第16話 配達業務

 会合が終わって、ヒルデガルトはゾフィーとハンスとともに家までくっついていった。


「少しずつでも構わないのなら、私が郵便受けに直接そのビラを入れるよ」


 ヒルデガルトは、ハンスが大事そうに抱えている、ビラの入ったカバンを指さして言った。


「私も、ものをこんなに持ち上げられるようになったし」


 ヒルデガルトはゾフィーの鞄を取り上げてみせた。教科書が何冊か入っているはずのそれは、軽々と空中を浮遊した。

 ゾフィーは慌てた。


「ちょ、誰かに見られたらまずいでしょう。返して」

「悪い悪い」


 ヒルデガルトは手をヒョイッと振って、ゾフィーの手に鞄を戻した。


「でも、分かったろ? 私がやった方が安全だ。私には時間がたっぷりあるし。それに、切手代も無くて済むでしょ」

「確かに」


 ハンスは考え込んだ。


「郵便局で切手を大量に買っては怪しまれる。ヒルデがやってくれた方がいいか……」

「ね、やらせてやらせて」

「……うん、分かった。じゃあよろしく頼むよ」

「やったね」


 そんなこんなで喋っているうちに、二人は家に着いた。

 家の前には何か箱が置かれていた。


「あ、荷物が」


 ゾフィーが屈み込んで中身を確認する。


「母さんか?」

「そうみたい。また、食べ物を送ってくれたのかしら」


 ゾフィーはヒルデガルトを見上げた。


「母さんがいつも田舎のウルムから食料を送ってきてくれるの」

「へぇ」

「ありがたいわ。母さんは体の調子が悪いのに、私たちのことを心配してくれているのよね」

「運ぶの手伝おうか」

「あ、ありがとう」


 ヒルデはハンスが持ち上げた荷物に念を送って、軽くしてやった。

 そのまま一緒に家の中に入る。

 荷物には、リンゴ、バター、ジャム、ドーナツ、ビスケットなどが入っていた。


「こんなに! 今はドイツも食糧危機なのに」

「ありがたい限りだね。……ビラ配りが上手く言ったら、みんなを呼んで一緒に食べようか」


 ヒルデガルトは少し寂しい顔をしたが、すぐに何でもないふりをした。

 食べたいとか飲みたいとか、そういう欲は消え去ってから久しい。それ自体はちっとも構わないのだが、友人たちとテーブルを囲んでわいわい食事をする楽しさが失われたのは、少し悲しい。


「じゃあ、私はこれで。失礼するよ」


 ヒルデガルトは壁からスウッと退散しかけた。まだヒルデガルトが壁の中にいるうちに「そういえば」とハンスがゾフィーに問いかけた。


「恋人とはどうなんだ、ゾフィー」

「何っ!?」


 ヒルデガルトは色めき立って、動きを止めた。

 恋人だと!?

 聞いていないぞ。


「うまくいってるわ。手紙のやりとりも続いているし」

「へえ、なんて?」

「み、見せないわよ。まあ、無事に帰ってきてくれることを祈るばかりね」


 ヒルデガルトはにょきっと壁から顔を出した。


「ゾフィー、恋人いるの?」

「きゃあっ!?」


 ゾフィーは口元を押さえた。


「き、聞いてたの!?」

「聞こえちゃったんだよ。ねえねえ、どんな人?」

「い、良い人よ。とっても優しいの。戦地にいるのに、私のことをいつも心配してくれて」

「いい恋人だね」

「恋人って言うか、婚約者よ」

「婚約者!! わあ、いいなあ!!」


 ヒルデガルトは顔を輝かせた。


「素敵な結婚になることを祈っているよ!」

「ありがとう」


 ゾフィーは微笑んだ。

 柔らかい、幸せそうな微笑みだった。


 普通の学生なんだ、とヒルデガルトは思った。

 ごくごく普通の学生のはずだった。


 それなのに、自由のために立ち上がる。

 それがどれほど勇気のいることなのか。


 やはりこの二人に最初に会ったのは運命だ。

 勇敢な市民は好きだ。そんなヒルデガルトと、魂の波長が合ったのに違いない。


 彼らのような普通の人間が、命を駆けなくても、穏やかに暮らせるような自由を求めて、ヒルデガルトも頑張らねばならない。いや、そうしたい。


 ヒルデガルトは小さく笑った。


 出会ってからまだ少しの日数しか経っていないのに、ヒルデガルトのゾフィーとハンスへの思い入れは、随分と強くなっていた。

 二人の命の輝きがまぶしい。

 この光を守ってやりたい。


 二人に関われば関わるほど、そんな思いが強くなるのだ。


「じゃ、二人とも、気をつけて」

「うん。ヒルデも」

「私?」


 ヒルデガルトはびっくりしてゾフィーを見た。


「私は大丈夫だよ。誰にも見えないし」

「でも、敵がいるって、前に言っていたでしょう」

「言ったっけ」

「だから、ヒルデも色々と大変なのかと思って」

「……」


 ヒルデガルトはちょっと感動していた。

 これまで、幽霊の自分を気遣ってくれる人間などほとんどいなかったのだ。

 それを思うと胸がいっぱいになるような心持ちすらする。


「……ありがとう」


 ヒルデガルトは謝意を述べた。


「ありがとう。私も気をつけるよ」


***


 ミュンヘン市内にビラをまく日がやってきた。


 今度は見つからないように慎重にビラを運ばなくては。

 暗い夜、白い紙は目立つ。物陰に隠して、ひっそりと移動させなくては。


 ――と思っていたら、町に空襲警報が鳴った。

 ヒルデガルトはびくっとして耳を塞いだ。


 町の人々が大急ぎで避難していく。


「ああ、これは好機だな」


 ヒルデガルトはニヤっと笑った。


「誰にも見つかる心配がなくなった。堂々とビラの束を運べるぞ」


 ヒルデガルトは、ハンスの部屋から無事にビラの束を持ち出すと、地下室に逃げていく兄妹に「気を付けてね」と声をかけてから、空高く舞い上がった。

 周囲に誰もいないことを確認すると、ビラに念力を送った。


「さっさと済ませた方が、危険は少ないに決まっている。それっ!」


 ビラはふわりと舞い上がり、各家の郵便受けに次々と身を投げた。これで、何十件もの家に一気に配ることができる。


「こっちの方が楽しいし、これでやろう」


 もちろん、見られてしまう可能性は充分にある。周囲の警戒を怠らずにやっていこう。


「無闇に外に出る奴はいないはずだけどね」


 それでも、何だか嫌な予感がするのだ。天敵である心霊術士の気配が、いよいよ近づいて来ている気がしてならない。今まで以上に慎重に行動しなければならないだろう。


 ヒルデガルトはミュンヘンじゅうを飛び回って、次々と魔法のようにビラを投函していった。ストン、ストン、ストン、ストン。


「大学から遠い場所にも配らないと。足がつきにくくなるだろうし。どこへ行こうかな……南の方から回ってみるか」


 空襲を待ち構えて緊張感の漂っている町の空を、ヒルデガルトは快速で飛行した。家々にビラを放り込みながら。


「ミュンヘン全域をくまなく回るのは骨が折れるな。一軒ずつでなくてもいいから、なるべくまんべんなく配ろう。そーれ、っと」


 明かりの灯らない町の空を、紙の束がひらひらと舞う。ヒルデガルトのドレスもひらひらとはためく。


「……これで、ミュンヘンの人たちが、勇気をもらえるといいのだがねえ」


 ヒルデガルトは歌うように言った。


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