第10話 書物と講義
「その本、気が済んだら、そこに戻しておいてちょうだいね」
ゾフィーがレポートを書きながら言った。
「それ、二冊とも借り物なの。早く読んでしまわないと危ないわ」
「……危ない?」
「どっちも禁書なのよ、その本たち」
ゾフィーは小声だった。
「手に入れるのがとっても大変だから、貸してもらっていたのよ。トーマス・マンは面と向かってナチスと決別したから、彼の本を読むのは禁じられているの。ハインリヒ・ハイネはユダヤ人だから読んじゃ駄目なんですって。ハイネの本は焚書にあったりもしているのよ」
「焚書……本が焼かれることか」
「そう。とんでもない言論統制だわ」
ゾフィーは吐き捨てた。
「ナチスの統制はそれだけじゃないの。ジャズとかの敵国の音楽や、メンデルスゾーンやマーラーなんかのユダヤ人の音楽も禁止なのよ。全く、狭量で嫌になっちゃうわ……。私、ジャズ好きなのよね。こっそりラジオで聞くことがあるのだけれど、バレたら捕まっちゃう」
ゾフィーは万年筆を置いた。
「大変なんだな」
「今の時代で、自由がどれほど貴重なものか、よく分かる話でしょう」
「そうだな。ジャズってのはよく分かんないけど、うかつに歌も歌えないんじゃ、窮屈でしょうがないね」
「窮屈なんてものじゃないわよ」
「……というと?」
「自由というのは人間に与えられた当たり前の権利なのよ。法律だって何だって、それを侵害しちゃいけないの。もし自由が奪われたなら、全力で取り戻す努力をしなくちゃ」
ヒルデガルトは目を輝かせた。
かつての戦いの記憶がよみがえるような心地がしていた。
「ごもっとも!!」
「分かってくれたようで嬉しいわ」
ゾフィーは微笑んだ。
ヒルデガルトはつられて「ヒヒッ」と笑った。ゾフィーはなかなかものの分かる人間だ。真面目すぎるきらいはあるが、優しくて穏やかな性格だ。ヒルデガルトがこの時代で楽しくやっていくぶんには、いい友達となってくれそうである。
もっと、この子のことを知りたい。
「ねえ、明日ゾフィーについていってもいいかな?」
ヒルデガルトは聞いた。
「え? ついてくるって……大学にってこと?」
「うん。面白そう」
「ええと、静かにしてくれるなら、構わないわ」
ヒルデガルトはドレスをひらひらさせて喜んだ。
「やったね」
「変なこと、やらないでくれるわよね?」
「分かってるって。私だって幽霊だ何だと大騒ぎされたら何かと不便なんだ。敵に見つかっちゃうし。大人しくしているよ」
「敵?」
「幽霊を封印しちゃうやつらがいるんだよ」
「へえ……」
翌日、ヒルデガルトはゾフィーとハンスについて、ミュンヘン大学まで飛んで行った。
「ヒルデがゾフィーについてくるのはいいが、変に怪しまれるようなことはしないでくれよ」
ハンスが心配そうに念を押してくる。ゾフィーはヒルデガルトを見ないまま頷いた。
「ええ。私、教室ではヒルデと喋らないから、よろしく」
「そうだろうね。他の人間から見たら、独り言をブツブツ言っているみたいになってしまう。いいよ、私は私で勝手に喋っているから」
「喋るのね……」
「ヒルデも他の人に聞こえたり気づかれたりしないように注意してくれよ」
「任せなさい!」
大学のメインホールに入ったゾフィーとハンスは、それぞれの教室に分かれて行った。
哲学の講義を受けるゾフィーは二階、医学の講義を受けるハンスは一階である。
メインホールは最上階の三階まで吹き抜けになっていた。ヒルデガルトは「ヒャッホーイ!!」と天井まで突進し、ゾフィーのもとまで急降下した。ゾフィーは廊下を進んでゆく。ヒルデガルトは、ゾフィーが戸を開けるのを待てずに、教室に滑り込んだ。
ゾフィーが空いた席に座る。周りの学生の中にはボソボソしたお喋りをしているものもあったが、ゾフィーは無言で教科書を読んでいた。
やがて、五十代くらいの男性が入室してきた。ゾフィーは指で机を叩いてヒルデガルトに合図すると、ノートにこう書き込んだ。
「クルト・フーバー教授」
フーバー教授が教壇に立つと、お喋りはスッと止んだ。
「今日はみなさんに、現代において議論されている実存主義について講義をする予定です。大学側からのたっての願いで、講義の最後に、講演者を招いて、演説を行なっていただきます。……本当は一限ぶんをたっぷり使いたいとのお話でしたが、私の講義が遅れてしまっては困るので、時間を縮めていただきました」
フーバー教授は肩をすくめた。
「貴重な機会ですから、みなさんよく聞くように。では、講義を始めます」
とってつけたように言い、分厚い本のページを開く。ヒルデガルトはふわふわとその本を覗きに行ったが、専門用語が多く、メモや線引きがたくさんしてあって、とても読みにくかった。
ヒルデガルトは講義を比較的真剣に聞いた。精霊たちもヒルデガルトの真似をして、空中にきちんと足を揃えて座り、フーバー教授の言葉に耳を傾けた。
講義の最後になると、フーバー教授は時計を見た。それからどこか不本意そうに、教壇に一人の男を招いた。
紹介された男の服の襟には、鉤十字のバッジがきらりと光っていた。
「うわ」
ざわめきに混じって、ゾフィーは小さく呻いた。
「フーバー教授も気の毒に」
その男は、威厳たっぷりに学生たちを睥睨すると、「ハイル・ヒトラー!」と右手を上げた。
学生の中には元気そうにそれに応じるものや、どうでもよさそうに周囲に同調するものがいた。ゾフィーは他の学生に混じって、気のない声でモゴモゴと「ハイル・ヒトラー」と復唱し、力無く右手を上げた。
男は満足そうに頷くと、やたらと張りのある野太い声で、演説を開始した。
「ドイツ民族の勝利のために、我々に必要なことは団結である!」
ヒルデガルトは姿勢を崩して、つまらなさそうに空中で一回転した。この迷惑な男に悪戯をしてやろうかと思ったが、ゾフィーを笑わせたらいけないので我慢した。
「──スターリングラードにて、我々はたしかに敗北した。しかしくじけてはいけない。これは試練だ。ドイツ人への、存在の真理に対する試練なのである。諦めなければ、最後は必ず我々が勝利する。今こそ、ドイツ人が真にヨーロッパ的、ひいては世界的に由緒ある民族であることを示そうではないか」
演説はたいへん盛り上がった。合間合間に拍手が入った。
男が言葉をしめくくると、やんややんやの大喝采、立ち上がって絶賛する学生も出た。むろん、立ち上がらない学生もいて、ゾフィーも無表情で動かずにいた。
「今の、哲学ってやつじゃなくないか?」
ヒルデガルトは逆さまに浮遊しながらゾフィーに耳打ちした。
「単なる政治的な演説じゃないか。フーバーってやつの方が、難しいけど良い感じだったな」
「そうね」
ゾフィーはごく小さな囁き声で答える。
「この国では、まともな学問すら脅かされているというわけ。私たち学生が不満を抱くのも頷けるでしょう?」
そりゃそうだな、とヒルデガルトは納得した。
「なんか……ゾフィーも大変だな。ちょっと本気で同情する」
「それはどうも」
ゾフィーは鞄を持ち上げて立ち上がった。
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