第18話 離れた場所で

 この日、ヒルデガルトはアイケマイヤーのアトリエに行くのを遠慮した。


 久々にゾフィーたちと別行動を取る。


 ミュンヘンの観光名所をひとしきり巡った後、先日延期したアウクスブルク行きを決行した。


 本当は遠くへ逃げてしまった方が安全なのだが、ヒルデガルトは今日も「白バラ」の作戦に協力することになっている。夜には戻らなくては、学生たちが困ってしまうだろう。


 あの恐るべきダッハウ上空を通り過ぎて、アウクスブルクに到着する。全力で飛んだから、ものの三十分で着いてしまった。

 教会のステンドグラスや、ルネサンス期の泉であるプラハトブルンネンや、新しく作られたらしい動物園などをざっと見物する。


「ミュンヘンのヘラブルク動物園といい、人間のやることは面白いな」

 ヒルデガルトは、自分ももとは人間であったことを棚に上げて、そう呟いた。

「動物を集めて檻に入れるだけじゃ飽き足らず、人間まで集めて収容所に入れてしまうのだから、洒落にならないが」


 昼過ぎになったあたりでヒルデガルトはアウクスブルクから北上した。街道沿いには汽車のレールが敷いてあった。高笑いを上げて汽車と競走しながら、一時間ほどで、ニュルンベルクに辿り着く。ニュルンベルクはバイエルン地方ではミュンヘンに次ぐ規模である都市で、古くから職人の町として栄えていた場所だ。

 赤い屋根の家々が見下ろせる。ここも近代化やら工業化やらが随分と進んでいるようだが、場所によっては中世の面影が見て取れる。

「懐かしいなあ」

 ヒルデガルトはまたしても広場や教会や城などを見て回った。気配を普段より濃く残すように、ねちっこく観光名所の数々を睨みつける。


 夕方になってから、ヒルデガルトは二時間ほどかけて南下し、ミュンヘンまで戻ってきた。今度は気配を残さないようにあちこちをぶらつきながらも、大学のメインホールあたりに滞在してゾフィーたちを探す。

 ……「白バラ」がミュンヘン大学の関係者であることは、敵方にもほぼ割れているだろうから、大学近辺にいることは問題にならないはずだった。むしろ、大学とは人がたくさん出入りしている場所だから、気配を紛れさせるのには便利だった。


 なかなかショル兄妹が見つからないので、ヒルデガルトは戯れに、そこらをうろつくナチス党員のバッジを外してやった。ひとりでにバッジが外れたと思った男たちは、滑稽なほどに大慌てして、地面にへばりつき、必死でバッジを探す。日も暮れてきて影も長くなり、小さなバッジはなかなか見つからない。半狂乱で這いつくばる男の様子を見て、ヒルデガルトは爆笑していた。


 三人ほどナチスの仲間をからかってやった後だった。

 メインホールの出口あたりで、ヒルデガルトはゾフィーとハンスを見つけた。二人はひそひそと何か話していた。


「今日はヒルデガルトを見ないな。最近ずっと僕たちについて回っていたというのに」

「そうね。飽きちゃったのかしら?」

「ヒルデも気まぐれそうなところがあったからな。気まぐれすぎて、向こうの味方になったりしないか心配だ」

「まさか、そんなことはしないわよ」

「……でも、あいつが俺たちに協力するメリットって何だ? ヒルデは『面白そう』としか言っていないじゃないか。僕たちみたいに、命や生活がかかっているわけでもない。面白半分であちらに寝返るかもしれない」

「……ヒルデのことは……」

「いいかい、僕はお前が心配なんだよ。僕がこんな活動を始めたせいで、お前にまで疑いがかかるようなことがあったら、病気の母さんになんと言ったらいいか……。僕はゾフィーを道連れになんか絶対にしたくないんだ」

「ちょっと、それはハンスの責任じゃないわよ」


 ゾフィーは怒ったように言った。

 

「これは、私自身が、私の責任において、私のために実行していることだわ。そこのところ、勘違いしないでよね」

「それは、そうかもしれないが」

「それに、ヒルデが裏切るつもりでも、彼女のことを見たり、彼女の声を聞くことができる人間なんてあまりいないって……」

「そんなことしない。裏切ったりしないから、大丈夫だよ」


 ヒルデガルトはいきなり二人の前に躍り出た。


「わっ!?」

「キャッ!?」

「うん、いい驚き方だ」


 ヒルデガルトは満足した。


「私は別に裏切ったりしないから、安心してくれよな!」

「ええと、ヒルデ、今の話を聞いていたのか」

「うん。聞いてたよ」


 ヒルデガルトは悪びれもせずに頷いた。


「そんでさ、逆に、私があんな偉そうな奴らに協力するメリットって何だ? あんたらみたいに命や生活がかかっているわけじゃないのに、あんな理不尽な暴力野郎どもに従う必要なんてなくないか」

「……」

「それに私は、あなたたちのこと結構気に入ってるんだよ。優しいし、勇気があるし、自由ってもんを分かってる。私のことを追い出したり傷つけたりしないし」


 そう言って、ニカッと笑う。


「あなたたちはいいやつだよ。これからも仲良くしたいんだ、本当はね。ただね……そうはいかない理由ができてしまった」


 ヒルデガルトは目を伏せた。


「ちょっと厄介なことになっていてね。私の天敵に、私の居場所がばれてしまったんだ」

「天敵……」

「心霊術士ってやつ。私のことを封印できる技を習得していやがるんだ。しかもあいつ、ナチスの協力者なんだってさ」

「……!」

「だから私は、あなたたちのことがあいつにばれないように、ちょっと離れて行動する必要ができたってわけ。何も言わずにいなくなって悪かったけど、私にも色々事情があるんだ」

「まあ」


 ゾフィーとハンスは、よく分かっていない様子だった。


「何だか複雑なようだが、つまり、ヒルデはその天敵とやらから、僕たちを守ろうとしてくれているっていうことだな」

「そう。そゆこと」

「そうか。疑って悪かった」


 ハンスは素直に謝った。ヒルデガルトはひらひらと手を振った。


「気にしてないから、いいよ。それに大丈夫、今夜の作戦にも参加できる見込みだから」

「おや、そいつはありがたい」

「ふふん」


 ヒルデガルトは慈しみを込めて二人を見下ろした。


「いつもってわけじゃないけど、私はあなたたちを見てるよ。ゾフィーとハンスが助けて欲しい時には、駆けつけて協力してあげよう」


 そうしてこの日もヒルデガルトは約束通りに落書きに努めた。


「自由ばんざい」

「自由ばんざい」

「自由ばんざい」

「ヒトラーを倒せ!」

「ヒトラーを倒せ!」

「ヒトラーを倒せ!」


「ヒッヒッヒ」


 べったりついたペンキを見て、ヒルデガルトは笑った。


「案外、こういう地味な嫌がらせも楽しいかもな」

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