大生かどうかはどうでもいい、美里にとって問題はあの犬だ。

 ペット可なのは承知しているが、あまりにきゃんきゃんと吠えられたら困るな、と思った。犬は面白いけど、あまり好きじゃない。

 部屋に入って一息つく。荷物を窓際に置いて、外を眺める。

 眼下には駐車場と横には大家の家がある。若奥さんが玄関から入っていく前にこちらへ振り返った。美里が窓からのぞいているのを見つけて手を振って見せた。美里は少し頭を下げた。目線を動かすと白いチワワを抱いた隣の娘が歩いていくのが見えた。遠目でも犬が吠えているのが見える。しつけが出来てないのだろう。いつでもどこでも吠える賢くないタイプだ。ちゃんとしつけてもらえば行儀よく出来るのに。

 美里はリュックから財布を取り出した。アパートから割と近くにホームセンターがある。あいにく車を持っていない。この町に長く住むことになるなら自転車でも買おうと思う。今日のところは歩いてカーテンとやかんを買いに行くしかない。食器や布団もいる。生きるのは何かとお金がかかる、って事にため息がでる。


 布団と食器、カーテンにやかんをそろえるのに一週間かかった。何度もホームセンターへ往復した。中三日は雨だったので、断念。カーテンだけの部屋で三日寝て過ごした。布団を運び込んだ日にはうれしくて一日中寝転んでいた。やかんとカップとコーヒーサーバーを買った日には何杯もコーヒーを飲んで、やはりごろごろして過ごした。小さいテーブルを買って、ようやく床に直接食器を置く生活から脱出すると、人心地がついた。

 その間、隣のチワワは朝も夜も関係なく吠え続けていた。

 隣の娘は女子大生のようだった。朝は面倒くさそうに大きなバッグを抱えて出かけて行く。犬は廊下につながれている時もあるし、部屋の中で吠えている日もある。廊下でつながれて一日過ごしている時はたいがいドアの前で丸くなっていた。臆病なのだろうか、美里が部屋から出るたびに、小さな体を震わせて尻尾を体の下に挟んで伏せている。

 真っ白な毛は綺麗だったし、栄養状態も悪くなかった。たぶん、愛情は十分に注がれているのだろう。ただ、しつけが出来ていないだけだ。美里を見ると、震えながら吠える。目玉が飛び出しそうな顔で必死に吠える。

 女子大生の両隣の部屋が空いていた理由が分かった。

 あまりに犬がうるさいからだ。だが、ペット可なのでどこにも文句は言えない。女子大生に言っても何の改善にもならないだろう。言葉は通じるけど、話が通じないタイプの人間はどこにでもいる。

 ある日、犬の体が首輪から抜けていた。新しい皮の首輪をもらったのだろうが、まだそれほどしなりがなく、ベルトの穴から外れたようだ。そして首からするっと落ちた。だけど、犬は逃げ出していかなかった。やはりその場で尻尾を巻き込んで美里にむかって吠えた。

 自分が移動できるという事に気がついてないのだろう。リードでつながれた世界しか知らず、その範囲しか動けないと思い込んでいる。美里はスーパーの袋から買ってきたばかりのかにかまを出して少しちぎって鼻先に差しだして見た。

 犬は吠えるのを止めて、ふんふんとカニかまを嗅いだ。そして小さいピンク色の舌で舐めた。小さいのにちゃんと尖った歯でがつがつとカニかまを食べた。

 犬に食べさせていけない物なんてのは知らない。美里の犬じゃないし、そんな事に興味もない。美里は自分の部屋の鍵を開けた。ドアを開けて美里が中に入ってカニかまの残りを見せると犬がついてきた。体が完全に中に入ってから、美里はドアを閉めた。

 カーテンは閉めたままだ。犬は玄関から先の部屋の中へすがずかと入り込んだ。外も中も同じなのだろう。地面も部屋の中もテーブルの上も布団の上も自由気ままにしてきた感じがする。ふんふんと匂いを嗅いで歩く。小さな足でよちよちと歩く。そして美里を見上げて吠えた。カニかまが欲しいのか、もう外へ出たいのかは分からない。

 美里は床にレジャーマットを敷いて新聞紙を広げてから白いゴムの手袋をはめた。これは一箱に百枚入っている医療用のゴム手袋だ。その手で犬の背中をなでる。残念ながら毛皮の感触は楽しめないが小さい細い背中が温かかった。

 一週間であちこちの薬局で買い集めた体温計からとった水銀の量はそんなに多くはなかったが、小さな犬の声を奪うのには十分だった。体温計の水銀はのどをつぶすというのは本当かという昔からの疑問は本当だった。

 犬はシャーシャーというしわがれた声で吠えた。吠えながら涙を流している。大きな目に涙がたまっている事の方が驚いた。小さい体でも本能が残っているのか、美里を敵とみなし、噛みついてきた。牙をむいて、ぐーーーーと唸っている。だがそれも途切れ途切れにしか聞こえない。前足二本をセロテープでぐるぐる巻きにしてみた。すると後ろ足で立ち上がってひょこひょこと歩いた。後ろ足もぐるぐる巻きにしてやった。シャーシャーとうるさいので、口も閉じてやった。犬は横たわって涙を流すだけになった。

 失禁したので、新聞紙を変えた。

「毎日うるさく吠えてごめんなさい。もう絶対吠えませんから勘弁してください」

 と言えばいいのに。

 ペット可のアパートに住んでいながら、と思うだろうが、ペット可だからってしつけをしなくていいというわけではない。三階建て、各部屋に四戸で計十二戸、実際入居しているのは十戸だが、犬、猫、フェレット、鳥、様々な小動物が飼われている。どこもおとなしく、臭いもしない。アパートの敷地内、通路などの共有の場所では抱いて移動する。もちろん、糞、尿などは部屋の中で、散歩での糞はきちんと始末する事、との事項が決まっている。

 隣の女子大生だけがこれらをことごとく守っていないのを知るのに、一週間もかからなかった。ベランダに設置している犬のトイレは糞がてんこもり、臭いが風にのってこちらの部屋に流れてくる。もちろん散歩中の糞をそのままにして歩いて行くのを何度も見かけた。アパートの周囲をぐるぐると回るだけの散歩だから、糞、尿ともにその辺りですます。部屋の前につながれっぱなしの日は寂しいのかやたらと吠える。そんなに大きな声ではないので近所迷惑というほどではないが、隣の美里には非常にかんに障るのだ。

 もう一週間で十分だった。

「ルルがぁいないんだけどぉ」

 と女子大生の声が聞こえた。部屋の前で誰かに電話をしている様子だった。学校から戻って犬が首輪からすっぽり抜けているのに気がついたのだろう。

 犬はご主人の声を聞き分けたのだろう。

「んー」と鳴きながら、玄関のドアの方を見た。

「えー? 逃げたのかなぁ? どーしよ。まじやばい。でも、今から紹介いくんだよね」

 のんきな事を言っている。小さな臆病な犬が外の世界へ出たのに、もう少し心配してもいいのに。車にひかれるとか、誰かに連れて行かれるとか、心ない人間にいじめられるとか、心配事は山ほどあるだろうに。

 美里は大きな目から涙を流している犬の狭い額をぴんとデコピンしてやった。

「ぐうっ」と犬が鳴いた。

 女子大生は犬の失踪に大騒ぎもしなかった。

 翌朝、部屋の前で会った時も美里に犬を見なかったとか、聞きもしなかった。やはり、ふんとした態度で腰をふりふり出かけて行った。

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