第20話 警戒態勢


「……あいつが遠くへ行った気配がする。思ったより早い……意外と勘の鋭い奴だな」


 ヒルデガルトはミュンヘン上空で呟いた。


「わざわざ北の方まで観光旅行に行った甲斐があったな。すっかり騙されている。あとは私がミュンヘンに、あのアトリエに、ゾフィーの家に……痕跡を残さないよう気を付ければいいだけ」


 冬の星空のもと、高く高く昇っていく。風がびゅうびゅうと吹き抜けていく。


「簡単。ただでさえ幽霊の気配は辿りづらいんだ」


 町全体を見下ろせる高さまで上っていった。

 ミュンヘンの夜は相変わらず暗い。

 ここの高さには精霊たちもいない。

 星と雲の他には何もない。吹きすさぶ風と、凍るような寒さだけがある。


「でも、飛行機とやらはここまで上ってこられるんだよな」


 ヒルデガルトは溜息をついた。


「……よし、やろう。慎重に、それでいて早く。気づかれないように配ってしまわなければ」


 ヒルデガルトは真下の、アトリエのある一点を指さした。


「『白バラ通信』よ、来い」


 アトリエの煙突から、何百枚ものビラが入ったトランクがピョーンと飛び出してくる。……もう、こんなに重いものまで持ち上げられるようになった。


「おっと……ここまで来なくていいよ。中身が湿気でふやけてしまうから」


 ヒルデガルトの遥か足元に、トランクは漂っている。そこに念を送って、カチャリと留め金を外した。バラバラとビラが宙に解き放たれる。

 

「さあ、一晩かけた大仕事だよ。こいつらを一枚残らず、ミュンヘンの住民の家のポストに入れて行くんだ。クシャクシャにならないよう、そうっとね」


 針に糸を通すような繊細な作業だった。だが所詮はその程度。これまでに鍛錬を重ねて念力の精度を上げてきたヒルデガルトにとっては、造作もない……と言えば少し嘘になるが、頑張ればできる。


「しかし根気の要る作業だな……気を抜くと誰かに見られそうだし。こんな時間でも、ナチスの奴らがうろついている気配がするし」


 ヒルデガルトは、細心の注意を払って作業をした。これくらいはあの二人のためならお安い御用だ。それに、虐げられている人々のためなら。

 配り終えるまでには大変な時間を要した。


「やれやれ、やっと終わった」

 ヒルデガルトは伸びをした。

「さあて、どこで眠ろうかねえ。あの寝床にはもう戻れないし」

 ひとまずこんな高いところでは寂しい気持ちがするので、精霊たちのいる地上まで下りることにする。

 ススーッと垂直に下りて行くと、協力してくれた精霊たちが出迎えてくれた。


「お疲れさまでした、ヒルデガルト様」

「さぞお疲れでしょう」

「どうぞお休みになってください。私たちが良い場所を見繕っておきました」


 ヒルデガルトはやつれた笑みを浮かべた。


「お、Danke! じゃあ案内してもらおうかな」

「はい、こちらです」

 ヒルデガルトが連れて来られたのは、街外れにある一軒家だった。

「空き家か。よく見つけたな」

 ここならゾフィーたちの家やアトリエからも遠く離れていて、安心して眠れる。仮にここを見つけられても、ゾフィーたちに危険が及ぶことはないだろう。


「にしてもギュンターのやつ、並外れて勘があるな。厄介なことにならなければいいが……まあ、今のところは大丈夫か」


 ***


 ギュンターはアウクスブルクから更に汽車に乗って、ニュルンベルクに辿り着いていた。


「困りましたねえ」


 町の中をうろうろしながら、ギュンターは青息吐息だった。


「ビラが配布されたのはミュンヘンに限らないとのことですから、ひょっとしたらこういった町にも拠点があるのやもと思っていましたが……『白い貴婦人』はもう既にここを去ったあとのようだ……」


 ハウプトマルクト広場に立ち、シェーナーブルンネンの金ピカの塔を眺めながら、寒さにぶるりと震える。


「……落書きがあったのはミュンヘンですし、やはりやつらは……『白バラ』はミュンヘンにいると考えた方が良さそうですね」


 その時、おい、と声をかけられた。


「はい? 僕ですか?」


 振り返ると、がっしりした体躯のゲシュタポの人が立っていた。


「おやおやこれはこれは、ゲシュタポの方ではありませんか。僕に何の御用で?」

「貴様、先程からブツブツと独り言を言いおって、怪しいやつめ。ついて来い!」

「ええっ!?」


 ギュンターは仰天してしまった。


「僕は逮捕されるんですか? 独り言を言ったばっかりに?」

「逮捕とは言っとらん。とにかく来たまえ!」

「わ、分かりました……」


 ギュンターは車に乗せられ、何やら裁判所のような場所まで連れてこられた。小さな一室に入れられて、待たされる。


「これはまるで……」


 尋問室のようだ。

 何だろうか。ギュンターは何かまずいことをやらかしてしまっただろうか。

 そわそわしながら待っていると、先ほどとは別のゲシュタポの人が、いくつかの書類と、ギュンターの預けた身分証を持って入室してきた。

 威厳に満ちた様子で椅子を引いて、どっしりと座り、ギュンターを鋭い眼光で睨みつける。


「えー、ギュンター・ローテンベルガー。近頃ミュンヘンに越してきたそうだな?」

「はい」

「仕事を休んでわざわざニュルンベルクに?」

「観光でもしようかと」

「けしからん!」


 ゲシュタポの人は急に怒鳴った。


「この非常事態に、国家への貢献たる労働を怠けて、わざわざ汽車に乗って物見遊山とは! 貴様、帝国臣民の自覚があるのかね!?」

「ひえーっ」


 ギュンターは身を縮めた。何なんだ、このゲシュタポは。何が言いたいんだ。話し始めて早々に怒鳴るだなんて、情緒はどうなっているんだ。


「違うんです。僕は本当は仕事で来ているんです〜っ」

「言を左右するとは、いよいよ怪しい奴め。やはり気が狂っているのか……」

「や、やはりってどういうことですか!?」

「貴様が精神障害者がどうかを見定めようとしておるのだ」

「あ、あらぬ疑いをかけられている!! ちちち、違います、違います! これはミュンヘンのゲシュタポの方からのご依頼で! そうだ、ミュンヘンのウーヴェ・ミュラーというゲシュタポの人に問い合わせてください! そうしたら仔細が分かるはず!」

「何だと……? 本当だろうな」

「本当ですとも」

「我々の手をわずらわせようと適当なことを言っているのではないか? 何しろ精神障害者というのは、何をしでかすか分かったもんじゃない」

「僕は病気じゃありませんっ! とにかく問い合わせてみてください! 僕はミュラーさんから仕事の依頼を受けているんです」

「何の仕事だ」

「し、心霊術士として……」


 言いながらギュンターはしまったと思った。こんなうさんくさいことを言ったらますます疑われてしまう。そうなったら精神病院にぶちこまれる……いや、下手したら殺される。ナチスが精神障害者をガス室で抹殺したことは、もはや公然の秘密なのだ。


「しばし待ちたまえ」

「待ちます、待ちます!」


 それからおおよそ一時間くらい待たされたのち、再びゲシュタポの人間が入室してきた。


「ウーヴェ・ミュラーから確認が取れた。貴様の身元は証明された。これにて釈放する。ついてきたまえ」

「それはよかったです! 助かりました! ミュラーさんもいい仕事をしますね」

「誠実なドイツ国民を疑って済まなかったな。詫びに元いた場所まで送ってゆこう」

「いいんですか!? ではお言葉に甘えて……ミュンヘンの自宅までお送りいただきたいです!」

「なっ、ミュンヘンだと!? それはちょっと甘え過ぎだ! 送るのはハウプトマルクト広場までだ」

「何ですか、ケチですね」

「ゲシュタポに向かってケチとは何だ! いいからもっと早く歩きたまえ!」


 ハウプトマルクト広場で降ろされたギュンターは、シュンとして旅行鞄を握りしめた。


「ああ……ひどい目に遭いました。時間を無駄にしてしまった……。早く『白い貴婦人』探しを再開しなくては」


 新しい痕跡は完全にダミーだ。

 古い痕跡を辿らなければ意味が無い。


「またミュンヘンに戻るしかなさそうですね」


 ギュンターは寂しくなった財布から路銀をかき集めて、ミュンヘン行きの列車に乗った。


 古い痕跡を探す。


「大学……民家……」


 うろうろとしているギュンターをみちゆくひとが変な目で見ている。


「アトリエ……」


 ギュンターはある場所で立ち止まった。


「奴は随分と長い間、ここに留まっていたらしいな……。ここには一体何が……」


 ああ、とギュンターは嘆息した。


「ミュラーさんがいれば、このアトリエに押し入ることができたというのに。全く、堪え性のない方たちですねえ……」


 ギュンターはポケットに手を入れた。


「僕も報酬がもらえないと困るんですけどねえ」

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