第12話 自由ばんざい
ミュンヘン大学まで戻ってきたヒルデガルトは、ゾフィーの姿を探した。事前に聞いていた教室まで行くと、ちょうどゾフィーは生物学の講義の聴講を終えて、教室を出るところだった。
「よっ」
ヒルデガルトは手を振った。ゾフィーは目線でそれに応えた。
ゾフィーは吹き抜けのメインホールでハンスと合流して、大学の外に出た。
今日は新しい落書きの作戦を立てるのだと、ヒルデガルトは事前に聞いてきた。
作戦には他の仲間も参加してくれることになっていた。アレックスとヴィリーという、いずれもミュンヘン大学の男子学生だ。アレックスは、ハンスと共に「白バラ」を立ち上げた一人だという。
「あいつらにヒルデは見えるかな?」
ハンスは悩まし気に言った。
「見えない確率が高いと思うよ。私はいないつもりで話を進めた方がいいでしょうね」
「そうか」
「ねえ、ヒルデは念力の方はどうなの? ペンキを動かせるようになったのかしら?」
「任せなさい。バッチリよ」
ヒルデガルトはふんぞり返った。
「これで、落書き作戦は楽勝」
「そいつはいいな」
ハンスは小声で言い、三人は密かに笑い合った。
短期間で、三人は随分と打ち解けていた。
危険な秘密を共有する者同士というのは、得てして親しくなりやすい。
ゾフィーとハンスはしばらく路地を行き、とある薄汚れたアトリエのような場所に辿り着いた。用心深く周囲を見渡してから、その薄暗い建物に杯っていく。
「建築家のアイケマイヤーさんのアトリエを貸していただいているんだよ」
ハンスが説明してくれる。
そこには既に、二人の男子学生が出そろっていた。
「やあ、ハンス、ゾフィー」
「おう。アレックス、ヴィリー。元気か?」
「おう、元気だぜ!」
「まあまあだよお」
アレックスとヴィリーが答えた。
「今日のメンバーはこれで揃ったな。じゃあ、作戦会議を始めようじゃないか」
ハンスは言い、話し合いが始まった。
「夜、町中に、目立たないようにペンキのバケツを置いてくるだけでいい」
ハンスは「白バラ」創始者なだけあって、会の進行をしっかりと担っていた。
「そうしたら後は僕が落書きをしてくるよ」
「おいお前、何を言ってるんだ?」
アレックスは険しい顔をした。
「お前ひとりに危険な役目を任せられるかよ! 馬鹿なこと言うなよな」
ハンスは爽やかに笑った。
「そんなことないさ。ペンキを買いに行くのだってリスキーだろ。それを君たちにお願いする分、落書き自体は僕がやるって言っているんだよ」
「天下のミュンヘン大学生にしては随分な詭弁だねえ」
ヴィリーが指摘する。
「リスクが大きいのは落書き実行犯その人じゃないか。結局、お前のリスクが一番高いってことになるよ?」
「みんなでやることにしようぜ! 手分けしたほうが、より広範囲に落書きできるってもんだろ?」
アレックスは言った。
「そうこなくっちゃねえ。僕たちはペンキを買うし、落書きも担当するよ」
ヴィリーも賛成している。
ハンスは溜息をついた。
「分かった。君たちの意志を尊重しよう。みんなでやろうじゃないか。だがそれじゃあ僕の気が済まない。買い物を任せるぶん、なるべく僕の担当地区を増やしてくれ」
「しょうがねえなあ」
「……待って」
ゾフィーが口を挟んだ。
「それ、私もやるってことでいいのよね?」
男子三人はきょとんとした。
「馬鹿言え。女の子に危険な真似はさせねぇよ。なあハンス?」
「そうだ。そこまで妹を巻き込むほど愚かじゃないぞ、僕は」
「でも、私だって戦いたいわ」
「気持ちはありがたいんだけどねえ」
「だったら私も参加させて」
「駄目だ、ゾフィー」
「でも、ハンス!」
「これは僕たちの矜持にかかわることなんだよ。……だがお前の気持ちも汲んでやりたい。そこでだ」
「何かしら」
「僕の担当地区は広い。より多くのペンキが必要だ。そこで、お前に一缶運んでもらおうと思う。……それならいいだろう?」
ゾフィーは不満そうだったが、渋々頷いた。
その後、担当地区決めが進行していく。
「ハンス、いくらなんでも大学構内全域を一人でやるのは……」
「大丈夫だよ。コツも掴めてきたしね」
そう言ってヒルデガルトにウインクを送る。
ヒルデガルトは「ヒヒッ」と笑った。
「いいぞ。そのバカみたいに広い範囲の落書きを、私がやるってことだな。楽勝楽勝」
こうして、第二回落書き作戦の計画が練られていった。
やがて、コンコンとドアを叩く音がした。
ハンスがドアを開けると、五十代くらいの男性がアトリエに入室してきた。
「どうかね。計画は」
彼は言った。
「あれ? どっかで見た顔だな」
ヒルデガルトはずいっとその男の前にまで踏み出した。
教授、と「白バラ」のメンバーたちが挨拶をする。それでヒルデガルトにも分かった。
「分かった。あんた、フーバー教授だ。哲学の時の」
ヒルデガルトはフーバー教授の周りをぐるぐる回った。
「あなたも白バラ運動に参加してるの? へえー! ふうーん! そいつは心強いな! 若者だけじゃあ危なっかしいもんな。ま、私からしたらあなたも充分に若造だけどな。ヒヒッ」
アレックスが進み出て、紙を渡した。
「教授ッ! 次の計画はこうです」
「ふむふむ。……ハンス・ショル君の負担が大きいようだが」
「彼にはゾフィーが協力します」
「……ふむ。よいでしょう。では、この計画書は燃やしてしまって大丈夫ですね?」
「はい」
紙は丸められて、暖炉に放り込まれた。各々がやることはしっかりと頭の中に叩き込まれていた。作戦はきっとうまくいく。
***
──三日後。二月八日、土曜日。
ヒルデガルトは、ハンスとゾフィーが密かに運んでいたペンキのバケツから、ひとすくいのペンキを浮かせて、壁にべちゃべちゃと叩きつける遊びをやっていた。
「自由ばんざい」
「自由ばんざい」
「自由ばんざい」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
「あっはっはっはっはっはっはっは!!」
ヒルデガルトは高笑いしながら、ペンキを運んでは壁に文字を残していく。
何度でも、バケツからペンキをすくい上げて、運んで、壁に撒き散らす。
何度目かのペンキ運びの時、ヒルデガルトは人の気配を察知した。
「あ、やべっ」
あまり騒ぎを起こすのは得策ではない。白い物体がふよふよと浮いているのを見られたら不審がられてしまう。そうしてヒルデガルトの存在がポルターガイスト事件として世間に知れ渡ってしまえば、宿敵の心霊術士に居場所を嗅ぎつけられてしまうだろう。
何だかヒルデガルトには、心霊術士がすぐ近くにいる気がしてならないのだった。すぐそばで行動を監視されているような気が……。
「……?」
そこに居たのは女学生だった。こんな夜更けにどうしたというのだろう。忘れ物でも、したのだろうか。
慌てて隠れたから、大丈夫だとは思うが、ペンキを見られてしまった可能性はある。
「もう少し、慎重にやらにゃいかんな」
ヒルデガルトは考えを改めた。
「自由ばんざい」
「自由ばんざい」
「自由ばんざい」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
「ヒトラーを倒せ!」
ひたすら落書きをして、夜が更けてゆく……。
***
翌朝、またしても現れた謎の落書きに、町は大騒ぎだった。
「自由ばんざいってのはいいねえ」
ヴィリーがハンスに耳打ちした。
「それにしても、よく一晩であんな広域に落書きをやらかしたもんだな。ビックリしたぜ」
「ははは」
ハンスは曖昧に笑った。
「白バラ」の活動はこれにてより広く強力に知れ渡ったことになるだろう。
抑圧された市民たちが、この落書きに、勇気づけられてくれるといいのだが、とヒルデガルトは思った。
とりあえず、一仕事終えたのは確かだ。今は充足感に浸るとしよう。
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