第13話 調査依頼

 翌日、通報を受けたゲシュタポは、戦争で捕まえた捕虜を動員して、落書きを消させる作業に取り掛かった。捕虜たちは虚ろな瞳で、命令されるがままに、べったりとついた白いペンキをブラシを使ってゴシゴシと消していく。


 同時に、ナチスによって、落書きの犯人探しが始まる。


 ゲシュタポの下っ端、調査員階級のウーヴェ・ミュラーは、いかめしい制服に身を包んで、周辺住民に聞き取り調査を行なっていた。だが、これが全くもってはかばかしくない。


「昨日の夜、ここで怪しい輩を見かけなかったかね」

Nineナイン(いいえ)」

「この落書きをした人物に心当たりはあるかね」

「Nine」

「白いペンキを持った学生を見なかったかね」

「Nine」


 人々は怯えた風に否定するばかりで、ちっとも情報が集まらない。ここまで目撃者がいないということがあるだろうか。

 人通りが全くなくなるとしたら、空襲警報が鳴っている最中にことを行なったということになるか……。命知らずの、大胆不敵な輩だ。非常にけしからんことだ。


 落書きは大学構内にまで及んでいた。これを全部消すのは相当骨が折れそうだ。捕虜たちをコマネズミのごとく働かせねばなるまい。

 ウーヴェは、大学の受付まで出向いた。


「昨日の夜遅く、大学に侵入者はいなかったかね」


 管理人に尋ねても、やはり返事はnineだった。警備員に尋ねても同じ。誰も、大学構内で落書きをした人を見ていない。

 ウーヴェは焦りを抱えながら、大学構内をうろうろする。


「失礼、昨晩ここで怪しいものは見なかったか」

「みっ」


 声をかけた女子学生は、やたらと怯えた様子で飛び上がった。


「見てません」

「どんな小さなことでも、報告するのはドイツ国民の義務だぞ、お嬢さん」


 優しく問うと、彼女はか細い声で何かを言いかけた。


「あの……」

「何だね?」


 そうして飛び出してきたのは、突拍子もない言葉だった。


「白い液体が……たぶんペンキが……勝手に宙に浮いてました」


 ウーヴェは面食らった。


「は?」

「何だか、ポルターガイスト現象みたいだなって思って」

「ポルターガイスト現象!?」

「あの、何かの手品の練習かと思って、見ていたんですけど……」


 学生は、急に慌てたように首を振った。


「いえっ、すみません、何でもないです!! 馬鹿なこと言ってすみません!! 失礼します」

「ちょっと待ちたまえ。そのことについて詳しく話しなさい」


 呼び止めると、学生はおどおどと自信がなさそうに目を泳がせた。


「浮いたとは、どういう状況かね?」

「あの……白いペンキみたいなものが、宙をこう、スーッと横切って……あははは、目の錯覚ですよ。あははははは……」


 ウーヴェは困惑した。しかし、取りあえず貴重な目撃者を見つけたわけだ。手がかりは手放したくない。


「君、電話番号は?」


 ウーヴェは尋ねた。


 ***


 ……結局、それ以上の収穫はないままだった。教えてもらった電話番号を握りしめて、ヴィッテルスバッハ宮殿に帰還する。非常に遺憾である。


 ポルターガイスト現象を見た学生がいるということを怯えながら上官に報告をすると、上官は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。今に怒鳴り散らされると覚悟していたウーヴェは、拍子抜けした。てっきり、くだらないことを言うなと叱責を受けるとばかり思っていたのだ。


 次に上官が入って来たとき、彼は一枚の紙切れをウーヴェに渡してきた。そして、奇妙な命令を下した。


「明日以降、心霊術士のギュンター・ローテンベルガーという男を訪ねなさいと、上官からの命令が下った。住所と電話番号はここに書いてある」


 心霊術士?

 ウーヴェはポカンとした。


「失礼ながら、その、心霊術士というのは……」

「心霊現象を扱っている探偵のことだ。探偵は副業らしくてな、日中は工場勤務をしているから、会えない可能性が高い」


 ウーヴェは恐る恐る、小柄な上官を見下ろした。


「恐れながら、その、心霊現象とやらは……本当なのでありますか? まともに取り合っていいのかどうか……」

「上官が仰るからには本当なのだろう。我々は命令通りに動くだけだ。まともに仕事に取り組みたまえ。その心霊術士とやらと連絡を取るのは、貴様に一任する」

「はっ」


 変な仕事を押し付けられてしまった。上官も人使いが荒い。


「では、くれぐれも失敗のないように」

「はっ。ハイル・ヒトラー」

「ハイル・ヒトラー」


 二人はナチ式敬礼をすると、それぞれの持ち場に戻った。


 ウーヴェは困惑を顔に張り付けながら、とにもかくにも机について、電話のダイヤルを回す。ジリリリ、ジリリ、ジリリリ。――ローテンベルガーなる男は、なかなか出ない。まだ仕事中か、かけ直そう、と思った頃に、ガチャリと音がして応答があった。


「はい。こちら、ローテンベルガー」


 ウーヴェは恐る恐る問いかける。


「あー、心霊術士……? の、ローテンベルガーだな?」

「冷やかしなら承っておりませんが。切りますよ」


 無情にもそう言われて、ウーヴェは慌てて付け足した。


「いや、冷やかしではない。私はゲシュタポのウーヴェ・ミュラーだ。貴様に依頼を」

「ゲシュタポ!?」


 驚いた声がする。それはそうだろう、泣く子も黙るゲシュタポ様から直々に電話がきたら、誰だってびっくりする。

 ところが、電話口の男は、臆した様子もなく言った。


「それはもう大歓迎です。ご依頼、お受けしますとも。報酬は期待できるんですよね?」

「……」


 あけすけな男だ、とウーヴェは思った。どうせ、どいつもこいつも報酬と保身目当てでゲシュタポに協力しているのが実情ではあるが、普通はもう少し本音を隠すところだろう。


「報酬なら、期待してくれていい。それに、ゲシュタポに協力したという実績も得られるだろう。これは将来に有利にはたらく」

「分かりました。では、詳しいお話はお会いした時に。丁度明日は休日ですが、いかがですか?」

「構わない」

「では明日の午後三時に、我が家へお越しください。お待ちしておりますよ」

「あ、ああ……」


 ガチャンと受話器が置かれる音がした。


 ウーヴェは急に不安になってきた。

 あの電話口の男は本当に心霊術士なのだろうか。何かの勘違いなのではないだろうか。行ってみて、いざ話を切り出す時に、「ポルターガイスト現象が……」などと言い出したら、笑われたりはしないだろうか。

 いや、そもそもポルターガイスト現象など現実にあるわけがないのだ。これは愚かな住民が、何らかの科学的現象を見間違えただけ。女学生のいう通り、手品か何かの一種。その正体を探るというのが、心霊術士とやらの仕事に違いない。

 そうとなると少し興味が湧いてきた。触れずにものを動かすような手品が、どういった仕掛けで行われたのか。それが解き明かされれば、犯人の特定にも一歩近づく。


「これは、重要な仕事だぞ」


 ウーヴェは気合いを入れ直した。

 犯人を見つけることが出来たら、この仕事を一任されたウーヴェは、出世待ったなし。給料もうなぎのぼりであろう。

 何より、ヒトラー総督を邪魔するような愚か者を始末することは、ナチスとして当然のつとめ。この国をより良く、より強く、より優秀にするためにも、反逆者を早く炙り出さねばなるまい。

 一人だけでも反逆者が見つかれば、芋づる式に他の協力者も見つかるに違いない。これは巨大な陰謀を一挙に暴くことへの一助にもなるのだ。

 面倒で厄介な任務かと思ったが、任されたからには立派にやり遂げてみせよう。そして犯人の尻尾を必ずや掴むのだ。

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