第4章 戦いの時

第21話 舞い散る

 ***


 飛び交う野次。

 不安そうに見ている人々。

 剣を振り上げる衛兵の姿。


 ──安心しろ。うちの騎士の中でも腕利きの者を呼んできた。

 ──楽に死ねるぞ。坊ちゃんの慈悲に感謝するんだな。


(何が慈悲だ。私を見捨てるくせに。私を殺すくせに! ちくしょう、ちくしょう! 呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる……!!)


 ***


「──……あ?」


 ヒルデガルトは目を覚ました。

 何だか凄く嫌な、妙ちりんな、それでいてリアルな夢を見ていた気がする。

 精霊たちが心配して寄ってくる。


「どうされましたか、ヒルデガルト様」

「うなされておられましたが」

「あー、うん」


 ヒルデガルトは寝癖を整えた。


「夢見が悪かっただけ。大したことないよ」

「それはそれは、おいたわしや」

「大したことじゃないってば」


 力を回復させるために充分に眠れたから、むしろ体は元気だ。そこでヒルデガルトは、またぞろミュンヘン市内をふらふらと漂い始めた。

 ミュンヘン以外の都市も見てみたい気がしていたが、それは何も今じゃなくてもいい。ゾフィーたちの活動が軌道に乗り始めたら、きっとナチスへの反対運動はドイツ全土に広がって行くだろう。旅をするのはそれからでいい。今は仲間が心配だから、ついていてやりたい。


 夜になってヒルデガルトは、ゾフィーとハンスの家にちょっとだけ寄ることにした。なるべく気配を残さないように用心しつつ、屋根から侵入する。


 二人はちょうどかえってきたところだった。

 ゾフィーが重たそうなトランクを手に持っている。


「よっ」

「うわっ」

「キャッ」


 ヒルデガルトはいつものように挨拶し、二人はいつものように驚いてくれた。


「それはなあに?」


 ヒルデガルトはトランクを指さした。ゾフィーは小声で答えた。


「これは新しいビラ。明日、大学に撒くの」

「大学に? 学生に見てもらうのか?」

「そうだ。これは重要な作戦だよ。若い力こそが今の時代には必要だからな。同じ学生なら共感もしてもらいやすいだろう」

「中身、読んでもいい?」

「いいわよ。扱いに気を付けてね」

「了解」


 ゾフィーはトランクの蓋を開けてくれた。ヒルデガルトは一枚だけ取り出して、目を通した。字を読むのにも、随分と慣れてきた。

 ビラにはこう書いてあった。


「学友の諸君へ!


 我々国民は、スターリングラードでの敗北に動揺している。愚かな戦術が、三十三万人の同胞を死に追いやった。総統よ、あなたに感謝します、とドイツ国民は叫んでいる。我々はこの先も、国軍の運命を、この素人の手に委ねるのだろうか? ナチス党内の一部の卑しい権力欲のために、ドイツの残された若者たちを犠牲にすることを望むだろうか? 決してそんなことはない! 決着をつけるべき日は来たのである。


 ドイツ青年の名において、我々はアドルフ・ヒトラーの国家に、人格の自由を――ドイツ人にとって最も尊いこの財宝を、返却するように要請する。我々は哀れにも、ヒトラーの欺瞞により、それを失ったのだ。


 我々は、あらゆる種類の意見発表を禁ずるような国家の中で育った。ヒトラー・ユーゲントや突撃隊や親衛隊は、教養の最も実りあるべき年齢の時期に、我々の生命を束縛した。


 ……


 我々にとっての合言葉は、ただ一つ。ナチスと戦うこと! 我々をなお黙らせようと試みる、この党組織から、離脱せよ! ……我々の関心事は、本当の学問、そして純粋な良心の自由である。いかなる脅しも我々を怖がらせはしない。たとえ大学が閉鎖されたとしても。我々各個人の戦いには、我々の未来と自由と名誉がかかっているからだ。


 自由と名誉! ……ヒトラーはこれらを踏みにじった。もしドイツの青年が、立ち上がり、復讐と贖罪を同時に果たし、加害者の責任を追及し、新しいヨーロッパを作ることに尽力しないのなら、ドイツの名は永遠に恥辱として残るだろう。学生諸君! ドイツ民族の期待は我々にかかっている! ドイツ国民は我々に、ナチスの恐怖を精神力によって打破することを期待しているのだ。


 ……


 いざ進め、我が民族よ。

 我が民族は、国家社会主義によるヨーロッパの蹂躙に抗って、進軍を開始する。

 自由と名誉の新しい信念をもって。」


 読み終えたヒルデガルトは、すっかり感心してしまった。


「なかなか勇壮なビラじゃないか。またあの印刷機でコツコツ刷ってきたのか?」

「ああ、そうだ」

「今が正念場だもの」

「よくやるなあ。くれぐれも気をつけろよ」


 それから声を潜めた。


「私は長くはここにいられない。気配を残さないように気をつけているけど、それも完璧じゃないから。作戦の時間だけ教えてよ。その時間に大学で待っているから」

「ありがとう」

 

 まず、ゾフィーがトランクを部屋まで運んだ。

 それから三人はゾフィーの部屋の前で、ごくごく小さな声で作戦会議を行なった。

 ビラを置くのはゾフィーとハンス二人の仕事だという。


 ヒルデガルトは自分がやることが分かってしまうと、またしても飽きてしまい、家の中をウロチョロしはじめた。


 それから、話し合いを終えてハンスと別れたゾフィーに向かって、唐突に話しかけた。


「いい婚約者みたいだな。フリッツ・ハルトナーゲルってのは」

「え?」

「どんな奴? いい奴か?」

「ちょっと」


 ゾフィーは険しい顔をした。


「勝手に手紙を見たの? プライベートなものは見ないでって、前にも言ったでしょう!」

「あ……ああ、ごめん」


 ヒルデガルトは素直に謝罪した。


「幽霊やってると、何でもかんでも覗き見できちゃうから、感覚が鈍るんだよな。悪気はないんだ。ごめんな」

「……もうしないでよね」

「しない、しない。しかし、いいよな、婚約者かあ」


 そう言いながらも何か少し胸に刺さるものがあって、ヒルデガルトは内心疑問に思った。



「私は誰とも結婚したことがないから分からんけど、いいな、そういうのって。恋人がずっと想ってくれているのって」

「あなた未婚なの、ヒルデ?」

「多分そうだよ。よく覚えてないけどね」

「そんな華奢で綺麗なドレスを着ているから、結婚式でも出たのかと思ったわ」

「んー、これ、何だろうな」


 ヒルデガルトはドレスをつまみ上げた。


「気づいたらこの衣装だったんだよなー。何でだろうな? 死人なら死装束でもおかしくないのにな」

「まあ。好きなものを着ればいいと思うわよ」

「そうはいかないんだ。私は何故かこれから着替えられないんだよ」

「あら……そうなのね」

「これはこれで気に入っているけどな! ひらひらして楽しいし」

「なら、良かったわ」


 その時、ヒルデガルトははっと窓の外を見た。


「……ごめん、そろそろお暇しないと、気配が残ってしまう。勝手に手紙を見てごめん。じゃあね」

「分かったわ。それじゃあまた明日ね」

「うん、また明日」


 ヒルデガルトは窓をすり抜けて、冬の星空を目指して飛び出していった。


 ***


 さて、作戦決行の朝である。

 朝の講義が終わる直前に、ビラを大学じゅうに置いていく計画だ。


 ゾフィーとハンスとヒルデガルトはせっせと仕事をする。


 やがてもうすぐ講義が終わる近くになった。その前になるべく多くのビラをこの建物の各所に設置したい。


 ところが、少し遅かった。わらわらと学生たちが玄関ホールに集まってきてしまった。


 ゾフィーが、余った数十枚のビラを見て、どうしよう、というように目を泳がせた。

 ヒルデガルトは腰に手を当てた。


「任せなさい」


 ヒルデガルトは残りのビラをゾフィーの手から取り上げると、兄妹のいる二階から三階へと移動した。そしてその廊下から、玄関ホールにいる学生たちの頭上に向かって、ビラを全部ばら撒いた。


 ひらひらと花びらのように舞い散る白いビラ。


 学生たちは何だ何だと紙を拾い上げ、中身を読んだ。


「うお!?」

「あ、白バラ通信……」

「新しいやつだ」

「す……すごい!」

「何だこれは、けしからんビラだな!」


 学生たちはさまざまな反応を見せた。ゾフィーとハンスは後からそも学生たちに混じって、何も知らないふりで、不思議そうに辺りを見回した。堂々たる虚偽である。ヒルデガルトはおかしくて、にやっと笑った。


 だがその笑みは瞬時に凍りついた。


 制服の男がハンスの手を掴んだのだ。


「お前!」

「……はい?」

 ハンスは笑顔を貼り付けたまま振り返った。

「お前もだ、鞄を持った女子!」

「私ですか?」

 ゾフィーもハンスとそっくりな笑顔で振り返った。

「僕たちに何の用でしょう?」

 ハンスが尋ねる。警備員の男は目を剥いて怒鳴った。


「今、ビラを落としたのは、お前たちだろう!!」


 キィンと耳が痛くなるような沈黙がその場を支配する。


「……違いますけど?」


 ハンスが、さも意味不明だと言うように返した。


「では何故お前は、そのような大きな鞄を持っている」

「これは荷物を入れるためのものです」


 ゾフィーも淀みなく応答する。あらかじめ考えてあった言い訳なのだろうか。

 警備員はトランクをゾフィーの手からむしりとり、乱暴に揺さぶると、留め金を外して中を確認した。


「空っぽではないか! ここにビラが入っていたのではないのかね?」

「ですから、これから荷物を入れるんです。実家に服を取りに行くために、空っぽにしているのです」

「な、何だと……? 疑わしいな」

「そう言われましても」

「妹は何もしていませんよ。もちろん僕も」

「嘘をつくな」

「ついてませんって。僕は見ました。僕たちの頭上からビラが降ってくるのを」

「何だと?」

「ここにいるみんなが見たはずです。ビラは三階から撒かれました。そして僕たちは二階にいました。つまり、僕らはビラに触っていないんです」

「……」

「……」

「し、しかし、一番ビラに近い位置にいたのがお前たちだ。何か知っているに決まっている。ついてきなさい」

「喜んで。僕たちで帝国のお役に立てるのならば」

 ハンスは堂々と言ってみせた。

 そうして二人は警備員の男についていった。

 ヒルデガルトは二人の後姿を見送りながら、胸騒ぎを覚えていた。

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