第3章 迫る危機
第15話 新しいビラ
魂の声を聞いている。
死にゆく者の声を。
声が大きい者もいれば小さな者もおり、近くからも遠くからも聞こえて来る。様々な言語で。
「あーあ、俺、死んじゃうのか」
「いい人生だった」
「嫌だ、まだ死にたくないたのに」
「痛いよう。戦争でやられたよう」
「お母さん、ごめんなさい」
「ひどいよ。苦しいよ」
「ああ、やっと死ねるんだ……ありがとう……」
そんな、切なくなるような、寂しくなるような、たくさんの声。
精霊たちはその声を聞かないという。遥か昔に会った幽霊仲間は聞いたことがあるという。心霊術士の血筋の者も、聞くことがあるらしい。
何故なのだろうか。死者と幽霊が、非常に近しい存在だからだろうか。幽霊も、もともとは人間だからだろうか。
ヒルデガルトは自分が人間であった時の記憶が曖昧だ。何か、かなわぬ恋をしていた気がする。身分違いの恋とやらを……。それで、何故死んだのだったか。こんな、若い姿で。
――記憶の奥底で、赤子の泣き声が聞こえる。
何故かヒルデガルトは、その赤子に会ってみたいのに、同時に、とても忌まわしい気持ちがしてしまうのだ。
あの赤子は誰? 他人の子? それとも私の子?
大昔のことだ。何も思い出せない。
……思い出したくないのかもしれない。
***
落書きの大成功で、「白バラ」は勢いづいていた。
いつもの場所に集まって、みな笑顔で話し合っている。
いつもの場所というのはアトリエのことだ。
マンフレード・アイケマイヤーという建築家が「白バラ」に協力していて、彼が国外にいる間、アトリエを貸してくれているのだ。
ヒルデガルトも連れてきてもらっている。
「白バラ」のメンバーは新しくビラを作ることにしたらしかった。
アトリエに詰めかけて、印刷機でひたすらに刷る。
印刷にはアレックスやヴィリー、それにクリストフという男子学生も協力してくれた。代わる代わる、印刷機の前に立って作業をする。
「この頃の印刷機は進歩しているのですよ」
精霊たちが教えてくれる。
「原稿の形に穴をあけたシートをこの筒に設置して、こっち側には紙を設置して……あとはこの手回し機でくるくる回すんです。すると、ほら、どんどんインクが刷られていく」
「おおお……!」
シャッ、シャッ、と、綺麗に印字されたビラが次々に重なって行く。こんなに小さな機械でよくもここまで質の高い印刷物を作れるものだ。ヒルデガルトは感心した。
「しかし、回すだけとはいえ、根気のいる作業だなあ」
「白バラ」のメンバーは交代で印刷機を回していく。ハンス、ゾフィー、アレックス、ヴィリー、クリストフ、フーバー教授、それにゾフィーの友達のギゼラも見に来てくれていて、印刷を手伝ってくれた。
ヒルデガルトにはできることはないので、ふわふわと浮遊しながらアトリエを見て回る。
出来上がっていく印刷物にはこんなことが書かれている。
「全ドイツ人に訴える!
戦争は確実に終末に向かっている。東部戦線では前線が後退し、西部戦線では敵軍が侵入しようとしている。アメリカの軍備はいまだ整っていないにも関わらず、史上最大のものになっている。ヒトラーは確実に、ドイツ民族を破滅へと導くだろう。ヒトラーは戦争には勝てない。
……
しかしドイツ国民は何をしているだろうか? ただ知らんぷりをしている。盲目的に指導者に従い、破滅への道を急いでいる。全てを犠牲にして勝利を、と指導者たちは言い、最後の一兵まで戦いをやめぬ、とヒトラーは叫ぶが、戦争には既に敗北しているのだ。
ドイツ人よ! ……我々は永遠に、世界の嫌われ者、かつ除け者の民族であるべきなのか? 否! であれば、この国家社会主義の非人道性を捨てなければならない! 諸君の考えがナチスと異なるのだということを、行動を以てして証明するのだ!
……
ナチスの宣伝を信じるな。国家社会主義の勝利によってドイツが救済される、などと信じることはやめよう。犯罪的な行為によってドイツが勝利することは、ありえない。まだ間に合ううちに、国家社会主義を捨てるのだ。そうでない者は、いずれ裁かれることになるだろう。
……
この破綻した戦争から、我々はどんな教訓を得られるだろうか。
帝国主義的権力思想は、今後永遠に現れてはならない。
軍国主義は、二度と再び権力を握ってはならない。
ヨーロッパ諸民族が協力し合わなければ、新しい時代は作れない。
独裁的で中央集権的な暴力は、いかなるものであっても、即座に潰さなければならない。未来のドイツは、健全な地方分権の、連邦制であるべきだ。
……
言論の自由、信教の自由、そして犯罪的な暴力国家の思惑から市民を守ること。これが新しいヨーロッパの基本である。
諸君、抵抗運動を支持せよ。そしてこのビラを広めよ。」
「ふーん」
ヒルデガルトにはちょっと難しい内容だったが、熱意は伝わってくる。
「しかし、ハンスにアレックス、それにヴィリーも。あの落書きは感心しないね」
クリストフは印刷機を回しながら文句を言った。
「無謀極まりないと僕は思うね。わざわざあんなことをしなくても良かったのではないかい?」
ハンスはややムッとした顔をした。
「そういう君だってビラ作りをやっているじゃないか!」
「それとこれは別だよ。これは効果があるし、いくらか安全だと思っているから、積極的にやっているのさ。落書きは、やっているところを誰かに見られたら、それでおしまいだろう? それに優雅じゃないね。危ないことはよすべきだ」
「忠告どうも。頭には入れておくよ」
「やれやれ。ちっとも反省していない様子だね!」
クリストフは困り顔で首を振った。
「もしかして、また落書きを計画しているのではあるまいな?」
「……」
「よした方がいいと強く言っておくよ。活動はビラ配りにとどめるべきさ」
「……君に迷惑はかけないようにするよ。君には奥さんも子どももいることだしね」
「やれやれ……」
やがて、大量のビラの束が完成した。
「できたわ」
ギゼラが紙束を掲げた。
「これをミュンヘン市内に郵送する」
ハンスは言った。
「決行日は明日、十四日。切手の手配は僕がやろう。封筒に入れてポストに投函するんだ。もちろん、色んな場所に分けて入れるんだぞ。足がつかないようにな」
「白バラ」メンバーは決意を込めて頷く。
「これで、ミュンヘン市民が立ち上がることを期待しよう。そしてその動きが全国に飛び火して、大きな力になることを期待しようじゃないか」
みな、真剣な表情だった。
危険を冒しているのは重々分かっているのだ。
これを印刷した犯人が見つかったらただでは済まない。それでもやるのだという固い決意が、みなの中にはある。
フーバー教授はいくらか厳しい顔で、後ろから学生たちを見ていた。
「みな、くれぐれも命を大切にするように」
フーバー教授は言った。
「気をつけなさい」
はい、と学生たちは小声で、しかし力強く返答をした。
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