第11話 死にゆく者の声


 講義が終わると、ゾフィーは昼食をとりに食堂へ行った。ヒルデガルトはものを食べたりはしないので、一旦ゾフィーのもとを離れることにした。


 一時間ほど、ミュンヘンの上空を旅して遊んでいたが、それにも飽きてしまった。


「ゾフィーのもとに戻られますか?」


 一緒に戯れていた精霊が尋ねたが、ヒルデガルトは長い黒髪をなびかせて首を振った。


「んーん。ちょっと遠出しようかな」


 ヒルデガルトは言った。

 その気になれば、汽車よりも早く飛べる。ミュンヘンの外に出るなどちょちょいのちょいである。


「他の町の観光ですか?」

「うん」

「どこに行きましょうか。ニュルンベルク? ザルツブルク? リヒテンシュタイン?」

「いやいや、そこまで遠くは行かないよ。夕方、ゾフィーやハンスと合流したいんだ。今日は『白バラ』の会合があるんだってさ」

「わあ、そうなんですね!」

「うん、だから、それまでにはここに戻るよ。そうだな……アウクスブルクあたりにでも行こうかな」

「いいですね!」

「お供してもいいですか?」

「いいよ。ついてきたいやつらは私のドレスに掴まってな。うんと速く飛ぶから、振り落とされないようにね」

「はーい!!」


 十匹ほどの精霊が、わっとヒルデガルトにくっつく。

 ヒルデガルトは一段と高く飛翔すると、一直線に北西へ向かった。

「きゃー! あはは!」

 精霊たちは大はしゃぎである。半透明の小さな体をくねらせて喜んでいる。

「ヒヒッ」

 ヒルデガルトも悪戯っぽく笑った。

 そんなふうにして数十分も飛んだだろうか。

 ヒルデガルトは異様な雰囲気を察知して、フッと飛行をやめた。


「ん……?」


 精霊たちが、騒ぐのをやめる。


「あ……」

「ヒルデガルト様」

「これは、その」

「あの……」


 ヒルデはまっすぐ、ゆっくりと降下していった。

 下りるに従って、ずっしりした空気の層のようなものがまとわりついて、進みづらくなってきた。

 嫌な空気だ。居るだけで気が滅入る。魂が押しつぶされそうになる。


「なに、ここ」


 顔をしかめて呟く。


「ふつうじゃない……」


 鉄格子で囲われた土地の中に、粗末なバラックが建っている。

 地上まで降りて、正面らしき場所に回ると、堅牢な石造りの門があった。ナチスの軍人らしき若い男二人が、武装して番をしている。


「ダッハウ強制収容所」


 ヒルデガルトは施設の名前を読み上げた。


「強制収容って……」


 精霊たちは無言だった。恐怖におののいているようにも感じ取れた。


 それもそのはずだ。この場所はあまりにも死の気配が強かった。


 狭い面積にかなり大勢の人間がいることが、ヒルデガルトには分かった。そして、その誰もが苦しんでいることも、魂の気配から分かった。


 これは……中世の頃の貧民よりひどい。激しい戦争が起こった時のような、あるいは、ペストが流行った時のような、死の気配の強さ。……いや、それよりもみじめだ。


 人が人を一方的に殺戮している。そんな気配。


 ──生き物はみんな死ぬ。

 そして死者が幽霊となる例は非常に稀有だ。

 多くが、どこかへ消えて行ってしまう。

 その、どこかへ行く直前の……死ぬ刹那の声まで、ヒルデガルトは探ることができる。


 それが──ここでは、尋常ではない苦しみを伴って、発されているのだ。


「ああああ」

「痛いよう。苦しいよう」

「もうだめだ。神よ、どうかお助けください」

「死にたい死にたい死にたい死にたい」

「嫌だ、怖い、酷い、つらい、しんどい、痛い、寒い、ひもじい、疲れた、……」


 異様だった。

 いつもならこんなに近くからこんなに大量に流れ込むはずのない声なのに。


 しかも、この地には精霊がいない。

 どこへ行ってもうじゃうじゃといるはずなのに。


「ヒルデガルト様……?」

「うん。ちょっと、様子を見てくる」

「あ、あわわ……」


 ヒルデガルトは唇を引き締めて、その施設の中に入った。


 狭すぎるバラック。粗末なベッド。不潔な水回り。放置されている病人。鞭で叩かれて叫んでいる人。痩せこけた奴隷。


「そういえばゾフィーが言っていたな。ナチスは、反逆者やユダヤ人を大量に殺しているって。あの精霊も、ヒトラーのせいで何十万人もの人が犠牲になっていると……。もしかして、これのことか?」


 ついてきた精霊たちは、ぎゅっとヒルデガルトにしがみついた。


「政府は、あちこちから人を集めています」

「ひどい環境において、強制労働をさせています」

「おそろしくて、ここの精霊たちはどこかへ行ってしまいました」


「そうか」とヒルデガルトは呟いた。自分も何だか、ここにいたくないと思った。ぐっと我慢してその場にとどまる。「誰か、この辺りに詳しい者は?」

「……はい」


 一人の精霊が、か細い声で名乗り出た。


「私はこの地の出身ではないのですが、友が……ここから逃げてきたものがおります」

「その友は何と?」

「……虐殺だ、と。反政府主義者やユダヤ人を集めて処刑していると。あと、実験なども行なっているそうです」

「……人体実験か」

「はい」


 精霊は怯えていたので、詳細を聞くのはやめておいた。


「今は、どこの国もこんなふうなのか。それともドイツだけなのか」

「さ、さて、存じ上げません」

「風の噂では、ソ連でも似たようなことが起きていたとのことでしたが……」

「……なるほどね」


 自分も早くここを離れた方がよさそうだ。みんな怖がっている。


「行くよ」


 ヒルデガルトは真上に飛翔して収容所を発った。

 くるりと身を翻して、ミュンヘンの方角を目指す。


「ヒルデガルト様?」

「……ちょっと、色々考えたい。アウクスブルク行きは保留だ。隠し通路に戻る」

「……はい……」


 精霊たちはおとなしくヒルデガルトにひっついていた。ヒルデガルトは静かにダッハウを後にした。


「──面白半分だったよ」


 呟くようにこぼす。


「……はい?」

 精霊たちが聞き返したが、ヒルデガルトは彼らの方を見なかった。


「ゾフィーたちに協力するのは、面白半分だった。ナチスの奴らをからかってやれたら面白いと思ってた」

「……」

「でも、そんなんじゃ駄目だ。これはもっと深刻な話だったんだ。私ももう長くこの世界に存在しているけれど、あそこまで苦痛に満ちた声を大量に聞くことは、滅多になかった。皆無だったわけじゃないけど、やっぱりこれは異常だよ」

「そうなんですね……」

「そうなんだ」


 ヒルデガルトは前を見つめた。


「あんなことがあちこちで起こっているとしたら、これは大変なことだ。確かにこれは政府の奴らをやっつけなきゃ駄目だ。そしてこれは私の直感だけど……」

「……?」

「たぶん、偉い人を一人ぶっ殺したところで、何も変わらない。この状況を変えるには、内部からであれ外部からであれ、大きな改革の力が必要だと。つまり、市民の力で現政権を否定するか、それとも戦争で完膚なきまでに敗北するか……どちらかだ」


 うん、とヒルデガルトは自分で自分に頷きかける。


「だとしたら、ゾフィーたちに賭けようじゃないか。そっちの方が面白いから──ううん、そっちの方が意義が大きいから」

「意義が」

「そう。戦争に負けたって、それは外圧の暴力に屈したことにしかならない。内部から国を変える方が大事だと、私は思うよ。その方が市民にとっても世界にとってもいいんだ、結果的に」


 ヒルデガルトは束の間、目を閉じた。


「世界大戦がどんなものか知らないけど……世界に負けたら、とんでもなく強い外圧が襲ってくるんじゃないかな……」

「……」

「……そうですね……」


 そんなことを語りながら、ヒルデガルトはミュンヘンに戻った。

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